第一話 その罠、俺がもらう
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第一話 その罠、俺がもらう
「止まって。そこ、矢が出る」
俺は片足を浮かせたまま固まった。
声の主は、通路の向こうで壁にもたれていた。
剣を抱えた若い女だ。
左脚に巻いた布が、血で黒くなっている。
足元を見た。
ほこりに隠れた床に、四角い切れ目がある。
「踏んだら、右の壁から」
彼女が剣の先で示した壁には、細い穴が並んでいた。
向かいの石には、矢が何本も突き刺さっている。
俺は足を戻した。
「……助かりました」
「そっちへ戻った方がいい」
「戻れるなら、戻ってます」
背後では、崩れた石が坂になって通路をふさいでいた。
たった今、俺をここへ落とした石だ。
荷運びに雇われて、地上へ帰る途中だった。
先輩のドランさんが床の音に気づき、逃げろ、と叫んだ。
荷を放り出して走ったが、その先の床まで割れた。
転がり落ちた先で、背負い袋が石の間に挟まった。
肩ひもを切って抜け出す頃には、人の声も聞こえなくなっていた。
残ったのは腰の水袋と、小さな荷物入れ。
仕事用の短い刃物。
それから、すりむいた肘と、震えの止まらない膝。
前世の日本でも、こんな落下の受け身は習わなかった。
迷宮都市で育った十九年でも、同じだ。
「ほかの道は?」
俺が聞くと、彼女は首を振った。
「私の後ろに通路はある。でも、まずそこを越えないと」
矢の飛ぶ場所を挟んで、俺と彼女は向かい合っている。
壁際を通れないかと思ったが、床の切れ目は通路いっぱいに伸びていた。
飛び越すには長い。
奥で、爪が石を引っかく音がした。
彼女の顔が、通路の闇へ向いた。
剣を床に突き、立とうとする。
左脚が折れ、また壁へ肩をぶつけた。
「来たら、こっちは見なくていい。隠れて」
彼女は俺へ言った。
剣を持つ手だけが、壁から離れている。
灰色の獣が、闇から鼻先を出した。
犬に似ている。でも口が長い。
歯が唇からはみ出し、背中の硬い毛が逆立っていた。
獣の鼻先が、床の血の跡で止まる。
それから、彼女の方へ顔を向けた。
彼女は動かない。
剣先を獣の喉へ合わせたまま、息を殺している。
獣の顎が、わずかに下がった。
彼女の視線が、その顎から足元の左の石へ動いた。
経験のある剣士の目だ、と思った。
「跳ぶ。左の石から」
彼女が小さく言った。
俺の側には来ない。
隠れていれば、たぶん。
「罠、止める方法は?」
俺の声に、彼女が振り向いた。
「右の壁。割れてるところに核が見える」
矢の穴より手前で、壁の一部が崩れていた。
石の奥に、赤い物がある。
親指の爪ほどの、小さな光。
「割れば止まる?」
「触らないで。壊すと撃つ」
俺は刃物の柄から手を離した。
壊せば、矢が出る。
なら、壊さずに、核だけ取り外せないか。
光は石に埋まっているというより、割れ目の奥に収まっているように見えた。
仕組みなんて知らない。
それでも、その光から目が離せなかった。
空腹のときに、パンの匂いがしてきたような。
いや、違う。今、腹は空いていない。
獣が低く身を沈めた。
彼女が剣を横に構える。
俺は壁の割れ目へ、手を入れた。
「何してるの!」
指先に、熱が触れた。
壁の中で、何かが鳴る。
作動したかもしれない。
体がすくんだ。
それでも、核をつまもうと指に力を込めた。
その瞬間、赤い光が指へ絡み付いてきた。
外すはずの光が、逆に俺の手へ入ってくる。
痛くはない。
ただ、熱が腕を上り、胸の奥へ落ちる。
壁の中の音が止まった。
光も消えた。
「……え?」
彼女の声だった。
穴の並んでいた壁から、薄い石の筒が消えていた。
そこには、空っぽのくぼみだけが残っている。
俺の胸の中には、何かがある。
矢だ。
何本も並んだ、放たれる前の矢。
見えるわけじゃない。
けれど、向きまで分かる。
俺はそれを、外へ出せる。
灰色の獣が、左の石を蹴って跳んだ。
彼女の言った通りだった。
俺は獣の横の壁へ、手を向けた。
あそこだ。
彼女のいる壁とは反対側。
矢が彼女を横切らず、獣の胴を貫く向き。
「伏せて!」
彼女が身を伏せた。
壁に赤い線が走る。
さっき消えた穴が、一列に開いた。
