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第26話 続く仮面、続く一年

 雪解け水が中庭の噴水へと勢いよく流れ込み、回廊の影には柔らかな春の陽光が差し込んでいた。


 吹き抜ける風から冬の刺すような冷たさが消え、乾いた土の匂いと、花壇に顔を出したクロッカスの甘い香りが王宮を満たしている。


 冬の式典での暗殺未遂事件から、二ヶ月が過ぎていた。


 あの夜を境に、宮廷の勢力図は大きく塗り替えられた。


 神殿派の貴族たちは、セドリックが事前に押さえていた不正の証拠と暗殺への関与を突きつけられ、次々と失脚していった。


 一方、黒幕と目されるヴィクトール大主教は「過激派の神官が独断で起こした凶行」と関与を否定し、逮捕こそ免れたものの、王宮への介入力を決定的に失った。


 水面下の暗闘は、ひとまず王家側の勝利で幕を引いたのだ。


 そして。

 アルドレア王国とヴァンディエル王国との通商協定は、春の訪れとともに正式に調印された。


 本来であれば、使節団を率いてきたリュシアン王子は協定締結とともに自国へ帰還するはずだった。


 だが。


「……で。リュシアン殿下は、いつ北国へお帰りになられますの?」


 東翼の離宮にある温室庭園。


 ガラス越しに春の日差しが降り注ぐガゼボの中で、私は扇子をパチンと閉じ、向かいの席に優雅に腰掛ける青年に視線を向けた。


 プラチナブロンドの髪を光に透かせ、銀の刺繍が入った私服の上着を軽やかに着こなしたリュシアンが、手元のティーカップを傾けながら涼しげに笑う。


「条約の追加細則の策定、通商路の警備計画のすり合わせ、両国の親善行事の手配……まだまだ首席使節として処理すべき公務が山積みでしてね。当分の間、この王都に滞在することになりました」


「……先週エドモン宰相に確認いたしましたけれど、実務の九割はとっくに終わっていると伺いましたわ」


「残りの一割が何よりも重要なんですよ」


 リュシアンは悪びれる様子もなく、琥珀色の紅茶を一口すすった。


「特に、将来の同盟関係をより強固なものにするための『個人的な親睦』という項目がね」


 その瞳が、悪戯っぽく細められて私を捉える。

 至近距離から向けられた熱を帯びた眼差しに、私の心臓がトクンと不規則に跳ねた。


(この人、絶対に帰る気がない……!)


 あの式典の夜、私の泥臭い立ち回りを目撃し、稽古室で一緒にワルツを踊った北の王子。


 彼は私の正体が本物のロゼリア王女ではないと完全に察していながら、それを暴くどころか、こうして事あるごとに私の元へと足を運んできては、甘い言葉でからかってくるようになったのだ。


「殿下、あまりリュシアン殿下の戯言に耳を傾けてはなりません」


 私の背後から、冷ややかな声が落ちてきた。


 銀のポットを手に進み出てきたのは、黒のフロックコートを寸分の乱れもなく着こなしたセドリックだ。

 彼は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げると、私のカップに湯気の立つアールグレイを静かに注ぎ足した。


「ヴァンディエル王国の使節団宿舎には、毎日のように本国の王太子殿下から『早く戻って政務を手伝え』という親書が届いていると、城門の連絡係から報告が入っております。居座りを続けるのは、他国の王族として少々見苦しいのではありませんか」


「これは手厳しいな、ハミルトン卿」


 リュシアンは肩をすくめた。


「だが、客人を丁重にもてなすのは招いた側の礼儀のはずだ。……それに、私は以前約束したのですよ。ロゼリア殿下の特製スープをご馳走になる、とね」


「王女殿下が他国の客人のために厨房へ立たれるなど、宮廷の作法に照らせば到底許されません。……殿下、紅茶のおかわりをどうぞ。本日の茶葉は、下町の市場から取り寄せた『春摘みのシトラスリーフ』です」


