第十六話 帰る場所
比較的安全な通路で、全員が、ようやく息をついていた。
バルトは、全員の顔を一人ずつ見てから、撤退の隊列を決めた。先頭は斥候の女性で、足場と水の様子を確かめながら進む。その後ろに、ロイさんを乗せた布を担ぐ荷運びが四人。ミナさんには、年配の荷運びが付き添い、歩けない所では背負い板で背負う。殿は、盾持ちの男とバルトが務める。
「ロイの担ぎ手は、四人一組で、五十歩ごとに交代しろ。疲れた手で運べば、必ず、どこかで落とす」
「分かった」
ドランさんが、荷運び班を二組に分けて、交代の順番を決めた。
俺には、先頭と担ぎ手の間を行き来して、足場と荷の重心を見る役が回ってきた。
「ロイさん、痛みは」
「大丈夫だ。……少し、揺れるが」
「揺れは、俺たちが減らします。強くなったら、すぐ言ってください」
「ああ。頼む」
ロイさんの声は、思ったよりしっかりしていた。折れた脚は、布と当て木に支えられたまま、体の上にそっと載っている。縄は緩く、脚を押さえるだけだ。
ミナさんは、年配の荷運びの腕につかまって、一歩ずつ歩いていた。顔色は悪いが、目はまっすぐ前を向いている。
一行は、ゆっくり動き出した。
誰も急がなかった。急げば、ロイさんの脚に響く。水の音が背後でどれだけ大きくなっても、足並みは乱れなかった。
疲れは、全員の肩に同じように積もっていた。それでも、誰の口からも弱音は出ない。十四人で帰る。それだけが、全員の足を前へ進めていた。
石床の部屋に着いたとき、水はすねの上まで来ていた。
斥候の女性が、先に水の中へ入った。張り綱を確かめ、壁から二筋目の太い継ぎ目の石の列を、一つずつ足で押していく。
「ここまで、動かない。……ただ、左の列は、傾きが増してる」
「棒で、確かめます」
俺は、長い棒を水の中に差し込んで、石の継ぎ目を一つずつ突いていった。固い手応えが続く。でも、列の左側、傾いた石の帯のすぐ近くで、棒がわずかに滑った。
「左の端は、使えません。真ん中の列を、まっすぐ行きます」
「ドラン」
「分かってる」
ドランさんが、ロイさんを担ぐ四人の前に立った。
「歩幅は、そろえろ。足は、同じ石に、同じ順で置く。声は、俺が出す。一、二、で、足を出せ」
「了解」
四人の担ぎ手が、布の端を握り直した。ロイさんの体が、水面の上をゆっくり進み始める。
「一、二。一、二」
ドランさんの声が、水の音の上に、規則正しく響いた。
中ほどまで来たとき、俺は足を止めた。
石の上を流れる水の向きが、おかしい。真ん中の列を流れていた水が、先の石の上で斜めに曲がっている。その石だけ、水の流れが、傾いた帯の方へ引き寄せられるように流れていた。
「止まってください」
「どうした」
「次の石、ほんの少し傾いてます。水が斜めに流れてる。濡れて、滑る向きに傾いてます」
「見えん」
「見えにくいです。でも、このまま乗ると、担ぎ手の左の人の重心が外へ流れます。ロイさんの布ごと、傾く」
ドランさんは、水の流れをじっと見た。
「……確かに、流れが、おかしいな」
「左の担ぎ手は、半歩、右へ。布も、少し右へ寄せてください。次の石は、右の端を踏んで、真ん中を避けます。その次で、列に戻ります」
「分かった。聞いたか、お前ら」
担ぎ手たちが、一斉にうなずいた。
一人ずつ、石を踏み替える。ロイさんの布が、一瞬ぐらりと揺れて、すぐに収まった。
「痛みは」
「……ない。大丈夫だ」
通り抜けた先で、ドランさんが小声で言った。
「あのまま行ってたら、左の奴が、足を取られてた」
「はい」
「気づくのが、早かったな」
「滑ってからでは、遅いので」
それだけで、十分だった。ミナさんは、年配の荷運びの背中から、俺をじっと見ていた。何も言わなかったけれど、その目が少しだけ和らいでいた。
昇降台は、第七便のあと、下に置かれたまま、そこにあった。
扉の台座は、空のままだった。
技術者が、昇降台の枠、鎖の掛かり、当て板、固定金具を、一つずつ手と目で確かめた。縦穴の壁の段差の高さも、ランプで照らして確かめる。
「枠の当て板は、無事だ。鎖も、固定金具も、異常なし。……台座は、空のままだな」
「今は、いい」
