第六話 荷運びの武器
翌朝。
荷役場へ行く前に、治療所へ寄った。
セナは、ベッドの上で体を起こしていた。
頬の赤みは、昨日より薄い。でも、顔色はまだ白い。
「熱は?」
「下がりかけてる、って言われた」
「よかったです」
俺は、紙包みを差し出した。
「何」
「パンです。柔らかい方の」
セナは包みを開けて、一口かじった。
「……石じゃない」
「今日のは、焼きたてなので」
「ありがとう」
小さく、そう言った。
食べ終えるまで、セナは何も言わなかった。
それから、紙を丁寧にたたんで、膝の上に置いた。
「カイ」
「はい」
「何か、考えてるでしょ」
「……顔に出てますか」
「出てる」
嘘が苦手なのは、顔にも出るらしい。
俺は、正直に言った。
「あの力のことを、調べたいんです。何ができて、何ができないのか。胸の奥に残ってる、あの重いのが、何なのかも」
「一人で、下へ行くつもり?」
「行きません。組合に、昇降路へ入るなと言われてますし」
「それ以外でも」
セナの目が、まっすぐ俺を見た。
「約束して。一人で、迷宮の下には行かない」
「……はい。約束します」
「それと」
「はい」
「調べるなら、人目のない所で。使うなって言ってるんじゃない。知るなら、慎重にやれって言ってる」
「分かりました」
セナは、小さくうなずいた。
「……私も、早く歩けるようにする」
「無理は、しないでください」
「あなたに言われたくない」
少しだけ、口元が緩んでいた。
昼の休みに、俺は一人で荷役場の隅へ行った。
昇降路の縦穴には、組合が縄を張って、立入禁止の札を下げている。
縄の外側なら、入ったことにはならない。
縄から十歩ほど離れた木箱に、腰を下ろした。
目を閉じて、胸の奥へ意識を向ける。
矢と刃のことを、思い出した。
どちらも、取り込んだ瞬間から、向きが分かった。撃つ先も、出す場所も。使うまでは、静かだった。
でも、この重さは違う。
向きも、形も分からない。ただ、重い。
息を、ゆっくり吐く。
何も起きない。
目を開けて、何気なく、縦穴の方へ顔を向けた。
その瞬間。
胸の奥の重さが、ほんの少し、傾いた気がした。
背筋が、ぞくりとした。
気のせいか。
顔を、荷役場の門の方へ向けた。
重さは、静かだった。
もう一度、縦穴の方へ。
やっぱり、傾く。
水の入った桶を、少しだけ斜めにしたときのような感じだ。
重さが、下の方へ、すっと寄っていく。
三度、試した。
三度とも、同じだった。
「何してる」
背中から、声がした。
ドランさんだった。
「昼寝か」
「考え事です」
「その顔でか」
「どんな顔ですか」
「便所を我慢してる顔」
「違います」
笑ってしまった。
ドランさんは、パンを大きな手でちぎって、半分よこした。
「食え。午後は、荷が多いぞ」
「ありがとうございます」
それ以上は、何も聞かずに、荷役場の方へ歩いていった。
「何も聞かねえ」を、守ってくれているらしい。
ありがたくて、少しだけ、胸が痛かった。
俺は、荷物入れから小さな木の札を出した。
荷札用の、白い板だ。炭の欠片で、そこに印をつける。
縦穴の方角。座っていた場所。時間。
荷運びは、荷の置き場所を、必ず記録する。癖みたいなものだ。
明日は、少し離れた場所で、同じことを試してみよう。
距離が変われば、重さの動きも変わるかもしれない。
何も分からないなら、分かるまで、記録を増やせばいい。
新しい疑問は、一つ。
どうして、縦穴の方へ傾くのか。
午後は、荷車が次々に入ってきた。
荷役場の奥には、滑車を使った吊り上げの腕木がある。荷車から樽を網で包んで吊り上げ、二階の倉へ運び込むための設備だ。
その日は、油の樽が八つ。
ドランさんが、全体を見ていた。
吊り網を結ぶのは、新入りのミロの仕事だった。
「結べました!」
「よし、巻き上げろ」
鎖が鳴った。
網に包まれた樽が、ゆっくり浮く。
網の下の輪には、振れ止めの縄が結んである。荷が振れないよう、地上から引いて止めるための縄だ。縄の端は、柱の杭に掛けたままになっていた。
そのとき、俺は気づいた。
何かが、違う。
網の傾きだった。
樽の重さが、片側に寄っている。
下の結び目が、荷の重さでじわじわと締まって、反対側の縄が、少しずつ緩んでいく。
結び方が、違う。