 セドリックは平然と言い放ちながら、私の前に小さな銀皿を置いた。


 そこに乗っていたのは、一口大に焼き上げられた素朴なスコーンと、オレンジのジャム。


 王宮で出される気取ったマジパンやフォンダンショコラではなく、下町で私が毎朝焼いていたのとよく似た、小麦の香りがしっかりとする焼き菓子だった。


(セドリック……わざわざ下町の材料を取り寄せてくれたんだ)


 一口かじると、サクッとした歯触りとともに、懐かしいバターと小麦の風味が口いっぱいに広がった。


 セドリックは私の表情を見て、誰にも気づかれないほど微かに口元を緩め、満足そうに眼鏡の位置を直した。


 正体を明かして以来、この完璧主義の教育係は、表向きは厳しい指導を続けながらも、裏では私の好みを完璧に把握し、細やかに世話を焼くようになっていた。


 王女としての作法を叩き込む一方で、私の心が下町の平穏から切り離されすぎないよう、気遣いを欠かさない。


 主従という枠組みを超えたその過保護なまでの献身は、時に息が詰まるほど甘く、重かった。


「……おいし」


 思わず零れ落ちた素の呟きに、ガゼボの入り口から低い咳払いが響いた。


「殿下、温室の外回りの巡回を完了いたしました」


 入ってきたのは、白銀の甲冑の上に軽やかな春用のサーコートを羽織ったガレットだった。


 腰の長剣に手を添えた巨躯は相変わらず威圧感に満ちていたが、私と目が合った瞬間にふわりと和らいだ。


「ご苦労様、ガレット。……何か変わった様子はあって?」


「異常ありません。神殿の白衣どもは、城門の前を遠巻きにうろつくのが関の山です。……もし敷地内に足を踏み入れようものなら、一歩目で叩き出しますのでご安心を」


 ガレットは私の椅子のすぐ脇まで歩み寄ると、腰のポーチから小さな包みを取り出し、卓の端にそっと置いた。


 油紙で包まれたその中身から、香ばしいナッツと砂糖の匂いが漂ってくる。


「……これは?」


「下町の『麦穂亭』の向かいにある、木の実屋の焼き菓子です。……非番の際、街の様子を見に行ってまいりました。店のおやじさんもトマス殿も、元気に仕込みをしておられましたよ。『最近は神殿の連中も見かけなくなった』と笑っておられました」


「トマスさんたちが……!」


 思わず身を乗り出しそうになった私を、セドリックの鋭い視線がピシリと射抜いた。


「殿下、身を乗り出してはなりません」

「あ……コホン。大儀でしたわ、ガレット」


 慌てて背筋を伸ばし、扇子で口元を隠す。

 ガレットは私の慌てぶりに小さく笑うと、胸に手を当てて深く頭を垂れた。


「殿下の安全と、殿下の大切な場所を守るのが、私の役目ですから」


 あの日、式典の壇上で「俺が守るべき主君はこの人だ」と覚悟を決めて以来、ガレットは専属護衛としての忠誠をさらに深めていた。


 私が下町の娘だと知ったことで、かえって距離が縮まったのか、近衛の任務の合間を縫っては下町の見回りに赴き、店の無事を確かめてきてくれるのだ。不器用で真っ直ぐな彼の庇護は、何よりも心強い盾だった。


「ふむ……」


 向かいの席で、リュシアンが面白そうに顎に手を当てた。


「近衛騎士が下町まで使い走りをし、侍従長が自ら特製の焼き菓子を用意する。……アルドレア王室の手厚さには驚かされますね。これでは、私が付け入る隙がまるでない」


「付け入る必要など、最初からございません」


 セドリックが氷のように冷淡な声で切り捨てる。


「私としても、殿下の身辺にこれ以上不審な害虫を近づけるつもりはありませんので」

ガレットも長剣の柄に手をかけたまま、リュシアンを鋭く睨み据えた。


 ガゼボの中に、バチバチと見えない火花が散る。

 一国の第二王子、王室の侍従長、そして近衛騎士。


 身分も立場も異なる三人の男たちが、私を中心にして、静かで熾烈な視線の牽制を繰り広げていた。


(……なんでこうなるのよ)


