第十四話 壁の向こうへ
すみません。予約投稿日時を間違えてしまっておりました。
本日12時に第一五話も投稿予定です。
「配置につけ!」
バルトの声で、全員が、一斉に動いた。
盾持ちの男が、壁の正面に立って、頭上を見上げた。斥候の女性が、通路の両側の石を、順に確かめていく。荷運びたちは、荷の山のまわりに、集まった。
「技術者」
「待て。先に、石を決める」
技術者は、水の中を、壁に近づいた。
膝の下まで来た水が、足にまとわりつく。壁の隙間から噴き出す細い筋が、技術者の肩を濡らした。
技術者は、炭を握って、石に印をつけていった。
「この石は、動かすな。上の重さを、全部受けてる。ここは、動かしていい。ここは、補強材が先だ。順番を、間違えるな」
石の表面に、炭の印が、増えていく。
×。○。△。
「カイ」
「はい」
「補強材の札は」
「一番から三番、壁用です。短い補強材が、三本。足元を受ける当て木が、三枚。全部、札の順に、並べてあります」
「一本目は、真ん中。土台石の正面から、斜めに突っ張る。足元は、床の石に当てろ」
「はい」
技術者は、土台石の傾いた方へ、顔を向けた。
「傾きは、前へ。右へ、少し。左の足元の削れが、深い」
「左を、先にしますか」
「まず、真ん中だ。真ん中が持てば、左右の時間が稼げる」
俺は、荷札の板を見て、一番の山から、一本目を示した。
「ドランさん、一番の補強材です。運びます」
「おう」
ドランさんが、荷運び班を見回した。
「六人、縄につけ。カイ、段取りは」
「はい」
補強材は、重かった。
太さは、腕二本分ほど。長さは、短い補強材と言っても、人の背丈より、少し長い。水に濡れて、さらに重くなっている。
床は、膝の下まで水に浸かった敷石だ。継ぎ目が、水の中で、黒く浮いている。
「力任せに引くと、壁に当たります」
俺は、言った。
「補強材の先が、土台石に触れたら、壁全体が揺れます。水で、足元も滑りますから、一人でも足が取られたら、全員が、前へ引きずられる」
「どうする」
「引く向きを、壁と平行にします。壁の右端に、岩盤につながった突き出しがあります。あそこに滑車をかけて、縄の向きを変えます。引く人は、壁に背を向けて、右へ引く。補強材は、横へ滑らせてから、最後に、土台石の正面へ、回し入れます」
「回し入れる、か」
「はい。真っ直ぐ押し込むんじゃなくて、横から滑らせて、位置を決めて、最後に起こします。先端には、もう一本、縄をつけます。後ろから、人が、緩めながら支える。前に出すぎないように」
ドランさんは、少し考えて、うなずいた。
「分かった。荷運びの、やり方だ」
「はい」
ドランさんは、六人を、二列に並べた。
「前の三人は、引く役。後ろの三人は、緩める役。カイが、位置と合図を出す。みんな、カイの声を聞け。合図は、一、二、で、同じ力で」
「了解」
斥候の女性が、右端の岩盤の突き出しに、縄を回して、滑車をかけた。
「ここ、動かない。確かめた」
「ありがとうございます」
縄が、ぴんと張る。
「引きます。一、二」
「一、二」
補強材が、水の中を、ゆっくり、横へ滑っていく。
壁には、触れていない。
「そのまま。一、二」
「一、二」
「止め。後ろ、少し緩めて」
補強材の先が、土台石の正面で、止まった。
「起こします。後ろ、ゆっくり。前、押さえて」
補強材が、斜めに立ち上がる。
先端が、土台石の面に、そっと、当たった。
「足元」
技術者が、当て木を、補強材の根元に噛ませた。
木槌で、軽く、叩いて、締める。
こん、こん。
「……入った」
技術者が、息を吐いた。
「一本目、仮止め。確かめる」
技術者は、補強材に手を当てて、目を閉じた。
水の音。
壁の隙間から、噴き出す水の音。
「……持つ。いい」
誰かが、小さく息を吐いた。
「二本目」
バルトが言った。
「右だ。同じ手順で、行け」
「はい」
二本目も、同じ手順で、進めた。
滑車の向きを変えて、縄を壁と平行に。引く役と、緩める役。位置を決めて、最後に起こす。
