第十五話 帰るための道
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「戻れ!」
バルトの声が、水の音を切り裂いた。
足が、動かなかった。
闇の奥。かすれた声。
……誰か、いるのか。
あの声を、置いていく。
でも。
「一人で、下へ行かない」
セナの声が、頭の中で、響いた。
俺は、一人じゃない。
腰の縄の先に、ドランさんがいる。前には、バルトさんと、斥候さんがいる。
一人で飛び込めば、全員を危険にさらす。
「……はい!」
声を張り上げて、体を反転させた。
水が、ふくらはぎまで来ていた。斜面の上から押し寄せてくる水が、足元をさらう。
「斥候、先頭! カイ、次! 俺が殿だ!」
「了解!」
斥候の女性が走る。
俺は、棒で、足元を突いた。
「右の岩に沿って! 左は、流れが速い!」
「分かってる!」
水の音が、背後で、大きくなる。
縄が、腰で、ぴんと張りかけた。
「引くな!」
隙間の向こうから、声がした。
ドランさんだった。
「縄は、緩める! ゆっくり戻れ! こっちで、手繰る!」
縄が、すっと、ゆるむ。
引っ張られない。
その代わり、手繰られる縄の感触が、確かに、腰を支えていた。
隙間の前に、着いた。
斥候の女性が、先に、体を入れる。
「縄、手繰ってる! 通る!」
水が、隙間の中を、勢いよく、流れ出していく。
その流れに逆らって、斥候の女性が、這い込んでいった。
次は、俺だった。
頭を低くして、肘と膝で、這った。
水が、顔に跳ねる。
石の縁が、肩を擦る。
「そのまま! 頭、下げろ!」
ドランさんの声。
縄が、一回、二回と、手繰られる。
腰を、石にぶつけないよう、ゆっくり、引き寄せてくれている。
隙間を、抜けた。
引き上げられた手が、ドランさんの手だった。
大きな、ごつごつした手。
「……戻りました」
「ああ」
ドランさんが、短く、言った。
「縄は、解くな。バルトが来るまで、そのままだ」
「はい」
最後に、バルトが、隙間から、這い出てきた。
「三人、全員、戻った」
低い声だった。
バルトは、水の中に、立ち上がった。
「全員、壁から、十歩、下がれ。補強材の様子を、見る」
下がった先で、振り返った。
壁の隙間から、水が、滝のように、流れ出している。
その勢いが、ゆっくり、弱まっていく。
「技術者」
「見る」
技術者が、補強材に、近づいた。
「……三本とも、持ってる。ただし、一本目の足元の当て木が、ほんの少し、ずれた」
「直せるか」
「水が弱まったときに、直す。強い間は、近づけん」
「時間は」
「分からん。水の勢いが、どう変わるかによる」
水が、弱まる。
隙間の水が、細くなり、ちょろちょろと、足元を流れる程度に落ちた。
斥候の女性が、耳を澄ましていた。
「……水が、弱くなってる」
「ああ」
バルトも、じっと、隙間を見つめていた。
「待て。静かに」
全員が、息を止めた。
水の音。
ごぽ。
ちょろちょろ。
……
……ぁ
かすれた声が、隙間の向こうから、届いた。
「……誰か」
胸が、ぎゅっと、締まった。
「……誰か、いる……」
声は、そこで、途切れた。
水の音が、また、ざあっと、大きくなる。
「……聞こえたな」
バルトが、低く言った。
「間違いない。人の声だ」
「水の流れが、強いときは、声が届かない」
斥候の女性が、言った。
「弱いときだけ、聞こえる」
「波が、あるのか」
「数えてみる」
斥候の女性が、水の音に、耳を向けた。
声に出さず、唇だけで、数える。
しばらくして、言った。
「強い間は、六十ほど。弱い間は、三十ほど。でも、毎回、少しずつ違う。決まった間隔じゃない。次がいつ来るかは、読めない」
「原因は」
「分からん」
