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第四話 差し出された手

太い腕が、俺の脇の下に回った。


次の瞬間、体が持ち上がった。


昇降台の縁を越えて、石の床に足がつく。


膝が笑った。立っていられたのは、ほんの一瞬だけだった。


「カイ! お前、本当に……!」


ドランさんが、俺の肩を両手でつかんだ。


その手が、震えている。


「落ちたと思ったんだ。あの床が割れて、お前が消えて、声も聞こえなくなって」


「ドランさん。苦しいです」


「あ、すまん」


手が離れた。


でも、すぐにまた、頭をぐしゃぐしゃにかき回された。


「生きてた。生きてたんだな」


「……はい。ドランさんが、逃げろって言ってくれたので」


「俺は、何もできなかった」


「叫んでくれたじゃないですか。あれがなかったら、俺は走ってません」


ドランさんは、顔をくしゃっと歪めた。


それきり、何も言えなくなった。


昇降路の出口は、石造りの広い荷役場だった。


壁際に荷車が並び、天井から吊ったランプが揺れている。外へ続く大きな門の向こうに、夕焼けの空が見えた。


地上だ。


本当に、戻ってきた。


胸の奥がじんとして、危うく座り込みそうになった。


でも、今は先に言わなきゃいけないことがある。


「ドランさん! 台に、もう一人います。怪我人です!」


「怪我人?」


ドランさんが、台の隅をのぞき込んだ。


上着にくるまったセナが、壁にもたれていた。


目は開いている。でも、焦点が合っていない。


「担架だ! 誰か、担架持ってこい!」


荷運び仲間が二人、走ってきた。


セナが、体を起こそうとした。


「……自分で、歩く」


「歩けないでしょう」


「歩ける」


「セナさん」


「歩ける」


立ち上がろうとして、左脚がまた沈んだ。


俺が支える前に、ドランさんが言った。


「いいから、乗せてもらえ。運ぶのは、俺たちの仕事だ」


セナが、ドランさんを見た。


それから、少しだけ息を吐いた。


「……お願いします」


担架に乗せられる間、セナは俺の袖をつかんだままだった。


指先は、まだ冷たい。


「セナさん?」


「……仲間が」


かすれた声だった。


「まだ、下にいるかもしれない。ギルドに、知らせて」


「仲間?」


ドランさんが聞き返した。


でも、セナはそれ以上、何も言わなかった。


袖から、指が離れた。


「寝たか」


「……はい。たぶん、力が抜けたんだと思います」


「急ぐぞ。迷宮前の治療所まで走る」


担架が持ち上がる。


俺も、ふらつく足で後を追った。


道を進みながら、ドランさんが言った。


「なあ、カイ」


「はい」


「あの昇降路の扉、鍵がないと開かないはずだろ。お前たち、どうやって通った」


足が、一瞬だけ止まりそうになった。


「……開いてました」


「開いてた?」


「はい。たぶん、誰かが閉め忘れたんだと思います」


自分でも、下手な嘘だと思った。


ドランさんは、しばらく俺の顔を見ていた。


「……そうか」


「はい」


「まあ、いい。生きて戻ったんだ。細かいことは後だ」


そう言って、前を向いた。


息を吐くのを、必死でこらえた。


胸の奥の重さは、静かなままだった。




迷宮前の治療所は、石造りの小さな建物だった。


白髪の治療師が、すぐにセナの脚を診た。


「布を外すよ」


セナは、まだ眠ったままだ。


治療師が、俺が巻いた布を静かにほどく。


傷が、あらわになった。


思わず、目をそらしそうになった。


治療師は、傷と布を交互に見た。


「これを巻いたのは、誰だい」


「……俺です」


「あんたが」


「すみません。ちゃんとした手当てじゃなくて」


「いや」


治療師は、布の結び目を指で確かめた。


「傷の上は、押さえて留めてあるだけ。結び目は、外側に作ってある。これなら、運んでいる間にも、ずれにくい」


「荷運びの結び方です」


「なるほど。道理で、解けにくいわけだ」


治療師は、少しだけ口の端を上げた。


「素人の仕事にしては、上出来だよ。おかげで、血があまり流れずに済んだ」


「……本当ですか」


「ああ。傷は深いし、熱もある。しばらくは、安静にしないといけない。でも、命に関わる状態じゃない」


膝から、力が抜けた。


壁に手をついて、ようやく息を吸えた気がした。


「ありがとうございます」