一本目より、少し早くできた。
「慣れてきたな」
ドランさんが、にやりと笑った。
「まだです。三本目が、残ってます」
「分かってる」
そのときだった。
壁の隙間から、噴き出していた水の筋が、急に、太くなった。
ざあっ、と、水が顔に跳ねる。
「水が!」
「下がれ!」
技術者が叫んだ。
同時に、壁の奥から、ごり、ごり、と、石が擦れる音がした。
重い、鈍い音だった。
「作業中断!」
バルトの声が、響いた。
「全員、壁から五歩、下がれ! 盾、前に!」
走った。
水の中を、足がもつれそうになりながら、後ろへ下がる。
盾持ちの男が、壁の前に立って、盾を構えた。
胸の奥の重さが、ぐっと、傾いた。
壁の向こうへ。強く。
息が、詰まった。
でも、立ち止まらなかった。
下がった先で、振り返る。
壁の石の隙間から、水が、勢いよく、噴き出している。
ごり、ごり、という音は、まだ、続いていた。
二本目の補強材が、ぎし、と鳴った。
「……補強材が」
技術者が、低く言った。
「一本目も、鳴ってる」
見ると、真ん中の補強材が、ほんの少し、たわんでいた。
「奥から、押されてる」
技術者が、壁を見つめたまま、言った。
「想定してなかった向きの力だ。壁の奥で、何かが、動いてる」
「何か、とは」
「分からん」
技術者は、首を振った。
「石が、ずれたのか。水が、流れを変えたのか。両方か。はっきりしたことは、言えん」
誰も、何も言わなかった。
水の音が、うるさかった。
どれくらい、そうしていただろう。
水の筋が、少しずつ、細くなった。
ごり、という音も、遠ざかる。
「……収まった」
斥候の女性が、言った。
「一時的に、だがな」
技術者は、息を吐いて、補強材に近づいた。
手を当てる。
指で、たわみを確かめる。
「二本とも、持ってる。だが、左の足元が、危ない」
「三本目か」
バルトが言った。
「ああ。左の補強材を、急いで入れる。それができないと、真ん中の一本に、力が集まりすぎる」
技術者は、壁の左側を指さした。
「だが」
「何だ」
「あそこに、石がある」
見ると、壁の左の足元に、大きな石が、一つ、転がっていた。
人が抱えられないほどの大きさだ。
壁から崩れ落ちた石が、土台石に、寄りかかるように、止まっている。
「あの石が、補強材の足元に、重なってる。どけなければ、入れられん」
「引くか」
「だめだ」
技術者が、即座に、言った。
「あの石は、土台石に触れてる。引けば、土台が引きずられる。押せば、前へ出る。どちらも、壁が崩れる」
「時間は」
「ない。さっきの揺れが、もう一度来たら、真ん中の補強材が、持たん」
バルトが、唇を結んだ。
誰も、答えを持っていなかった。
俺は、あの石を、見つめていた。
大きな石。
その下に、床の敷石が、見える。
継ぎ目が、水の中で、黒く浮いている。
でも、あの敷石は、他の石と、違う。
水に削られて、下の砂が、流れ出している。
石の下が、浮いている。
ほんの少しだけ。
もし、あの床の石が、傾けば。
あの落ちた石は、壁から離れる向きへ、滑る。
引くのでも、押すのでもなく。
石の足場そのものが、傾けば。
胸の奥に、小さな重さが、一つ、ある。
石床の部屋で、取り込んだもの。
床の石を、連なって傾けた罠。
使える、と思った。
でも。
あの罠が、どこまで傾くのかは、俺にも、分からない。
あの日は、俺が使ったんじゃない。罠が、勝手に、動いた。今度は、俺が、出す。初めてだ。
床の石が、連なって傾く。それは、覚えている。でも、どの石まで傾くのかは、分からない。
怖かった。
人が、見ている。秘密が、ばれるかもしれない。
でも、見ているだけでは、壁が、崩れる。
「バルトさん」
「何だ」
「あの石、動かせるかもしれません」
全員が、俺を見た。
「どうやって」
「床の継ぎ目を、利用します。あの石の下の敷石は、水で、下が浮いてます。敷石が動けば、石は、壁から離れる向きへ、滑るはずです」
「敷石を、動かす? どうやって」
バルトは、鋭く、俺を見た。
「……試させてください」