技術者が、首を振った。
「奥で、水が溜まって、こぼれるのかもしれん。だが、仮説だ」
「分かった」
バルトが、短く、言った。
「再突入は、まだ、許可しない。水の波を、もう少し見る。補強材を、直す。それと、救助の準備を、整える」
誰も、反論しなかった。
胸が、苦しかった。
でも、バルトの言葉は、分かる。
無謀に飛び込めば、全員、危険だ。
俺は、目を閉じて、壁の向こうを、思い出した。
見たもの。
聞いたもの。
水は、斜面の中央を、流れていた。右の岩壁の近くは、水が少なかった。石を積んだ段は、右の岩に沿っていた。水が避けて流れていた。
声が聞こえたとき、俺たちは、斜面を下っていた。天井が、もう一段、低くなる、そのすぐ手前だった。声は、その先の、闇の中からだった。
「……バルトさん」
「何だ」
「声の場所、分かるかもしれません」
全員が、俺を見た。
「壁の向こうで、水は、斜面の中央を流れてました。右の岩沿いは、水が避けて流れてた。石を積んだ段も、右の岩沿いでした。誰かが、水を避けて待つなら、右の岩沿いのはずです」
「続けろ」
「声が聞こえたとき、俺たちは、天井が一段低くなる、手前にいました。声は、その先からでした。さっき、隙間のこちら側から聞こえた声も、右の壁際から響いたように、聞こえました。斥候さんは」
「右下だ」
斥候の女性が、うなずいた。
「声が届いた向きは、右下。カイの話と、合う」
「つまり」
「右の岩沿い、天井が低くなる先の、岩陰。そこに、いる可能性が、高いです」
バルトは、しばらく、黙っていた。
「根拠は、見たことと、聞いたことだけだな」
「はい」
「分かった」
バルトは、うなずいた。
「それなら、動ける」
「カイ。もし、見つけたとして、運べるか」
「見つけたら、状態を見て、決めます。でも、準備だけは、先にしておきたいです」
「何が要る」
「厚い布を、二枚。縄。余った当て木を、一枚。それと、頭を守る、畳んだ布」
「何に使う」
「怪我をしている人が、いるかもしれないので。荷物を、狭い通路に通すときの、やり方を応用します。角を、ぶつけないように包んで、固定して、少しずつ、送ります」
「荷運びの知恵か」
技術者が、言った。
「はい」
「……分かった。ドラン」
「準備する」
ドランさんが、荷運び班に、声をかけた。
「布、縄、当て木。急げ」
技術者は、補強材に、近づいた。
水が、弱まっている。
「今だ。一本目を、直す」
盾持ちの男が、すぐ傍に立って、頭上を見張る。
技術者は、水の中に膝をついて、当て木を、押し直した。
こん、こん、こん。
「……いい。今は、持つ」
息を吐いて、立ち上がった。
「水が、また強まる前に、再突入を」
バルトが、言った。
「先行組は、前と同じ。バルト、斥候、カイ。それに、荷運びから一人。年配の荷運びだ。布と縄を、持て」
「分かった」
年配の荷運びが、布と縄を、背負った。
「ドランは、手前の荷運び班の指揮。技術者は、補強材と隙間の監視。盾は、壁の前の警戒」
「了解」
「水が強まったら、すぐ戻る。斥候、見ていろ」
「了解」
「出るぞ」
腰に、縄を結ぶ。
輪の結びだ。
ドランさんが、結び目を確かめる。
「行ってこい」
「はい」
隙間を抜けた。
水は、膝の下まで。
斥候の女性が、先頭。
右の岩に沿って、斜面を下る。
「ここ、滑ります」
「了解」
天井が、一段、低くなった。
ランプの光が、岩の壁を照らす。
その先。
右の岩壁に、窪みがあった。
大きな岩が、屋根のように、せり出している。
その下だけ、水が、避けて流れている。
「……見ろ」
バルトが、ランプを、向けた。
窪みの奥。
岩陰に、二つの影が、あった。
一人は、壁にもたれて、座っていた。
