第十三話 止まった時間を動かす
水の音が、また、少し大きくなった気がした。
アーチの下で、俺たちは、待っていた。
「水の音から、目を離すな。ただし、近づくな」
バルトが言った。
「待つ間、できることをやる。ドラン、カイ、補強材の札を確かめろ。斥候、アーチから石床の部屋の手前までの道を、水の様子込みで見てこい。ただし、坂の途中までだ」
「了解」
ドランさんと俺は、補強材の束を、札の順に、並べ直した。
水の音の方へ、足が向きかけた。
止めた。
札を一枚ずつ、読み上げる。
一番、壁用の補強材。二番、三番。
四番の山は、まだない。縄と棒は、六便目で来る予定だった。
「棒は、一本だけ、先発の荷に入ってます」
「それを、使え」
斥候の女性が、戻ってきた。
「坂の途中まで、見てきた。水は、前より、少し深い。足首の、少し上。流れは、ゆるい」
「退避は」
「扉のアーチが、一番高い。ここまで戻れば、水は、まだ届かない」
「ここを、退避位置にする。ランプを一つ、置いておけ」
バルトが、短く言った。
「四人で、壁へ向かうことは、しない。それだけは、変わらん」
「はい」
俺は、うなずいた。
何もせずに待つのと、できることをしながら待つのとは、違う。
そう、自分に言い聞かせた。
しばらくして、縦穴の上から、縄が降りてきた。
先に、荷札が、二枚、結んである。
ドランさんが、縄を受け止めた。
「札だ」
「俺が、読みます」
一枚目は、オルトの字だった。
昇降台、枠、鎖、巻き上げ装置。地上側、再点検済み。異常なし。
第五便の積み荷を点検。軽い資材の固定縄、一部が緩んでいた。荷が、片側へずれていた。
積載は、限度の八割以内。重さは、問題なし。
昇降台の枠の角に、擦れた跡あり。
原因は、確定せず。調査を続ける。
台座と、鍵の記録の件は、別だ。今は、救助が先。
読み上げると、バルトが、腕を組んだ。
「固定縄が、緩んでいた。荷が、ずれた。……荷が偏れば、揺れるな」
「揺れて、擦れた」
斥候の女性が、縦穴の壁を、見上げた。
「どこかに、当たった、ということか」
二枚目は、技術者の、角張った字だった。
縦穴の壁を、吊したランプで確認。上から九つ目の印の付近に、石の継ぎ目の段差あり。
昇降台の枠の擦れ跡の高さと、一致。揺れで枠の角が引っかかった可能性。
ただし、確定はできない。
「引っかかった、ってことか」
ドランさんが言った。
「揺れたとき、鎖が、かん、かん、と鳴りました」
俺は、思い出していた。
「あのとき、昇降台は、傾いていませんでした。水平のまま、ぶら下がってた。傾いてないなら、台が傾いて止まったわけじゃない。偏った荷で、揺れた。揺れて、角が壁に引っかかった。止まった。……それなら、上へ引いたときに、外れて動いたのも、分かります」
バルトが、俺を見た。
「だが、荷の固定が緩んだ理由は」
「縄は、水を吸うと、伸びます」
言いながら、頭の中で、荷の山を、思い返した。
「荷運びなら、みんな知ってます。湿気を含んだ縄は、荷の重さで、伸びる。第五便の軽い資材は、地上で、最後に積まれました。朝の、湿った荷役場で。縄が、湿っていたのかもしれません」
「……なるほど」
「それと、第五便には、人が四人、乗ってました。歩いたり、荷に触ったりすれば、緩んだ縄は、もっとずれます」
「第一便から四便には、人は乗ってなかった。重い荷は、動かん。軽い荷と人が一緒の便だけが、条件が違った」
バルトは、ゆっくり、言った。
「筋は、通る。だが、確証はない」
「はい。だから、荷札で、返事を送ります。確かめて、対策を提案します」
荷札の板に、炭で書いた。
縄は、乾いたものを使う。濡れた縄は、使わない。
軽い資材は、昇降台の中央付近に、まとめる。縄は、昇降台の固定金具に、しっかり結ぶ。
人は、壁際を避けて、昇降台の内側に立つ。左右の重さが、偏らないように。
荷と人の配置は、オルトさんと技術者さんが、確認してください。
枠の擦れ跡と、縦穴の壁の段差の高さが合うなら、揺れを抑えることを優先してください。
「これで、いいか」
「はい。ただし、設備の判断は、技術者さんとオルトさんです。俺は、荷の側から見えることを、書いただけです」
バルトが、うなずいた。
「それでいい」
荷札を縄に結んで、縄を揺らした。
縄が、するすると上がっていく。
待つ。
水の音。
ごぽ。
長い待ち時間だった。
やがて、また、縄が降りてきた。
荷札には、短く、書いてあった。
提案、採用。