「答えになっていない」
「すみません。説明が、できません」
正直に、言った。
嘘は、短く。聞かれたことだけ、答える。
「それと、お願いがあります。あの石のまわりの床から、全員、離れてください。周りの敷石も、一緒に動くかもしれません。どこまで動くかは、俺にも、分かりません」
「分からないものを、使うのか」
「はい。だから、離れてほしいんです。補強材は、縄で、離れた所から滑らせて入れられるように、先に、位置を決めておいてください」
バルトは、俺を、じっと見た。
長い、沈黙。
水の音が、うるさかった。
「……全員、あの石から、五歩、下がれ」
バルトが、言った。
「ドラン。三番の補強材は、縄で引ける位置に付けておけ。技術者。当て木を持って、一番近い、動かん敷石の上に立て。印を付けた石だ」
「できてる」
ドランさんが、短く、答えた。
「縄は、もう、かけてある。石が動いたら、すぐ、引ける」
「……動かん敷石に、立つ。当て木は、手に持った」
技術者が、動かない石の上へ、移った。
バルトは、俺を見た。
「三つ、数える。それまでに、動かなければ、中止だ。全員、撤退する」
「はい」
俺は、石から五歩ほど離れた、荷の山の陰に、しゃがんだ。
荷札の板を、床に置く振りをして、手を、水の中の敷石へ向けた。
体で、手元を隠す。
みんなの目は、補強材と、壁と、あの石に、向いている。
胸の奥の、小さな重さに、意識を向けた。
出せる。
どうなるかは、分からない。
あの日、石床の部屋で、床が傾いた。連なって。
あれと、同じことが、起きるはずだ。
ただし、一度だけ。
「一つ」
バルトが、数えた。
深く、息を吸う。
「二つ」
手を、ぐっと、床へ向けた。
「三つ」
胸の奥の小さな重さが、すっと、手の先へ抜けた。
水の中の敷石が、ぎい、と鳴った。
二枚。
いや。
ぎい、ぎい、と、音が、連なった。
四枚。六枚。
思っていたより、ずっと広い。
敷石が、ゆっくり、傾いていく。
水が、傾きに沿って、一斉に流れる。
落ちた石が、ずる、と、横へ滑った。
壁から、離れる向きへ。
「石が……!」
「動いた! 今だ、入れろ!」
ドランさんの声が、響いた。
縄が、ぴんと張る。
三本目の補強材が、縄に引かれて、傾く敷石の上を、滑っていく。
「うおっ!」
縄を引いていた荷運びの一人が、足元の敷石が傾いて、片足を取られた。
「危ない!」
隣の荷運びが、襟をつかんで、引き戻す。
傾きが、俺の足元の石まで、這ってきた。
「下がれ!」
荷の山ごと、後ろへ跳んだ。
背筋が、冷えた。
もし、あの石の近くに、誰かが、立っていたら。
でも、全員、離れていた。
補強材の根元が、壁の左の足元へ、すべり込んだ。
技術者が、動かない敷石の縁から、当て木を、噛ませる。
こん、こん、こん。
傾いた敷石の縁から、赤い粒が、ふっと、散った。
水の上で、すぐに、消えた。
胸の奥の、小さな重さが、なくなった。
残ったのは、巨大な核の、あの重さだけだった。
「……入った」
技術者が、息を吐いた。
「左の補強材、入った。仮止め」
「一本目、二本目、三本目。全部、持ってる」
「補強材が、荷重を分け合ってる。真ん中への力が、散った」
技術者は、補強材に手を当てたまま、続けた。
「全体の傾きも……止まった。今は、だが」
誰かが、大きく、息を吐いた。
「今の」
斥候の女性が、傾いた敷石を、見つめていた。
「床が、傾いた。それに、赤い粒が、散ったように見えた」
「古い仕掛けが、残ってたのか」
技術者が、低く言った。
「水で、床の下の仕掛けが、動いたのかもしれん。だとしたら、他にも、残ってる可能性がある」
「詮索は、後だ」
バルトが、短く、言った。
俺は、立ち上がった。
膝が、少し、震えていた。
胸の奥が、一つ、軽くなっている。
ドランさんが、俺の隣に来た。
何も、言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、俺を見た。
俺は、目を合わせられなかった。