縦に結んだ縄は、荷がかかると、ほどける方向に滑る。
しかも、真下では、ミロが次の荷車から樽を降ろそうと、背を向けて立っていた。
網が傾いている方向と、ミロの立つ位置が、重なっている。
考えるより先に、口が動いた。
「止めてください! 巻き上げ、止め!」
「あ?」
「その網、結びが違います! 下に人が!」
鎖が、止まった。
でも、網の縄は、すでに滑り始めていた。
結び目が、ずる、と動く。
樽が一つ、網の外へ傾いた。
「ミロ! 逃げろ!」
ミロが振り向いた。
固まっている。
足が、動いていない。
ドランさんが、もう走り出していた。でも、距離がある。
間に合わない。
そのとき、胸の奥の重さが、ずしりと動いた。
……だめだ。
ここで、使うわけにはいかない。
何が起きるか、分からない。
それに、人が見ている。
俺は、柱の杭へ走った。
樽の真下には、入らない。落ちる線から外れた、柱の脇。背中側には、荷車一台分の空きがある。逃げ道は、ある。
杭に掛かっている振れ止めの縄を、もう一巻きして、握った。
「ドランさん! 数秒、持たせます!」
縄が、ぴんと張った。
網の傾いた側の輪が、縄に引かれて、止まる。
でも、止まったのは、一瞬だけだった。
樽の重さが、縄を引きずる。
杭の上で、縄がぎりぎりと鳴った。
手のひらが、焼ける。
「くっ……!」
腕で止めているんじゃない。杭が、重さを受けてくれている。縄が杭の上を滑るたびに、勢いが削れていく。
荷運びで、何度も叩き込まれたやり方だ。
網の傾きが、ゆっくりになった。
一秒。
二秒。
三秒。
「ミロ、こっちだ!」
ドランさんが、ミロの襟をつかんで、後ろへ引きずった。
その直後、縄が杭の上を最後まで走り抜けて、手から離れた。
どすん、と音がした。
樽が、石畳に落ちた。
ミロのいた場所から、少し外れている。
人は、いない。
割れた樽から、油がじわりと広がっていった。
静けさ。
それから。
「……っ、は」
ミロが、座り込んだまま、息をした。
「あ、ありがとう、ございます……!」
「いえ。縄が、ほどけただけで」
「カイ」
ドランさんが、ゆっくり近づいてきた。
「見てたのか、最初から」
「網の傾きが、変だったので」
「それで、止めた」
「はい」
「縄で数秒、持たせたろ。おかげで、ミロの襟に手が届いた」
ドランさんは、にやりと笑った。
「ミロ。結び目、見せてみろ」
網を調べると、やはり縦結びだった。
「縄は、嘘をつかねえな」
ドランさんが、ミロの頭を軽く叩いた。
「次から、俺か、カイに見せろ。結び方を教えてやる」
「はい! ……カイさん、お願いします!」
「俺で、いいんですか」
「いいも何も、お前が一番、結び目に詳しいだろ」
周りの荷運び仲間が、拍手した。
誰かが、口笛を吹いた。
俺は、焼けた手のひらを握りしめて、笑った。
片付けのあと、荷役場の端で、手のひらに水をかけていた。
赤くなっていたけれど、皮は破れていない。
「いい縄さばきだった」
声に振り向くと、オルトが立っていた。
管理所の窓から、見ていたのだろう。
「……ドランさんに、叩き込まれたので」
「現場で、あれができる者は多くない」
「ありがとうございます」
オルトは、それ以上、何も言わなかった。
視線だけが、一度、縦穴の方へ流れた。
「昇降路の件は、まだ調べている」
「はい」
「お前は、手を出すな」
「……はい」
オルトは、背を向けて去っていった。
その背中が見えなくなってから、俺は、やっと息を吐いた。
「おう、カイ」
ドランさんが、帰り支度をしながら、声をかけてきた。
「そうだ。治療所から、言伝があった」
「セナさんから、ですか」
「ああ。お前に、話があるそうだ。今夜、顔を出せ、だとよ」
「……はい。行きます」
「無茶、させられるなよ」
「はい」
ドランさんは、笑いながら、手を振って帰っていった。
俺は、荷物入れの木の札を取り出した。
今日の分の印を、確かめる。
縄と、目と、この手。
罠を取り込む力だけが、俺の武器じゃない。
そう思えた。
治療所へ向かう道で、縦穴の近くを通った。
立入禁止の縄の向こうに、昇降台の影が見える。
胸の奥の重さが、また、ほんの少しだけ、傾いた気がした。
下の方へ。
何が、あるんだろう。
俺は、歩く足を止めずに、前を向いた。