「礼は、あの子が起きたら言ってやりな。ここまで脚を保ってたのは、本人の根性だ」


「はい」


治療師は、傷の手当てを始めた。


俺は部屋の隅の椅子に座って、それを見ていた。


眠っているセナの顔は、いつもより少し幼く見えた。


ずっと、剣を握っていた手。


その指が、今は力なく開いている。


「カイ」


ドランさんが、小声で呼んだ。


「ここは、俺が見てる。お前は少し休め」


「いえ。俺も」


「顔色が、ひどいぞ」


言われて、自分の手を見た。


爪の先まで、真っ白だった。


そのときだった。


「……ギルド」


ベッドの上で、セナが小さく呟いた。


目は、閉じたままだった。


でも、唇が動いていた。


「みんなに、知らせて」


寝言だった。


でも、ほかの誰にも聞こえない声で、俺にははっきり届いた。


俺は立ち上がった。


「ドランさん。ちょっと、出てきます」


「どこへ」


「探索者ギルドです。セナさんに頼まれたので。仲間が下に残ってるかもしれないって、知らせないと」


「お前一人で? その体で?」


「連れてきたのは、俺なので」


ドランさんは、しばらく黙っていた。


それから、大きな手で、俺の背中を叩いた。


「行ってこい。ただし、無茶はするなよ。組合には、俺から、お前が戻ったと報告しておく」


「はい。お願いします」




探索者ギルドの建物は、治療所から通りを三つ越えた先にあった。


夕方で、広間は人であふれている。


鎧の音。笑い声。酒と汗の匂い。


荷運びの俺が来る場所じゃない。


それでも、受付の列に並んだ。


順番が来ると、受付の女性が、俺を見て眉を上げた。


「依頼ですか」


「いえ。確認したいことがあって。セナという、剣を使う探索者の、パーティについてです」


「セナ……ああ」


女性は、帳面をめくった。


「三人組の。昨日、下の階層の調査依頼を受けていますね」


「その、ほかの二人は」


「まだ、帰還の記録はありません」


胸の奥が、冷たくなった。


俺は、息を吸った。


「報告させてください。セナさんは、迷宮の下で、仲間とはぐれたんだと思います。地上へ運ばれる前に、頼まれました。仲間がまだ下にいるかもしれないから、ギルドに知らせてほしい、と」


女性の手が、止まった。


「……あなたは、その二人を、見ましたか」


「いえ。俺は会っていません。どこにいるのかも、無事なのかも、分かりません」


「分かりました」


女性は、帳面に何かを書き込んだ。


「セナさんのパーティに、未帰還の可能性がある者が二名。報告者は、荷運びのカイ。内容は、本人からの伝言。……間違いありませんか」


「はい。間違いないです」


「担当の者へ、回しておきます」


そう言って、帳面の端に印をつけた。


「その二人の名前と、どこへ向かったのか、教えてもらえませんか」


「ご家族の方ですか?」


「いえ。荷運びです。さっき、地上で会って」


「でしたら、詳しいお話はできません。ギルド員以外には」


「分かりました」


そう答えるしかなかった。


でも、足が動かなかった。


セナは、一人で帰ってきた。


ずっと、仲間の名前を呼びながら。


「あの」


俺は、もう一度だけ言った。


「彼女、今、治療所にいます。目が覚めたら、必ず自分で報告に来ます。だから」


「承知しました。本人から詳しい事情を伺えるまで、こちらでも状況を整理しておきます」


女性は、淡々と答えた。


ほんの少しだけ、目が柔らかくなった気がした。


礼を言って、列を離れた。


扉へ向かおうとしたとき。


後ろから、声をかけられた。


「荷運びのカイ、だな」


振り向くと、灰色の制服を着た男が立っていた。


胸に、荷運び組合の印がある。


「……はい」


「組合の者だ。お前を捜していた」


「俺を、ですか」


「ドランから、お前が荷役用の昇降路から戻ったと報告を受けた。その件で、話を聞きたい」


「治療所に寄ったら、ドランが教えてくれた。お前は、ギルドへ行った、と」


喉が、鳴った。


「あの扉は、鍵がなければ開かない。だが、今日、鍵を使った記録がないのに、昇降台が動いた」


男の声は、淡々としていた。


ただの確認なのか、疑われているのか、顔からは読めない。


「どうやって、開けた」


俺は、息を止めた。


胸の奥の重さが、ゆっくりと、また動いた。

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