「……はい」
小さく、言った。
「何も、聞かねえ」
ドランさんが、低く、言った。
「だが、無茶は、するな」
「はい」
俺は、うなずいた。
それ以上は、言えなかった。
「次だ」
バルトが、全員を、見回した。
「補強は、持ってる。だが、時間は、ない。突破口を、作る」
「小さな隙間なら、ここだ」
技術者が、壁の中央を、指さした。
「真ん中の補強材の、少し上。石が、小さい。三つ、抜ける。ただし、順番は、守れ。一つ抜くごとに、補強材の様子を見る」
「はい」
俺は、縄と滑車を、確かめた。
「石を抜くときも、荷運びのやり方でいきます。一つずつ、水平に、後ろへ引き抜く。引き抜いたら、残った石への重さの返りを、荷札で数える感覚で、確かめる」
「荷札で、数える?」
技術者が、首をかしげた。
「荷を降ろすときの、重さの返りです。一つ降ろしたら、残りの荷が、どれだけ重くなるか。それを、見ながら、順番に」
「……分かった。お前の、言い方で、合ってる」
一つ目の石に、縄をかけた。
「引きます。一、二」
石が、ずる、と、後ろへ滑る。
技術者が、補強材の様子を、見る。
「……持ってる。次」
二つ目。
「一、二」
水が、石の抜けた隙間から、勢いよく、噴き出した。
でも、補強材は、ぎしりとも、鳴らない。
「次」
三つ目。
「一、二」
石が、抜けた。
壁の中央に、人が一人、通れるかどうかの、狭い隙間が、開いた。
水が、そこから、膝の下を、流れ出している。
向こう側は、暗かった。
「……開いた」
誰かが、小さく、言った。
技術者が、補強材と、隙間の縁を、一つずつ、確かめた。
「……持ってる。ただし、全員で、一度には、通れん。この隙間は、一人ずつだ。それに、いつ崩れてもおかしくない。壁全体は、まだ、安全じゃない」
「分かった」
バルトが、短く言った。
「先行組を、決める」
全員が、バルトを見た。
「俺が行く。指揮は、現場で取る」
「バルトさん」
「斥候。お前は、先頭だ。周囲の確認と、音の方向を頼む」
「了解」
「それと」
バルトは、俺を見た。
「カイ。お前も、来い」
「……俺も」
「理由は、三つある。一つ。狭い場所での移動に、慣れている。荷運びは、狭い通路で荷を運ぶのが、仕事だ。二つ。足場を、見られる。濡れた場所、崩れやすい場所を、お前は、見分けられる。三つ。縄が、使える。何かあったとき、縄を扱える」
「……はい」
「ドラン。お前は、ここに残れ。縄の責任者だ。先行組の命綱を、持て」
「分かった」
ドランさんは、短く、答えた。
「縄の合図は」
「三度、引いたら、危険の合図だ」
バルトが言った。
「受けたら、まず、縄を手繰って、状態を確かめろ。声をかけろ。強く引くな。狭い隙間で強く引けば、石にぶつける。俺が『戻れ』と言ったら、先行組が、自分の足で、戻る。縄は、その補助だ」
「分かった」
「技術者。補強材の様子を、常に見ろ。少しでも、異常があれば、すぐ、声を上げろ」
「分かってる」
「盾。壁の前で、頭上を、警戒しろ」
盾持ちの男が、無言で、うなずいた。
「出る」
バルトが言った。
俺は、縄を、腰に回した。
荷運びが、人を吊り上げるときに使う、輪の結びだ。
引いても、締まらない。簡単には、ほどけない。
ドランさんが、結び目を、自分の手で、確かめた。
「……いい結びだ」
「はい」
「縄は、張らねえ。お前たちの歩く速さに合わせて、送り出す。たるませすぎも、しねえ」
「お願いします」
「戻ってこい」
「はい」
それだけで、十分だった。
斥候の女性が、先頭で、隙間に体を入れた。
縄が、するすると、送り出されていく。
「……通れる。頭上、今のところ、異常なし」
向こうから、声がした。
次は、俺だった。
隙間に、体を入れた。
濡れた石が、肩を、擦る。
頭の上すれすれに、補強材の端と、石の縁がある。水が、膝の下を、流れていく。
「ゆっくり行け。縄は、緩めてる」
ドランさんの声が、後ろから、聞こえた。
「はい」
肘と膝で、石の上を、這う。
