第十七話 荷役場の逆流
第2部、開幕です!
迷宮から無事に帰還したカイたち。
ようやく日常に戻れると思った矢先、荷役場で思いがけない異変が起こります。
今度の舞台は、地上。
カイの新たな物語が始まります。
今回もよろしくお願いします!
最初に聞こえたのは、水の音ではなかった。
鉄が鳴る音だった。
荷役場の北の端、昇降台のそばにある排水槽。その鉄格子が、下から殴られたように跳ね上がった。
麦袋を担いだまま、俺は足を止めた。
「今の、聞こえたか」
荷車を引いていたミロが、青い顔でうなずく。
次の瞬間、格子の隙間から黒い水が噴き上がった。
迷宮から戻った翌朝だった。ろくに眠れないまま夜が明けて、俺はいつもの荷運びの仕事に戻っただけのはずだった。
水は床に落ちると、一気に広がった。
荷役場の床は、北の昇降台から南の荷倉に向かって、ゆるく下っている。広がった水は迷わず、その下り坂を走り出した。
「水だ! 排水槽が溢れた!」
誰かが叫び、荷役場が一斉にざわめく。
行き先は、南の端にある荷倉の入口だ。入口の床は通路より階段二段ぶん低く、中には小麦と干し果物、紙の束がしまってある。しかも、荷倉の中にはまだ二人が残っていた。
「中の連中を出せ! 麦を上の棚へ上げろ!」
年配の荷運び、ゴルドさんが怒鳴りながら荷倉へ走る。迷いのない声だった。荷倉の中身を知り尽くした人の判断で、間違ってはいない。
でも、俺は荷倉とは反対に、東の壁を見ていた。
壁の中ほどに、荷車用の大きな扉がある。搬出口だ。その外は長い下り斜路で、先に街の水路がある。毎朝荷車で上り下りしているから、坂の傾きは体が覚えていた。
水は、低いほうへ行く。なら、荷倉より低い逃げ道を作ってやればいい。
そのとき、格子の下でごぼりと音がして、水がふっと引いた。
そして、また噴いた。二度目の波だ。
数えてみる。二百を少し超えたところで、三度目が来た。間隔はほぼ同じ。ただ、波が来るたびに水は強くなり、引いても床の水は元の高さまで戻らない。足首だった水が、もうすねに届いている。
考える時間は、波のたびに削られていく。
「ドランさん!」
荷車を押さえていたドランさんが、振り向いた。
「搬出口から水を外へ逃がします。ただ、止めるんじゃなく、曲げます。西の柱から搬出口まで、斜めに導きます」
「曲げるったって、水は黙って曲がらねえぞ。何で受ける」
「荷車の側板です。床の荷止めの鉄輪と柱に縄を掛けて、斜めに立てます」
「板だけじゃ、押し倒されるだろう」
「だから重い荷は、水の当たる側じゃなく、板の後ろに置きます。足元を押さえる荷です」
ドランさんの眉が、わずかに動いた。
そこへ、荷倉から戻ってきたゴルドさんが割り込んだ。
「寝言を言うな。搬出口は管理所の許可なしには開けられん。それに、外へ水を出せば市場通りが浸かるぞ」
もっともだ。俺は頭を下げた。
「外が水を受けられるかは、俺の目分量です。だから、確かめてもらいます」
「新入りの目分量で、扉を開けろと?」
痛いところを突かれた。俺は、まだ新入りだ。
「……ミロ」
ドランさんが言った。
「管理所へ走れ。オルトを呼んでこい。扉を開けるかどうかは、あいつが決める」
「はい!」
ミロが水を蹴って駆けていく。ドランさんは、ゴルドさんに向き直った。
「責任は俺が持つ。ゴルド、荷倉の二人を出して、軽い荷だけ上へ上げてくれ。重い荷は動かすな」
「重い荷をか」
「そっちは、こいつが使う」
ゴルドさんは舌打ちをしたが、荷倉へ引き返した。逆らったのではない。自分の持ち場を、先に片付けに行ったのだ。
俺は奥の壁際へ走った。鉄の延べ棒を詰めた木箱と、鉄鉱石の袋が積んである。
「手の空いてる人、荷車の側板を外してくれ! それと、箱を引きずるのを手伝ってくれ!」
最初は誰も動かなかった。新入りの号令だ。無理もない。
そのとき、四度目の波が来た。水が膝まで跳ね上がり、荷運びたちの顔色が変わる。
「やるぞ!」
最初に動いたのは、ドランさんだった。つられて、数人が駆け寄ってくる。
西の柱と、搬出口脇の柱。その間の床に、荷止めの鉄輪が三つ並んでいる。側板を二枚、少しずつずらして重ねて立て、柱と鉄輪に縄で引き寄せる。板は水に正面から当てず、流れに沿わせるように斜めに寝かせた。