縄は、乾いたものに交換。資材は、中央付近にまとめ、固定金具に結ぶ。乗員は、壁際を避けて、内側に立つ。配置は、技術者と俺で確認する。
昇降台の枠の角に、当て板を足す。
再点検後、空台で試験運転。次に、砂袋で荷重をかけた試験運転。
異常時の中断条件は、前回のとおり。
復旧後の便数は、当初より増える。覚悟しておけ。
「採用……!」
ドランさんが、小さく、拳を握った。
「まだ、動いたわけじゃない」
そう言いながら、俺の声も、少し、震えていた。
縦穴の、ずっと上の方で、灯りが、一つ、動き始めた。
空の昇降台が、降りてくる。
ゆっくり。
斥候の女性が、また、数えている。
「七つ。八つ。九つ」
九つ目の印を、昇降台の灯りが、照らした。
息を、止めた。
昇降台は、そこを、何事もなく、通り過ぎた。
十個目。十一個目。
底に、着いた。
空の昇降台が、ごとん、と音を立てた。
誰も、何も言わなかった。
バルトが、鎖を、二度、引いた。
昇降台が、空で、戻っていく。
次は、砂袋を載せた昇降台が、降りてきた。
九つ目を、通り過ぎる。
底に、着く。
鎖を、二度、引く。
戻っていく。
荷札が、降りてきた。
試験運転、異常なし。再開する。第五便から。
肩の力が、抜けた。
「よし」
バルトが、短く言った。
「再開だ。受け入れ、準備」
第五便の昇降台が、降りてきた。
盾持ちの男、技術者、荷運び二人。軽い資材。
昇降台の中央付近に、荷が集められている。縄は、固定金具に、しっかり結ばれていた。人は、壁際を避けて、内側に、左右に分かれて立っている。
九つ目の印を、昇降台の灯りが、照らす。
通り過ぎた。
底に、着いた。
「着いた……」
荷運びの一人が、膝に手をついて、息を吐いた。
「無事で、何よりだ」
バルトが、短く、言った。
技術者が、昇降台から降りて、まっすぐ、俺のところへ来た。
「お前の荷札を、読んだ」
「はい」
「枠の擦れ跡は、確かに、あの段差の高さだった。ただ、段差だけが原因とは、言い切れん。縄の緩みも、固定縄の湿りも、全部、合わさった結果かもしれん」
「はい」
「だが、対策は、全部、効くはずだ。荷の位置を変えて、縄を替えて、枠に当て板を足した。配置は、オルトと確認した。それで、揺れは、かなり減る」
技術者は、少しだけ、口の端を上げた。
「助かった」
「いえ。俺は、荷の見え方を、書いただけで」
「その見え方が、設備の調べに、役に立った」
それ以上は、言わなかった。
でも、十分だった。
第六便は、無人だった。
縄、滑車、工具。荷札の四番の山が、昇降台から、降りてくる。
荷を受け取って、札の順に、並べる。
荷降ろしが終わって、鎖を、二度、引く。
昇降台が、空で、戻っていく。
第七便は、荷運びが四人。
昇降台が、底に着いたとき、胸の奥で、何かが、ほどけた。
十二人、全員が、下層に揃った。
当初の計画より、昇降台は、何度も動いた。数えるのは、途中で、やめた。
最後の荷札が、縄で降りてきた。
昇降台は、下に置く。合図があるまで、動かさない。必ず、帰ってこい。
オルトの字だった。
「……はい」
小さく、返事をした。
聞こえるはずは、なかった。
でも、返事をしたかった。
「全員、集まれ」
バルトが、通路の脇に、全員を集めた。
探索者のバルト、斥候の女性、盾持ちの男。技術者。ドランさんと俺、年配の荷運び、それに、荷運びが五人。
十二人。
水の音が、背後で、はっきり、大きくなっている。
「手短に言う」
バルトが、全員の顔を、見回した。
「役割は、変わらん。現場の指揮は、俺。構造の判断は、技術者。荷運び班の責任者は、ドラン。荷の順番と札は、カイ。石床の部屋と濡れた坂の足場は、カイが見る。斥候は、先頭の周囲確認。盾は、殿と、頭上の警戒」
「了解」
「危険を感じたら、すぐ止まれ。止まれと言ったら、止まれ。判断は、俺がする。以上」
バルトは、一度、だけ、息を吐いた。
「行くぞ」
荷を背負って、列になった。
扉を抜ける。
振り子の廊下。天井から、細い鎖が、何本も、垂れている。刃は、一本も、ない。
誰も、何も言わなかった。
石の門を、抜ける。
一つ目の曲がり角。
二つ目。
坂が、強くなる。
床の継ぎ目が、黒く濡れていた。
「足、気をつけてください。前より、水が、深いです」
先頭に立って、棒で足元を突きながら、俺は言った。
水は、足首より上まで、来ていた。
三つ目の角を曲がる。
壁には、空っぽのくぼみが、一列に、並んでいる。床には、割れた穴。
「端は、踏まないでください」
「分かってる」