バルトが、短く言った。
「帰るのが、先だ」
「はい」
縦穴の壁際には、荷札を結ぶ縄が一本垂れていた。オルトが、第七便のあとに下ろしてくれたものだ。
俺は、荷札の板に、炭で書いた。
十四名、全員、生存。うち要介助者二名。
ロイ(盾持ち)は右脚の骨折の疑いで、横にして運ぶ。ミナ(弓使い)は衰弱している。
有人の上昇を、四回に分けて依頼する。一回目は、ロイ、ミナ、荷運び二名(年配の荷運びとカイ)。ロイを横にするので、床の広さも確認する。
昇降台の中央に、ロイを縦に寝かせ、布の縄を固定金具に結ぶ。荷運びは左右に膝をつき、壁際を避ける。ミナは頭の側。左右の重さは、技術者が確認する。
有人上昇の合図の手順を、教えてください。
縄に結んで、揺らした。
縄が、するすると上がっていく。
しばらくして、縄が降りてきた。荷札は、オルトの太い字だった。
了解。治療師と担架を、荷役場に待たせてある。
有人上昇の手順。乗せ終えたら、縦穴の壁を叩け。『聞こえるか』、短く二つ、長く一つ。
俺が同じ拍で返したら、鎖を二度引け。そのあと、鎖の重さを確かめてから、上げる。
途中で『待て』、短く三つを叩いたら、すぐに止める。
無人のときの二度引きと、同じに考えるな。人が乗っているときは、必ず、先に、壁で確かめる。
上げたあとは、空台を確認し、荷札で知らせてから、無人で下ろす。昇降台は、俺が動かさない限り、動かん。
荷は中央、金具に確実に。左右は均等に。上限の八割を、超えるな。
「……オルトさんらしいな」
ドランさんが、小さく笑った。
「はい」
荷札を、読み上げる。バルトは、腕を組んで聞いていた。
「手順は、全員、頭に入れておけ」
バルトが、荷札を全員に見せてから、言った。
「乗せ終えたら、壁を叩く。オルトが、同じ拍で返す。返ってきてから、鎖を二度。『待て』は、短く三つ。途中で出したら、すぐ止まる。毎回、必ず、この順だ。復唱しろ」
「壁を叩く。返事。鎖を二度」
全員が、声を合わせた。
「待て、は、短く三つ」
「よし」
俺は、荷札の裏に、短く書き足した。
手順、了解。全員、復唱済み。第一便の準備に入る。
縄に結んで、揺らす。縄が上がり、しばらくして、短い返事が降りてきた。
了解。いつでも。
「順番を決める」
バルトが、全員を見回した。
「第一便は、ロイ、ミナ、年配の荷運び、それにカイ。第二便、荷運び四人。第三便、盾、斥候、技術者、それに残りの荷運び一人。第四便が、俺とドランだ。荷は、置いていく。人が先だ」
「第一便は、ロイさんを横にするので、床の広さが要ります。四人で足りるか、確かめさせてください」
「技術者」
「見る」
技術者が、昇降台の床に、ロイさんの長さを、縄で測って、当ててみた。中央に縦に寝かせ、左右に荷運びが膝をつき、頭の側にミナさんが座る。
「……四人が、限度だ。五人目は、床が足りん。重さは、限度の八割以内。壁際には、誰も座らせるな」
「分かりました」
昇降台の中央に、ロイさんを縦に寝かせた。布の縄を、固定金具へ、しっかり結ぶ。右脚の下には、畳んだ布を重ねて、動かないように支えた。ロイさんの左右には、年配の荷運びと俺が膝をつき、一人は脚の側、もう一人は肩の側で、手を添えた。壁際には、誰も寄らない。
ミナさんは、ロイさんの頭の側に座って、手すり代わりの縄を握った。
「左右の重さは」
「……いいだろう。左右、ほぼ同じだ」
技術者が、昇降台の周りを一周して、うなずいた。
「ロイさん、痛みは」
「ない。……乗せてもらえて、助かる」
「上へ行くときに、揺れます。痛かったら、すぐ叫んでください」
「叫ぶのは、得意だ」
ロイさんが、小さく笑った。
俺は、縦穴の壁に、木槌を当てた。
こん、こん。
こーん。
水の音のあいだに、静寂が落ちる。
一つ。二つ。三つ。
こん、こん。
こーん。
遠くから、同じ拍が返ってきた。
「……返った」
「よし」
バルトが、鎖を二度引いた。
しばらくの間があって、巻き上げ装置の低い唸りが聞こえた。
昇降台が、ふわりと浮く。
鎖が、ごとん、ごとん、と鳴った。縦穴の壁が、ゆっくり下へ流れていく。ランプの光に、荷運びの印が、一つずつ浮かんでは消えた。