板の後ろには、延べ棒の箱を足元に積む。鉄鉱石の袋は、その上だ。板が水に押されても、足が滑らないようにするための荷だ。
「縄は二重だ! 輪が締まらない結びで掛けろ!」
「わかってる!」
水は壁に沿って、搬出口の前へ集まっていく。扉は閉じたままだ。つまり、そこが行き止まりになる。
荷倉の二人が、麦袋を抱えて出てきた。腰まで水に浸かった一人が、段差で足を滑らせる。
「危ない!」
縄を投げた。先端の輪が、相手の腕に引っかかる。ゴルドさんがそれを掴み、二人まとめて引き上げた。
「……無茶をする」
「出られてよかったです」
ゴルドさんは何も言わず、縄を投げ返してきた。
五度目の波がぶつかり、板がきしむ。縄が鳴った。それでも、柱と鉄輪に引かれた壁は、持ちこたえた。
そこへ、ミロがオルトを連れて戻ってきた。
オルトは壁と水を、一度ずつ見た。それから搬出口へ歩み寄り、扉の脇の潜り戸を、手のひら一枚ぶんだけ開けた。
外を覗く。
「斜路は空だ。この先の水路は、街の雨水用の水路に合流している。市場通りとは別の系統だ」
「水路の水は、いつも底が見えるほど浅いです」
「俺も見る。ミロ」
オルトは懐から白い布を出した。
「斜路を下りて、水路の橋のたもとで人を止めろ。そのうえで、排水口に詰まりがないか、水位に余裕があるか、近くに人がいないかを見ろ。三つそろって安全だと分かったら、この布を振れ。振るまで扉は開けない」
「はい!」
ミロが潜り戸から飛び出していく。六度目の波がぶつかり、壁の前の水だけが胸の高さまで盛り上がった。荷役場全体の水位はまだ膝だが、行き場を失った水が、行き止まりのそこへ集まっている。扉の閂にも、水の重みがかかっていた。
開けるのが遅れれば、この壁のほうが先に壊れる。
「まだか」
ドランさんが、歯を食いしばった。
潜り戸の向こうで、白い布が大きく振られた。
「通れる。水路に余裕がある」
オルトが言った。
「許可する。管理所が責任を持つ。ドラン、閂を」
「おう!」
二人で閂に手をかけた。太い木の棒は、濡れて重い。
「せーの」
閂が抜けた。扉が外へ弾かれ、溜まっていた水が一気に斜路へ吐き出される。
轟音とともに、水は壁に沿って斜めに滑り、搬出口から外へ流れ出ていった。荷倉の入口を、水が素通りしていく。
次の波は、真っすぐ扉へ吸い込まれた。壁は、倒れなかった。
何度目かの波のあと、荷役場の水位は、ようやく足首まで下がっていた。
「荷倉は」
「濡れてねえ。入口の段まで来なかった」
ゴルドさんが荷倉を覗いて言った。それから、俺たちの作った壁を、しばらく眺めた。
「重い荷を、運ばずに置いたのか」
「運ぶ時間がなかったので。置いたほうが役に立つと思いました」
「……上の棚に上げた麦は、無駄になったな」
「いえ。あれがあったから、中の二人が先に出られました」
ゴルドさんは鼻を鳴らした。それが、彼なりの答えだった。
ドランさんが、俺の肩をばしんと叩いた。
「お前の読みどおりに動いたな」
それだけ言って、水の引いた床を歩いていく。叩かれた肩が、少し熱かった。
「カイ。こっちへ来てくれ」
オルトが、排水槽の前にしゃがんでいた。鉄格子の下を、ランプで照らしている。
「この排水槽は、荷役場の水を集めて、昇降路のほうへ流すためのものだ。流れはいつも、ここから昇降路へ向かう」
格子の奥、昇降路側の壁に開いた排水の穴から、濡れた石の冷たい匂いがした。穴の縁には、水の筋が上向きに走っている。
ごぼり、と音がした。
また、水が噴いた。さっきより少し弱い。それでも、波は終わっていなかった。扉から外へ流れ出ているから、荷役場が浸からずに済んでいるだけだ。
「向きが、逆だ」
「ああ。雨でも、溜まった水でもない。昇降路の底から、押し上げられている」
背筋が冷えて、俺は無意識に胸へ手を当てた。
胸の奥の重さが、かすかに動いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
地上に戻ったカイたちですが、どうやら新たな異変が始まったようです。
次回もお楽しみに!
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