弦をはじく音が重なった。
飛びかかった獣が、空中で横へ吹き飛ぶ。
矢が灰色の腹と胸を貫き、体を壁へたたきつけた。
爪が石をかいた。
もう一度。
それきり、動かなくなった。
矢の穴が消える。
獣に刺さっていた矢も、赤い光になって散った。
傷は残り、血が床をぬらしている。
胸の奥は、空になっていた。
俺は自分の手を見た。
矢は、俺が撃った。
あの罠を使って。
「今の、もう一回できる?」
彼女が壁にもたれたまま聞いた。
俺は獣から目を離せず、首を振った。
「……今は、何もないです」
「そう」
彼女は剣を下ろさなかった。
倒れた獣を、しばらく見ていた。
「動かない。もう大丈夫」
その言葉で、俺はようやく息を吐いた。
さっきから、まともに吸えていなかった。
矢の罠があった床を、細かい石が転がっていく。
何も飛んでこない。
仕掛けはなくなった。
なら、通れる。
ただ、割れた床の縁は、まだはっきり見えていない。
俺は一歩ずつ、足先で石を確かめながら進んだ。
罠のあった床を渡り、彼女の手前まで来た。
最後の石は、表面に傷ひとつなかった。
踏める。
そう判断して、足を乗せた。
「待って。端を――」
彼女の声が聞こえた。
けれど、体重はもう石にかかっていた。
石の下は、崩落で空洞になっていた。
表面だけが残っていたのだ。
石が割れ、足元が抜けた。
体が沈む。
割れた床の下に、暗い穴が見えた。
俺は両手を伸ばした。
肘が縁へ当たる。
服の襟を、何かが引いた。
「腕、こっち!」
彼女が片膝をつき、俺の服をつかんでいた。
剣は脇に放り出されている。
俺は彼女の手首ではなく、指された石の縁をつかんだ。
足を壁へ押し当てる。
引かれるのに合わせて、這い上がった。
背中を床へ落とすと、彼女も横に座り込んだ。
息が荒い。
左脚の布に、赤い染みが広がっていた。
「罠が止まっても、割れた床は戻らない」
彼女は俺を見ずに言った。
「……はい」
「次は、話を聞いて」
俺は起き上がった。
助けに来たつもりで、余計にけがをさせている。
「すみません」
彼女は脚の布を押さえた。
「それより、水は?」
「あります」
腰の袋を外して差し出す。
彼女は受け取る前に、俺の顔を見た。
「何が欲しいの」
「え?」
「助けた見返り」
俺は水袋を持ったまま止まった。
さっきまで服をつかんでいた手が、今は自分の脚を押さえている。
「……帰り道を教えてほしいです」
彼女の指が、少し緩んだ。
「歩けるか、分からない」
「今すぐ歩けとは言ってません」
俺は水袋を、彼女の届くところへ置いた。
「さっき、俺も引き上げてもらったので」
彼女は何も言わず、袋を取った。
少し飲んで、俺へ返す。
「セナ」
「え?」
「名前」
俺も水を一口飲んだ。
歯に袋の口が当たって、こつ、と音がした。
「カイです。荷運びの」
「探索者じゃないんだ」
「今日までは、荷物を運ぶだけの予定でした」
セナは俺の空の肩を見た。
そこで初めて、ほんの少し口元を緩めた。
「荷物は?」
「先に帰ったんだと思います」
「そう」
笑ったのか、息を吐いただけなのかは分からなかった。
通路の奥には、地上を示す矢印が残っていた。
俺がそちらを見ると、セナは首を振った。
「あっちの昇降路は崩れた。私も、そこから戻ってきた」
「じゃあ、別の道を探さないと」
「あるかどうかも、まだ分からない」
俺は胸へ手を当てた。
さっきの矢は、もうない。
でも、あの光に触れた感覚は覚えている。
この迷宮には、罠がある。
帰り道をふさぐ、嫌になるほどの罠が。
「だったら、探しましょう」
セナが俺を見た。
俺は立ち上がりかけて、今度は足元を確かめた。
「二人とも帰れる道を」
第1話「その罠、俺がもらう」に、一部改稿を行いました。
物語の流れや結末は変わっていません。
主な変更点は次の3つです。
・カイが核に触れる場面の流れ
・セナが獣の動きを読む場面
・最後の床が崩れる場面の描写
初めて読む方にも、カイとセナの動きが伝わりやすくなるよう調整しました。
すでにお読みの方は、読み直さなくても第2話以降を問題なくお楽しみいただけます。
引き続き、『迷宮の罠は俺の武器』をよろしくお願いします。