もう一人は、その隣で、横になっていた。
「……誰」
かすれた声が、返った。
座っていた影が、顔を上げた。
若い女性だった。
髪は、乱れて、頬は、こけている。
目だけが、大きく、ランプの光を、まっすぐ、受け止めていた。
「……人、だ」
その声は、あの声だった。
「誰か、いるのか」と呼んだ声。
「救助隊です」
俺は、駆け寄った。
「ギルドと、荷運び組合の、救助隊です。助けに来ました」
「……ほんとう?」
「本当です」
女性の目から、涙が、一筋、こぼれた。
「……よかった」
声が、震えていた。
「……ロイ」
隣の影に、声をかけた。
「ロイ、起きて。人が、来た」
横になっていた影が、ゆっくり、体を起こそうとした。
若い男だった。
顔色が、悪い。
右の脚に、布が巻かれている。その脚が、不自然な角度で、投げ出されていた。
「……来たのか」
「はい」
「……ミナ、お前が、呼んだのか」
「うん。……声が、出た」
「そうか」
男は、小さく、息を吐いた。
「……よく、やった」
「あなたたちは」
バルトが、静かに、聞いた。
「探索者パーティの、方ですね」
「はい。……弓使いの、ミナ。こっちは、盾持ちの、ロイ」
「セナの、仲間か」
「……セナ?」
ミナさんの目が、大きく、見開かれた。
「セナを、知ってるの? 生きてるの?」
「生きてます」
俺は、言った。
「治療所で、待ってます。脚を、怪我してますが、命に別状は、ありません」
「……そう」
ミナさんは、顔を覆った。
肩が、震えた。
ロイさんも、目を閉じて、唇を噛んだ。
「……よかった」
小さな声だった。
「あの人が、助かって……」
「あの、叩く音は」
俺は、聞いた。
「壁を叩いていたのは、お二人ですか」
「……最初は、ロイが」
ミナさんが、ロイさんを見た。
「盾の縁で、壁を、叩いてた。眠らないように。ここにいる、って、誰かに、聞こえるように」
「一定の間隔で、叩いてた。体力が、なくなるまで」
ロイさんが、かすれた声で言った。
「そのうち、向こうから、叩く音が、聞こえた。短く、二つ。長く、一つ」
「意味は、分からなかった」
ミナさんが続けた。
「でも、向こうが、叩いてきた。人だ、って、思った。だから、聞こえたとおりに、返した。……私が、石で」
「何度も返した。でも、だんだん、手が、動かなくなって」
「最後の、一つ」
「……聞こえてたんですか」
「聞こえた。あれは、私」
ミナさんが、小さく、笑った。
「あなたたちだったのね。……ありがとう」
胸が、熱くなった。
「石が、ごりごり鳴る音は」
「あれは、知らない」
ロイさんが、言った。
「崩れたあと、何度か、鳴った。水が、増えるときに。……怖かった」
「その話は、あとだ」
バルトが、低く、言った。
「立てるか。歩けるか」
「私は、歩けます。……少しなら」
ミナさんが、壁に手をついて、立ち上がろうとした。
でも、膝が、がくりと、折れた。
斥候の女性が、すぐに、支えた。
「無理しないで。ゆっくり」
「ロイは」
「脚が、折れてる」
ミナさんが、小さく、言った。
「崩れたとき、ロイが、私を庇って。盾で、石を、受けて……」
「ミナ。余計なことを、言うな」
「でも」
「いい」
二人の声は、それ以上、続かなかった。
そのとき。
足元の水が、ぐっと、引いた。
次の瞬間。
ごう、と、斜面の奥から、水が、押し寄せてきた。
「水が来る!」
斥候の女性が叫んだ。
「波だ! 強い方だ!」
水が、ふくらはぎから、膝まで、一気に上がった。
窪みの中は、まだ、少し高い。でも、水は、じわじわ、這い上がってくる。
隙間の向こうから、声が、届いた。
「補強材が鳴ってる! 一本目の足元が、またずれた!」
技術者の声だった。