後ろから、ドランさんの声が、返った。
坂を、慎重に、登って、下って。
荷を背負った十二人が、一本の縄のように、進んでいく。
誰も、滑らなかった。
石床の部屋に、着いた。
水が、すねの半ばまで、床を覆っていた。
張り綱は、向こう岸の柱に、結ばれたままだ。
傾いた石の列が、水の下で、斜めの帯みたいに、沈んでいる。
「……縁は」
棒を、水の中に、差し込んだ。
壁際の縁を、こつ、と突く。
返ってきたのは、固い手応えじゃなかった。
「縁が、さらに、崩れてます」
石が、半分以上、欠けていた。
「どうする」
「壁から二筋目の、太い継ぎ目の石の列を、まっすぐ行きます。来るとき、動かなかった石です。一つずつ、棒で確かめます」
「時間が、かかるぞ」
「はい。でも、一人ずつ、確実に、渡します」
バルトは、短く、考えて、言った。
「やれ。斥候、張り綱の確認。盾、頭上」
「了解」
最初の一歩。
水の中の石を、棒で、こつ、こつ。
「ここ」
次。
「ここ。右の継ぎ目は、太いので、安全です」
一人ずつ、渡っていく。
四番の札の縄を、腰にかけ、張り綱に、輪でつなぐ。
水が、ふくらはぎをなでる。
全員が、渡り終えるまで、半刻を、少し超えた。
水が深くなって、足場も、崩れていた。棒で確かめる回数が、前より増えたぶん、時間がかかった。
その間、水の音は、ずっと、大きくなっていた。
最後の一人が、向こう岸に着いたとき、全員が、息を吐いた。
「行くぞ」
バルトが、短く、言った。
通路は、細く、暗くなった。
水の音が、近い。
水は、膝の下まで、来ていた。
流れも、前より、はっきり、している。
壁の方から、俺たちの方へ。
足を、速めた。
「着いた」
先頭の斥候の女性が、立ち止まった。
通路の突き当たりに、崩れた壁が、あった。
大きな石が、天井まで積み重なっている。
その隙間から、水が、細い筋になって、何本も、噴き出していた。
前は、二本だった。
今は、数えきれない。
胸の奥の重さが、ぐっと、壁の向こうへ、引かれた。
息が、詰まった。
「全員、壁から、五歩、離れろ」
バルトが言った。
「技術者」
「見る」
技術者が、水の中を、壁へ、近づいた。
土台に近い、膝の高さの大きな石の前で、しゃがむ。
水に手を入れて、石の足元を、探った。
しばらくして、顔を上げた。
「……土台石の足元が、洗われてる」
「洗われてる?」
「下の砂が、水で削られて、流れ出してる。土台石が、ほんの少し、傾いてる」
技術者の声は、低かった。
「前は、この石が、動かん支えだった。今は、足元が、痩せてきてる」
「叩くな」
技術者は、言った。
「この石は、もう、叩くな。合図に使った石だ。今は、危ない」
「別の石を」
「右端の、岩盤に続いてる石がいい。あれは、動かん」
俺は、木槌を握って、右端の石へ近づいた。
深く、息を吸う。
短く二つ、長く一つ。
こん、こん。
こーん。
水の音が、静かに、響く。
待つ。
一つ。
二つ。
三つ。
何も、返らない。
「……もう一度」
同じ合図を、送る。
こん、こん。
こーん。
水の音。
ごぽ。
長い沈黙。
誰も、動かなかった。
唇が、乾いた。
そのとき。
こん。
一つだけ。
壁の向こうから、小さな音が、聞こえた。
「……今の」
「聞こえた」
斥候の女性が、壁から顔を離した。
「でも、一つだけだ」
「人の音、か」
誰かが、小さく言った。
「石が、動いた音かもしれん」
技術者が、低く言った。
「土台が、傾いてる。奥で、石がずれても、おかしくない」
「……」
俺は、木槌を握りしめた。
人の返事なのか。石が鳴っただけなのか。
分からない。
でも、胸が、熱くなった。
確証は、ない。
でも、確かめなければ、分からない。
ドランさんは、何も言わなかった。
ただ、俺の肩に、手を置いた。
「バルトさん」
「分かってる」
バルトは、壁を見たまま、言った。
「人の音か、石の音かは、まだ、決められん。どちらでも、やることは、変わらん」
バルトは、技術者を見た。
「判断を」
「このまま、土台が、洗われ続ければ」
技術者は、一度、言葉を切った。
「壁は、全体が、前へ、傾く。石も、水も、一度に来る。それが、いつ来るかは、分からん」
水は、膝の下で、冷たく、流れていた。
壁の石の隙間から、細い筋が、何本も、噴き出している。
その向こうに、誰かが、いるのかもしれない。
バルトが、全員を、見回した。
「全員、配置につけ」
低い声だった。
「壁を、突破する。ただし、順番は、守る」
ここからが、本番だった。