「……上がってる」
ミナさんが、小さな声で言った。
「はい。上がってます」
「ほんとに、帰れるんだ」
ミナさんの手が、縄を握りしめていた。その横で、ロイさんは、目を閉じて静かに息をしていた。
ロイさんの脚の揺れは、思ったより小さかった。年配の荷運びと俺が、脚の両側で手を添え続けている。昇降台の揺れは、足の裏で確かめ続けた。鎖の鳴る音は一定で、揺れもない。
印を数えた。
九つ目を通り過ぎる。何も起きない。
十一個目。十五個目。
そして、頭の上の方から、細い光が差してきた。
橙色の、夕方の光だった。
湿った地下の空気が、少しずつ薄まっていく。土と、草と、遠くの煙の匂い。それが、鼻の奥まで届いた。
ミナさんが、はっと顔を上げた。
昇降台が、地上の縁で、ごとり、と止まった。
荷役場の、広い石の床。傾いた夕日が、壁際の荷車を橙色に染めている。ミナさんとロイさんは、その光を見つめて、しばらく動かなかった。
何かを言おうとして、唇が動く。でも、言葉は出てこなかった。
ロイさんの目から、涙がこめかみへ伝った。
「……光だ」
やっと、ロイさんが言った。
「ああ。光です」
そこに、オルトが立っていた。
「……四人、確かに」
短く言った。巻き上げ装置の操作棒を握ったまま、俺たちを一人ずつ見る。
「ロイと、ミナだな」
「はい」
「記録する。……よく、戻った」
オルトは、それだけ言って、視線を荷役場の奥へ向けた。白髪の治療師が、担架を持った荷運びを連れて、すでに待っていた。
「ロイは、担架へ。脚は、動かさずに。ミナは、肩を貸す」
治療師の声は、落ち着いていた。
「カイ。付き添え」
オルトが言った。
「え」
「後の便は、俺が受ける。ロイの積み方を、一番分かってるのは、お前だ。治療所まで、見ていけ」
「……はい」
オルトは、空になった昇降台の鎖と枠を、一つずつ手で確かめた。それから、荷札に何かを書いて、縄に結び、縦穴へ下ろす。
「下には、荷札で知らせた。これから、無人で下ろす」
オルトが、操作棒を倒した。
昇降台は、勝手には戻らない。オルトの手が動かさない限り、そこから一寸も動かなかった。空の昇降台が、ゆっくりと、縦穴へ沈んでいく。
俺は、その音を背中で聞きながら、担架のあとを追った。
治療所の灯りは、夕暮れの中で、橙色に揺れていた。
セナは、起きていた。
ベッドの上で上半身を起こし、窓の方を向いていた。外の騒ぎを聞いたのだろう。扉が開く音で、ゆっくりこちらを振り向いた。
担架に乗ったロイさんと、肩を貸されて立つミナさんが、戸口に並んでいる。
セナは、何も言わなかった。
何も、言えなかったのだと思う。唇がわずかに開いて、閉じた。手が、シーツを握りしめる。左脚の布が、かすかに動いた。立ち上がろうとして、できなかった。
「……セナ」
ミナさんが、小さく呼んだ。
その声が部屋に落ちた瞬間、セナの肩がびくりと震えた。
「……ミナ」
かすれた声だった。
ミナさんは、治療師に支えられながら、ベッドの脇まで歩いていった。膝が一度折れかけた。それでも、足を前へ出した。
セナの前で、ミナさんは、床に膝をついた。
「……ごめん。遅くなった」
セナの手が、ミナさんの頬に触れた。頬の骨が、指先にはっきり分かるほど痩せている。
「……本物?」
「本物だよ」
「生きてる……」
「生きてる。セナも」
ミナさんの目から、涙が溢れた。セナは、ミナさんの頭を、自分の肩へ引き寄せた。声を出さずに、二人の肩が震えた。
ロイさんは、担架の上から、その様子を黙って見ていた。目の端が赤かった。
「……おい」
しばらくして、ロイさんが声をかけた。
「俺のことも、見てくれ」
セナが顔を上げた。
濡れた目でロイさんを見て、それから、その右脚に視線を落とした。
「……その脚」
「ああ。お揃いだな」
ロイさんは、セナの左脚の布を顎で示した。
「……バカ」
声が震えていた。
「遅くなった。悪い。ちょっと、長い昼寝をしてた」
「昼寝で、片脚を折る人が、いる?」
「ここに、一人」
「バカ」
セナは、笑おうとして笑えなくて、手の甲で目元を押さえた。
「……ごめん」
ロイさんの声が、急に低くなった。