「急げ! 今は持ってるが、次の水の波まで耐えられるか分からん!」
いつまで持つのか、誰にも、分からない。
胸の奥の重さが、ぐっと、傾いた。
斜面の奥へ。水の来る方へ。
一度だけ、強く。
でも、それは、今、考える暇じゃない。
重さは、すぐに、静まった。
「バルトさん」
「判断は、俺がする。……だが、運び方は、お前に任せる」
バルトの目が、俺を、まっすぐ見た。
「全員、カイの指示で動け」
信じてくれた。
全員が、俺を見た。
怖かった。
でも。
やるしかなかった。
急ぐ。
でも、急ぎすぎたら、ロイさんが、傷つく。
確認は、省かない。
「ロイさんから、運びます」
「俺は、後でいい」
ロイさんが、言った。
「ミナを、先に」
「だめです」
俺は、即座に、言った。
「遅い荷から、先に出します。荷運びの決まりです。」
ロイさんが、ふっと、苦笑した。
「……荷、か」
「すみません。荷運びの決まりの言い方です」
俺は、頭を下げた。
「人を荷物扱いしてるわけじゃないです。通す順番の話です。痛みは、ちゃんと、聞きます」
「……分かった。頼む」
「後ろが、速ければ、追いつけます。遅い人を後に回すと、最後に、詰まります。ミナさんは、その次です。必ず、通します」
「……うん」
ミナさんが、うなずいた。
「年配の荷運びさん。布を」
「ああ」
厚い布を、床に広げる。
「ロイさん。体を、布に乗せます。その前に、確認させてください」
「ああ」
「名前を、教えてください」
「……ロイ」
「ありがとうございます。意識は、はっきりしてますね。息は、苦しくないですか。深く、吸えますか」
ロイさんが、ゆっくり、息を吸って、吐いた。
「……大丈夫。吸える」
「痛いのは、右脚だけですか」
「ああ。右の脚。膝の下」
「他に、痛む所や、しびれる所は」
「ない」
「脚は、動かさなくていいです。足の指だけ、動かせますか」
「……動く」
「ありがとうございます。脚は、まっすぐにしません。今の角度のまま、動かないように、支えます」
「痛くなったら、すぐ、言ってください。言ってくれたら、すぐ止めます。我慢は、しないでください」
「……分かった」
「三人で、体を持ち上げて、布の上へ移します。俺が頭、年配の荷運びさんが胴、バルトさんが右脚です。脚は、動かさずに、そのまま、持ち上げます。せーので、いきます」
「分かった」
「せーの」
三人で、同時に、持ち上げた。
ロイさんの体が、布の上へ、静かに、収まった。
右脚の両側に、丸めた布を、詰める。
その外側に、当て木。
当て木が、直接、脚に当たらないように、間に、布をもう一枚、挟む。
縄は、当て木の外側から。ゆるく回して、脚が動かない程度に。締めすぎない。
「きつくないですか」
「……少し、ここが」
「ゆるめます」
縄を、一巻き、戻した。
「どうですか」
「……楽に、なった」
「ありがとうございます。そこが、ちょうどいいです」
体は、布で、ゆるく包む。
頭の下には、畳んだ布を、重ねる。首の脇にも、挟む。
結び目は、体の外側。引いても、締まらない結び。
「……これで、体が、ずれません」
「頭が、守られてる」
バルトが、低く、言った。
「荷の運び方を、人に当てはめるのか」
「はい。荷は、角をぶつけないように、包みます。人も、それは、同じです。でも、人は、痛いと、言えます。だから、聞きながら、進めます」
「……分かった。次は」
「隙間を、通します。頭から、通します」
俺は、隙間の方へ、向いた。
「布を引っ張って、床を滑らせることは、しません。向こうと手前の両側から、布の端を持って、体を床から少し浮かせたまま、一歩分ずつ、送ります。頭、胴、脚の順です。向こう側の方が、受け取ります」
