第二話 二人分の帰り道
セナの左脚は、思っていたよりひどかった。
巻いてあった布をほどくと、ふくらはぎに深い裂け目があった。獣の爪の痕だろう。血はまだ止まりきっていない。
「見ないで。慣れてないでしょ」
「慣れてはないです。でも、縛るのは得意です」
俺は荷物入れから、荷を包むための乾いた布と、細く裂いた布の帯を出した。
荷運びの仕事で一番怒られるのは、荷崩れだ。だから結び方だけは、先輩のドランさんに何度も叩き込まれた。
「失礼します。痛かったら言ってください」
返事を待たず、乾いた布を重ねて、傷の上へ当てた。
手のひらで、しっかり押さえる。
「っ……!」
「すみません。血が止まるまで、少しこのままです」
「……分かってる。続けて」
セナは歯を食いしばって、壁を見ていた。
布に、赤い色がにじむ。
でも、さっきほどは広がらない。しばらく押さえていると、にじむ速さがゆっくりになった。
「帯、回します」
細い布の帯を、脚に回した。
傷を締めつけるためじゃない。当てた布がずれないように、上から包んで留めるだけだ。
最後に、ほどけない結び目を作った。
「できました。でも、ちゃんとした手当てじゃないです。ちゃんとした人に診てもらうのは、地上に戻ってからです」
セナは自分の脚を見て、それから俺の手元を見た。
「……手慣れてる」
「荷物と同じで、動かさないのが大事なので」
「私は荷物じゃない」
「はい。荷物より、ずっと大事です」
言ってから、変なことを口走った気がした。
セナは何か言いかけて、やめた。
代わりに、鼻から短く息を吐いた。
彼女は剣を杖にして、立ち上がろうとした。
左脚に体重がかかった瞬間、膝が沈む。
「危ない!」
倒れる前に、肩で受け止めた。
思ったより軽い。服ごしに、体の熱が伝わってくる。
「……放して」
「放したら、また転びます」
「転んでも、自分で起きる」
「そのときは、起きるのを待ちます。でも、今は歩いた方が早いです」
セナは俺をにらんだ。
俺は目をそらさなかった。
先に折れたのは、彼女だった。
「……肩だけ貸して」
「はい」
「それ以外は、触らないで」
「はい」
こうして俺たちは、二人で歩き出した。
通路は、ゆるく下へ曲がっていた。
壁には古い松明の台が並んでいるが、火はない。かわりに、天井の石が薄く光っている。足元は見えた。
俺は一歩ごとに、床を確かめた。
「次は、話を聞いて」と言われたばかりだ。
「止まって」
「はい」
「そこ。床の継ぎ目が、ほかより細い」
セナが指した先を見る。
言われなければ、気づかない程度の線だった。
「ほこりも、そこだけ薄い。誰かが踏んで動いた跡」
「……動いた跡」
「罠は、仕掛けてあるだけじゃない。使われたあとも残る。覚えておいて」
俺は継ぎ目をまたいだ。
それだけで、背中の汗が冷えた。
「探索者って、みんなこういうのが分かるんですか」
「みんなじゃない。分かる人だけが、長く生きる」
さらっと言われて、返す言葉がなかった。
少し進んでから、セナが言った。
「さっきの、あれ」
「あれ、って」
「壁の核に触ったこと」
来た、と思った。
「……すみません。勝手なことをして」
「責めてない。聞いてるだけ」
俺は少し考えてから、正直に答えた。
「分かりません。気づいたら、手が出てました。あの赤い光が、なんていうか……呼んでるみたいで」
「呼んでる」
「パンの匂いがするみたいな」
「パン」
「すみません。うまく言えなくて」
セナは、しばらく黙っていた。
「罠の核を、手で取る人間は見たことがない」
「やっぱり、普通じゃないですか」
「普通じゃない。しかも、取った罠を撃った」
そこで、足を止められた。
肩に置かれた手に、力が入っていた。
「あなた。それ、人に話さない方がいい」
「どうしてですか」
「珍しすぎる力は、持ち主より先に、周りが欲しがるから」
「…………」
「地上に戻ったあとも。今は、私しか見てない」
「セナさんには、見られましたけど」
「私は言わない。助けてもらったから」
さらっと言った。
俺はまた、返事ができなかった。
通路の先で、急に広い廊下に出た。
長い廊下だった。左右に太い柱が並び、その間を、大きな刃が行ったり来たりしている。
三つ。
間隔の違う振り子の刃が、石の床すれすれを揺れていた。
風を切る音が、ここまで聞こえる。
「……あそこを、通るんですか」
「通らないと、先に行けない。ほかに道があるなら、別だけど」
見回した。
左右は壁。後ろは、さっきの通路だけ。
セナは廊下を見つめて、指を折った。
「三つの刃の拍が、ずれてる。一つ目が行って、二つ目が戻って、三つ目が……」
「通れそうですか」
「私が万全なら。でも、今は無理。脚が間に合わない」
だったら。
俺は柱のあいだを見た。
どの柱も、足元に小さな石の継ぎ目がある。いちばん奥の柱の根元に、赤い点が見えた。
「あれ」
「見えた?」
「はい。奥の柱の下です。ちょっと光ってます」