「あのとき、行けって言ったのは、俺だ。お前が先に走ったのは、俺の言葉のせいだ。……お前が、一人で戻ったのは、俺のせいだ」
「違う。……私が、置いていった」
「違う」
ミナさんが、セナの手を握りしめた。
「置いていかれたんじゃない。先に行ってもらったの。セナなら、助けを連れて、戻ってきてくれるって思ってた。ずっと、信じてた」
「……戻れなかった」
セナの声は細かった。
「私は、戻れなかった。脚をやられて、動けなくて。……みんなが、迎えに行ってくれたの」
「みんな、って」
「荷運びの人たち。ギルドの人たち。それに」
セナは、戸口の方を見た。
「……カイ」
俺は、扉のそばで立ち尽くしていた。
邪魔をしてはいけない気がして、一歩も動けなかった。
「入って」
セナが言った。
「いいんですか」
「いい。あなたの、仲間でもあるでしょう」
俺は、おそるおそる、部屋の中へ入った。
ミナさんが、涙で濡れた顔のまま、俺に頭を下げた。
「……ありがとう。セナが助かったって聞いて、きっと迎えが来るって、信じてた」
「いえ。助けたのは、みんなです」
本心だった。
「バルトさんが、全員の命を預かって判断してくれました。斥候さんが足場を見てくれて、技術者さんが壁を支えてくれました。ドランさんと荷運びの皆さんが、縄を握ってくれました。俺は、運び方を、少し言っただけです」
「その『少し』が、なかったら」
ロイさんが、静かに言った。
「俺は、あの隙間を、通れなかった」
誰も、何も言わなかった。
治療師が、静かに咳払いをした。
「再会は、あとでゆっくり。ロイは、まず脚を診ないと。ミナも、水と食べ物と、休息が先だ」
「……はい」
ミナさんが、セナの手を、そっと離した。
「すぐ、戻ってくる」
「うん。待ってる」
セナは、ミナさんの手を、最後に一度だけ、ぎゅっと握った。
ロイさんが、運ばれていく。ミナさんが、治療師に支えられて、隣の部屋へ。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、セナは、ベッドに背を預けた。長い息を、ゆっくり吐いた。
その肩から、何か重いものが、すっと落ちたように見えた。
「……カイ」
「はい」
「約束、守った?」
「守りました」
俺は答えた。
「一人じゃ、なかったです」
セナは、俺をじっと見つめた。
それから、ふっと安心したように笑った。今まで見た中で、一番柔らかい笑い方だった。
「……ありがとう」
「いえ」
「あなたに、じゃない。あなた『たち』に。バルトさんにも、ドランさんにも、荷運びの人たちにも」
「はい」
「でも、あなたにも」
セナは、少し視線を落とした。
「あの日、罠の通路で、私を見つけてくれたのは、あなただった。……あなたがいなかったら、今日は、なかった」
「俺だけじゃ、ないです。あの日、引き上げてもらったのは、俺の方ですから」
「……そうだったわね」
セナは、小さく笑った。
「雇う話、覚えてる?」
「……はい」
「脚が治ったら、ちゃんと、改めて話そう。依頼として」
「はい」
「それまでは」
セナは、ほんの少し迷ってから、続けた。
「友達として、でいい?」
その言葉に、胸がじんわり温かくなった。
「……はい。友達として、お願いします」
「うん」
セナは、満足そうにうなずいた。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。ランプの灯りが、静かに部屋を照らしていた。
「おやすみなさい」
「うん。……カイ」
「はい」
「おかえり」
一瞬、言葉が詰まった。
俺は、「おかえり」を言われる側だった。
「……ただいま、です」
その声が、少し震えていた。
荷役場に戻ったのは、夜もだいぶ更けてからだった。
荷車の列の陰で、ランプがいくつも揺れていた。昇降台の脇には、見覚えのある顔が揃っている。荷運びの仲間が、床に座り込んで水を飲んでいた。盾持ちの男と斥候の女性は、壁際で肩を並べて休んでいる。技術者は、昇降台の枠に手を当てて、まだ何かを確かめていた。