「壁の向こうと手前で、合図を、そろえます。縄で。一度、軽く引くのが、『進め』。二度、小さく引くのが、『止め』。三度は、危険。声も、必ず、一緒に出してください」
「了解」
隙間の向こうから、ドランさんの声が、返った。
「手前、分かった! 縄、持ってる! 手も、出して待つ!」
「技術者さん。隙間の縁、擦れる所に、布を当ててもらえますか」
「今、当てる。頭上と、肩の高さだ」
技術者の声が、続いた。
「一本目の足元、また、直した! 今は、持ってる! ただし、次の波は、分からん!」
「ありがとうございます!」
水は、膝まで来ていた。
窪みの中も、足首が、ひたひたと、濡れていた。
「……斥候さん。水の波を、見ていてください。強い方に入ったら、教えてください」
「今は、強い方だ。いつ弱まるかは、分からん。変わったら、すぐ言う」
「弱まるのを、待たずに、運べるところまで、運びます」
「二人で、持て」
バルトが、年配の荷運びに、言った。
「カイ、先頭。足場を」
「はい」
ロイさんを包んだ布の、両側に、縄を通す。
年配の荷運びと、バルトが、片側ずつ、持つ。
俺は、先頭で、棒を使って、足元を確かめた。
「ここ、右。滑ります。左の石の上を」
「了解」
一歩ずつ。
水が、膝の下で、冷たく、流れている。
窪みから、斜面を上って、隙間の入り口へ。
「ロイさん。痛みは」
「大丈夫。進んでくれ」
「止まるときは、声をかけます」
隙間の手前に、着いた。
水が、隙間から、勢いよく、流れ出している。
隙間の縁に、技術者が当ててくれた布が、見えた。
「入り口です。頭から、通します」
縄の一端を、隙間の向こうへ、通す。
向こうから、ドランさんの手が、縄をつかんだ。
「受け取った!」
「ロイさんの頭の側を、まず出します。手前の方、頭を、手で守ってください。縄は、軽く、一度で、進めます」
「分かった!」
縄を、一度、軽く引く。
「進め」
年配の荷運びと、バルトが、布の端を持って、ロイさんの体を、床から少し浮かせた。
布が、隙間へ、静かに、送り込まれる。
向こう側から、手が伸びてきて、頭と肩を、受け止めた。
ロイさんの頭が、隙間に入る。
肩が、石の縁に、布越しに、そっと、触れる。
「止め!」
縄を、二度。
「止まった!」
ドランさんの声。
「ロイさん、痛みは」
「……ない。大丈夫」
「進め」
縄を、一度。
布が、また、少し、送られる。
肩が、抜ける。
胸。
「止め」
縄を、二度。
「ロイさん、ここで、もう一度、確認します。痛みは。しびれは」
「……右の脚が、少し、疼く。でも、さっきと同じだ」
「息は」
「できる」
「ありがとうございます。脚を、通します。一番、狭い所です」
ぎし、と、隙間の向こうから、音が響いた。
「補強材の足元の当て木が、少しずつ、押し出されてる! 持ってはいる! だが、油断するな!」
技術者の声だった。
焦るな。
焦ったら、ロイさんの脚が、石に当たる。
「手前の方。膝の下と、足首を、両手で受けてください。こちらでは、バルトさんが、膝のあたりを、支えます。角度は、変えないで」
「分かった!」
「バルトさん」
「ああ。ここで、支える」
バルトが、折れた脚の、膝のあたりに、両手を添えた。
「進め」
一度。
布が、ゆっくり、送られる。
隙間の向こうで、荷運びたちの手が、脚を受け取っていく。
「……脚が、半分、出た!」
「そのまま、止め!」
二度。
「止まった!」
「最後です。進め」
一度。
「……通った!」
ドランさんの声が、向こうから、響いた。
「ロイ、こっち側に、出た! 無事だ!」
息が、止まっていたことに、気づいた。
「ロイさん、痛みは」
向こう側から、小さな声が、返った。
「……大丈夫だ。ありがとう」