 私はこめかみを押さえ、深いため息を飲み込んだ。


 最初は、いつ殺されるか分からない恐怖の中で始まった身代わり生活だった。


 エドモン宰相に脅され、オリヴィアに嫌がらせを受け、神殿の狂信者たちに命を狙われ、味方など一人もいないと思っていた。


 それが、どうしてこうなったのか。


 正体を知られたはずの三人は、誰一人として私を告発しなかった。


 それどころか、知れば知るほど、それぞれのやり方で私を囲い込み、守り、他の男を牽制し合っている。


「ロゼリア殿下」


 リュシアンが身を乗り出し、私の手元に置かれた油紙の包みを指差した。


「そのナッツの焼き菓子、私もいただいてよろしいですか? 貴女が生まれ育った……おっと、お好みの下町の味というものを、ぜひ試してみたい」


「あ、これ? すごく美味しいのよ、外側がカリッとしてて中が――って、ダメですわ!」


 素のパン屋口調で説明しかけ、私は慌てて扇子を広げた。


「他国の王子に、このような市井の粗末な菓子を差し上げるわけにはまいりませんことよ! オホホホホ……!」


「構いませんよ。貴女の好むものなら、私にとっても至高の味だ」


 リュシアンはさらりと甘い台詞を吐きながら、ナッツをひとつ摘んで口へと運んだ。


「……なるほど。素朴だが、温かい味がする。貴女のようだ」


「っ……!」


 顔が一気に熱くなる。


「リュシアン殿下、王女殿下への度を超えたご無礼は謹んでいただきたい」


 セドリックがすかさず割り込み、私とリュシアンの間に新しいティーカップをコトッと置いた。


「口先だけの口説き文句なら、自国の宮廷でお使いください」


 ガレットが一歩前に踏み出し、リュシアンの視界を物理的に遮る。


「おや、二人とも怖い顔をする。私はただ、素直な感想を述べただけですよ」


 リュシアンは楽しそうに笑いながら、ガレットの背後から私に向かって片目をウインクしてみせた。


(もう……! からかわないでよ……!)


 私は赤くなった両頬を両手で押さえながら、心の中で頭を抱えた。


 悪女の仮面を被ろうとしては失敗し。


 下町育ちの癖がポロポロと漏れ出しては、三人に生温かい目で見守られ。

 こうして毎日、三人三様の好意と過保護の嵐に振り回されている。


 神殿との化かし合いは、これからも続くだろう。

 オリヴィアたち貴族の探るような視線も、消えることはない。


 いつボロが出て、大騒動に発展するか分からない綱渡りの日々は、何一つ終わっていないのだ。


 けれど。


 窓の外を見上げると、青く澄み渡った春の空がどこまでも広がっていた。

手元には温かい紅茶と、慣れ親しんだ小麦の香り。


 そして目の前には、私の正体を知った上で、背中を預け合える頼もしい味方たちがいる。


 仮面を被った、下町のパン屋の娘。

 その偽りの日々は、思っていたよりもずっと賑やかで、ずっと温かかった。


「……殿下、次の公務の時間が迫っております」


 セドリックが手帳を開きながら、いつもの冷静な声で告げる。


「本日の午後は、ヴァンディエル使節団との合同軍事演習の視察です。私が警護の先頭に立ちます」


 ガレットが胸を叩いて力強く宣言する。


「では、午後もご一緒できますね、ロゼリア殿下」


 リュシアンが立ち上がり、優雅に手を差し伸べてくる。


 三人の視線が一斉に私へと注がれる。

私は小さく息を吸い込み、ドレスの裾を整えて立ち上がった。


 背筋を伸ばし、顎を引いて、扇子を胸元に構える。


「ええ、参りましょう。……わたくしの完璧な王女の立ち振る舞い、とくとご覧あそばせ!」


 高らかに言い放ちながらも、踏み出した一歩目でドレスの裾を少しだけ踏みそうになり、 三人に慌てて手を伸ばされる。


 どうやら、私の波乱万丈な身代わり生活は、まだまだ終わりそうにない。

 第一部 完

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