ドランさんは、荷車の車輪にもたれて座り込んでいた。その隣で、バルトが水袋を傾けて、長く息を吐いている。二人とも、泥と水にまみれていた。最後の便で上がってきたのだと、一目で分かった。
「戻ったか」
バルトが言った。
「はい」
「セナたちは」
「会えました。ミナさんも、ロイさんも、泣いて、笑ってました」
「……そうか」
バルトは、それだけ言って目を閉じた。口元が、ほんの少し、緩んでいた。
ドランさんが、水袋を俺に投げた。
「飲め。お前も、顔が土だ」
「ありがとうございます」
水が、喉に染みた。
オルトは、壁際の記録板の前に、一人で立っていた。
板には、炭で引かれた短い線が、整然と並んでいた。一便ごとに、上がってきた人数分の印。昇降台が上がるたびに、オルトが一本ずつ引いていったものだ。
「戻ったか」
「はい。ロイさんとミナさんは、治療師が診ています。セナさんと、会えました」
「そうか」
オルトは、板から目を離さずに言った。
「全員の分を、数え直した」
指が、印を一本ずつ、なぞっていく。
十四本。
「十四人、だな」
「はい。全員、帰りました」
「そうか」
オルトは、短く答えた。そして、十四本の印の下に、炭で、長い横線を引いた。確認の印だ。炭が板の上を滑る音が、静かに響いた。
その手が、ほんの少しだけ、震えているように見えた。
「……昇降台の手順書を、書き直す。お前の荷札のとおりに。荷は中央、固定金具に確実に。人は壁際を避けて、左右均等に。上限は八割。有人のときは、壁で確かめてから、鎖」
「はい」
「お前の名前は、書かん。手順だけを、書く」
「構いません」
「だが」
オルトは、やっと、俺の方を向いた。
「台座の件は、まだ、終わっていない」
胸が、少しだけ、ひやりとした。
「……はい」
「今日は、言わん。救助が先だった。だが、いずれ、話す」
「分かりました」
オルトは、うなずいて、記録板に視線を戻した。
「帰れ。明日も、荷は、来る」
その背中に、俺は深く頭を下げた。
荷車の脇で、ドランさんが、煙草をふかしていた。
「おう。行くのか」
「はい。……ドランさんは」
「もう少し、吸ってく」
ドランさんは、煙をゆっくり吐いた。
「明日から、新人の荷造りは、お前が見ろ」
「え」
「ミロに、結びを教える約束だったろう。ついでに、荷の配置も、お前が決めろ。俺は、横で見てる。口は出さん。……出すときは、出す」
「俺が、ですか」
「何か、おかしいか」
「いえ。……以前は、簡単な荷運びだけを、言われてたので」
「あの頃は、あの頃だ」
ドランさんは、煙草を靴の底で消した。
「できる奴に、任せるだけだ」
当たり前のように、言った。
その言葉が、胸に静かに落ちた。
この世界に来た日、俺は、何者でもなかった。荷を運んで、叱られて、毎日をその日のうちに終わらせるだけだった。
でも、いつの間にか、俺の言葉を聞いてくれる人たちが、できていた。
「……はい」
返事が、少しかすれた。
「ありがとうございます」
「礼は、いらん。早く、寝ろ」
ドランさんは、ひらひらと手を振って、荷車の影へ消えていった。
俺は、荷役場の隅の木箱に、一人腰を下ろした。
夜風が、頬を撫でた。
縦穴の口が、暗く静かに開いている。あの底であれだけのことがあったのに、今は、ただの暗い穴だった。
十四人。
全員、帰ってきた。
胸の奥で、重さが静かにそこにあった。
巨大な核の、あの重さ。
もう慣れた、とは言えない。でも、不思議と、今夜は怖くなかった。
そのときだった。
胸の奥の重さが、すっと動いた。
縦穴の方でも、壁の向こうでもない。これまで、重さが傾いたのは、いつも地下の決まった方向だった。それが、今は違った。
下でもなく、上でもなく。
町の外の、ずっと遠くの方へ。
ほんの一瞬だけ、引かれた。
息を止めて、感覚を探った。
でも、もう、重さは元の位置に静かに戻っていた。
気のせいだ、と思おうとした。
でも、気のせいだとは、思えなかった。
夜空を見上げた。
星が、いくつも瞬いていた。
第一部、完結です。
毎日の更新を読んでくださった皆さま、ありがとうございました。
カイたちが「帰る場所」にたどり着けて、作者もほっとしています。
残した謎の続きは、また改めて。