肩の力が、ほんの少し、抜けた。
「次は、ミナさんです」
そのとき。
ぎし、ぎし、と、補強材の音が、さらに大きくなった。
「補強材が!」
「技術者!」
「一本目の足元が、もう、ずれ始めてる! 急げ! ただし、焦って壁に当たるな!」
水が、ふくらはぎまで、上がってきた。
「ミナさん!」
「はい!」
ミナさんが、斥候の女性に支えられて、隙間の前まで来ていた。
腰に、縄を結んだ。
輪の結びで。
「この縄は、引いても、締まりません。ほどけません」
「……うん」
「ゆっくりで、いいです。頭を、低く。石に、触れないように」
「分かった」
「進め」
縄を、一度。
ミナさんの体が、隙間へ、入った。
小さな体が、水と一緒に、石の間を、這っていく。
「止め」
二度。
「大丈夫! 続けて!」
声が、隙間の向こうから、聞こえた。
ミナさん自身の、声だった。
「進め」
一度。
「進め」
一度。
縄が、手繰られていく。
ミナさんの足が、隙間の向こうへ、消えた。
「ミナ、出た! 無事だ!」
ドランさんの声。
肩の力が、抜けた。
「次は、年配の荷運びさん。それから、斥候さん」
「分かった」
「バルトさんは、最後に」
「ああ」
年配の荷運びが、隙間へ、体を入れた。
次に、斥候の女性。
水が、膝まで来ていた。
補強材の音が、ぎし、ぎし、と、続く。
「バルトさん」
「行け、カイ」
バルトが、俺の肩を、叩いた。
「お前も、行け。俺が、最後だ」
「でも」
「命令だ」
バルトの目は、真剣だった。
「行け」
俺は、うなずいた。
隙間へ、体を入れた。
水が、顔に跳ねる。
石が、肩を、擦る。
肘と膝で、這う。
背中に、水の音。
「カイ! 来い!」
ドランさんの声。
最後の一歩。
手が、引き上げられた。
「……来た」
「ああ」
ドランさんの手が、俺の腕を、握り締めた。
「バルトは」
「今、来ます!」
隙間の向こうで、ランプの光が、動いた。
バルトの手が、隙間から、伸びてきた。
ドランさんが、その手を、つかんだ。
引き出す。
バルトの体が、水と一緒に、隙間から、滑り出てきた。
「……全員、戻った」
バルトが、言った。
その瞬間。
ごり、と、壁の奥で、大きな音がした。
壁の上の方から、石が一つ、ずるりと、落ちた。
水の中に、どぼん、と、沈む。
でも、補強材は、持っていた。
壁は、崩れなかった。
「全員、壁から離れろ!」
バルトが、叫んだ。
「担げ!」
ドランさんの指示で、荷運びたちが、ロイさんを包んだ布を、持ち上げた。
四人がかり。
ミナさんは、斥候の女性と、年配の荷運びに、両側から支えられた。
「ゆっくり。足元、注意」
「はい」
壁から、十歩。二十歩。
水の音が、少しずつ、遠ざかる。
通路の少し高くなった所で、バルトが、足を止めた。
「ここで、いい」
水は、足首にも、届かなかった。
比較的、安全な場所だった。
「下ろせ」
ロイさんが、そっと、床に下ろされた。
ミナさんが、その隣に、座った。
二人は、手を握り合っていた。
誰も、何も言わなかった。
技術者が、壁の方を、振り返って、小さく言った。
「補強材は、まだ、持ってる。だが、次の波まで、持つかは、分からん」
「十分だ」
バルトが、短く、言った。
「全員、生きてる」
十二人。
それに、二人。
十四人、全員。
胸が、いっぱいになった。
ミナさんが、俺の方を見た。
「……あの」
「はい」
「ありがとう」
「いえ」
「セナ、に」
声が、震えた。
「会いたい」
「会えます」
俺は、言った。
「そのために、全員で、帰りましょう」
「カイ」
ドランさんが、隣に来た。
大きな手が、俺の背中を、どんと、叩いた。
「まだ、終わりじゃねえぞ」
「はい」
俺は、答えた。
「全員で、帰ります」