「近づかなくても分かるの」
「分かります。近づくほど、強くなります」
セナは短く息を吸った。
「取るつもり?」
「取れば止まる、と思います。さっきは、そうでした」
「その前に、一つだけ」
セナは俺の袖をつかんだ。
「さっきは、取った罠があなたの中に残った。今回も同じなのかは、私には分からない」
「……俺にも、分かりません」
「一度に、どれだけ取れるのかも。私も知らない。だから、危ないと思ったら、すぐやめて」
「はい」
俺は胸へ手を当てた。
矢を撃ち切ったあと、胸の奥が空っぽになった感覚があった。
いまは、空っぽだ。それが何を意味するのかは、俺にも分からない。
「使い道は、自分で決めて」
俺はうなずいた。
柱へ近づく。
継ぎ目を避けて、セナが数えた拍に合わせて、一歩ずつ。
刃の風圧が、頬をなでた。
最後の柱まで、あと三歩。
二歩。
一歩。
俺は柱の根元へ、手を伸ばした。
赤い光が、指へ絡み付く。
熱。
腕を上り、胸の奥へ落ちる。
廊下を揺れていた三つの刃が、同時に止まった。
そのまま、赤い光になって消える。
天井の穴から、細い鎖だけが垂れて揺れた。
胸の中に、重いものがある。
大きな刃だ。
天井から落ちて、幅いっぱいを薙ぎ払う、一度きりの振り子。
そのとき、廊下の入り口でセナが叫んだ。
「カイ! 戻って!」
初めて、名前を呼ばれた。
「何かいる! 来る!」
廊下の反対側。
闇の中で、爪が石を引っかく音がした。
灰色の毛皮が、こちらへ走ってくる。
二匹。
さっきの獣と同じ、口の長い犬に似た魔物だった。
「……群れだったんだ」
「一匹だけだと思い込んでた私が悪い」
俺は走って廊下を戻り、入り口にいるセナのところへ着いた。
そこには、四角い石の門があった。幅は、人が二人並んで通れるくらい。
「どうする?」
「狭いところで迎える。広いところだと囲まれる」
「あの門の先で待ちます。獣は、門をくぐるしかありません」
「私が前に」
「その脚じゃ無理です」
「あなたの方が、ずっと無理」
「だから、考えがあります」
俺は胸に手を当てた。
セナが目を見開く。
「使う気?」
「はい。門の上から」
「……分かった。合図は、私が出す」
俺たちは門から三歩下がった。
セナは、門の脇の壁に背中を預けた。剣は、右手に握ったままだ。
俺はその反対側に立ち、門を見据えた。
二匹の獣が、廊下を駆けてくる。
爪が石を打つ音が、どんどん近づく。
門まで、あと十歩。
八。
六。
「まだ」
四。
「まだ」
先頭の一匹が、跳ぶ構えに入った。
「今!」
俺は門の上へ、手を向けた。
天井に、赤い線が走る。
太い鎖が伸び、巨大な刃が、音もなく振り下ろされた。
門の幅いっぱいを、一度だけ薙ぎ払う。
跳んだ獣が、空中で止まった。
そのまま、床へ落ちる。
動かない。
刃は赤い光になって、散った。
胸の奥が、空になる。
もう一匹は、倒れた仲間を踏み越えて、門へ飛び込んできた。
牙が、俺の目の前まで迫る。
息が止まった。
「下がって!」
セナの声が、真横で聞こえた。
壁にもたれたまま、片手で剣を突き出していた。
剣先が、獣の喉元を貫く。
獣は短く鳴いて、崩れ落ちた。
静かになった。
俺は、その場にへたり込んだ。
息が、遅れて追いついてくる。
「……やった」
「あなたが一匹、私が一匹」
セナは剣を引き抜いて、肩で息をした。
「いい判断だった。狭い場所に刃を落とすのは、正しい」
「セナさんの合図がなかったら、早すぎたか、遅すぎました」
「一人じゃ、どっちも足りなかった」
俺たちは、顔を見合わせた。
「……二人分、ですね」
「何が」
「帰り道、って、言ったので」
セナは、少しだけ笑った。
今度は、はっきり笑ったと分かった。
「カイ」
「……はい」
「肩、貸して」
さっきは、慌てて呼ばれただけだった。
落ち着いて名前を呼ばれたのは、これが初めてだ。
「はい。どうぞ」
廊下を渡りきった先に、大きな扉があった。
荷運びだけが使う、荷役用の昇降路。ドランさんから聞いたことがある。
「たぶん、ここです。荷物を上へ送る裏道です」
「鍵は?」
「組合が持ってます。でも、中からなら……」
言いかけて、俺は止まった。
扉の中央に、赤い光が見えた。
さっきまでの、小さな光じゃない。
拳ほどもある。
脈打つように、ゆっくり明るくなって、暗くなる。
胸の奥が、熱くなった。
呼んでいる。
「……大きいですね」
「大きい」
セナの声が硬い。
「ここまでの罠とは、格が違う。迂闊に触らないで」
「触りませんよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんは、だめ」
俺は手を引っ込めた。
扉の向こうから、かすかに風が来ていた。
土と、雨の匂いが混じっている。
地上の匂いだ。
帰り道は、すぐそこにある。
胸の奥は空っぽのはずなのに、あの光に触れたい気持ちだけが、いつまでも消えなかった。