頭上の石に、触れないように。足元の石が、動かないように。
荷運びの体が、覚えている。狭い通路で、荷を引きずって、通り抜ける。何度も、やった。
隙間の向こうに、斥候の女性の、ランプの光が、見えた。
最後の一歩。
体を、引き抜く。
立ち上がる。
息が、できた。
天井が、高い。
……着いた。
壁の向こう。
あの壁を、越えた。
昇降台。水。補強材。全部が、ここへ来るためだった。
胸が、いっぱいになった。
でも。
まだ、始まったばかりだ。
背中の方で、水が、流れている。
最後に、バルトが、隙間を抜けてきた。
「三人、揃った」
バルトが、低く、言った。
「これから、ここで、何が起きるか分からん。縄を、頼りにしろ。慎重に行く」
ランプの光が、壁に反射する。
天井の低い、細長い空間だった。
足元は、緩い斜面になっていて、水が、奥から、手前へ向かって、流れていた。
水の音が、近い。
「全員、足元に注意」
バルトが、低く言った。
「カイ、足場を」
「はい」
俺は、棒で、足元を突いた。
水の中の石は、ぬるぬるしている。
「ここ、左は、滑ります。右の、岩に沿って行きます」
「了解」
三人で、ゆっくり、奥へ進んだ。
縄が、腰から、隙間の向こうへ、伸びている。
ドランさんが、握っている。
その感触が、頼もしかった。
斥候の女性が、足を止めた。
「……これ」
ランプの光が、壁の一点を、照らした。
石の壁に、傷が、並んでいた。
石で、引っかいた、細い線。
一本。二本。
びっしりと、並んでいる。
数える気になれないほど、並んでいた。
「……日を、数えてたのか」
バルトが、低く言った。
誰が。
何日。
分からない。
でも、誰かが、ここで、何かを数えていた。
斥候の女性が、線の端に、ランプを近づけた。
「一番、端の一本。傷の色が、違う」
「新しいのか」
「分からない。石の質が、違うだけかもしれない」
胸が、ぎゅっと、鳴った。
「近くに、何か」
斥候の女性が、足元を探った。
岩陰の窪みに、小さな段が、作ってあった。
石を、積んで、できた、小さな、乾いた足場。
水が、そこだけ、避けて流れている。
その上に、物が、置いてあった。
革の背負い袋が、一つ。畳んだ布。水袋。
水袋は、ほとんど、空だった。
「誰かが、ここで、水を避けて、荷を置いてた」
斥候の女性が、静かに、言った。
「水袋は、湿ってる。ただ、ここは、何でも湿る」
「誰のものかは」
「分からん」
バルトが、低く言った。
「いつからあるのかも、分からん」
斥候の女性が、段を作っている石を、一つ、ランプで照らした。
「この石。下側が、白く削れてる。動かした跡だ」
「いつ」
「分からない。でも、積まれてから、まだ、苔も水垢も、ついてない」
「……崩れたあとも、誰かが、ここで、動いてたのかもしれん」
バルトが、言葉を選ぶように、言った。
「それ以上は、決められん」
「はい」
俺は、うなずいた。
誰の、何なのか。
分からない。
でも、ここに、誰かがいた。
それは、確かだ。
「奥だな」
「はい」
足を、進める。
水の音が、少しずつ、大きくなる。
斜面を、下っていく。
岩の影の向こうで、天井が、もう一段、低くなっている。
そのとき。
闇の奥から、何かが、聞こえた。
水の音とは、違う。
かすかな、音。
斥候の女性が、足を止めた。
バルトも、止まった。
俺も、止まった。
息を、殺す。
水の音。
ごぽ。
……
……ぁ
声だった。
かすれた、声。
男か女かも、分からない。
でも、確かに、人の声だった。
「……誰か」
もう一度。
「……誰か、いるのか」
胸が、熱くなった。
足が、前へ出かけた。
「……はい! ここに」
声が、出かけた。
その瞬間。
足元の水が、急に、強く、流れ始めた。
ごう、と、斜面の奥から、水が、押し寄せてくる。
膝の下だった水が、ふくらはぎまで、一気に、上がる。
「戻れ!」
バルトの声が、響いた。
でも、俺の目は、闇の奥から、離れなかった。
「……誰か、いるのか」
かすれた声が、水の音に、飲まれていった。




