第25話 均衡の頂点
白亜の王宮の中でもひときわ壮麗な『星辰の大広間』は、冬の厳寒を忘れさせるほどの熱気と緊張に包まれていた。
丸天井には満天の星々を描いたフレスコ画が広がり、等間隔に配置された燭台から放たれる柔らかな光が、列席した貴族たちの豪奢な正装を照らし出している。
本日は、アルドレア王国とヴァンディエル王国による通商協定の締結を間近に控えた、冬の公式親善式典。
玉座には国王レオンハルトが威厳を漂わせて腰を下ろし、その一段下にはエドモン宰相が、さらに向かいの来賓席には濃紺の正礼装を隙なく着こなしたリュシアン王子が着席していた。
私は、国王の右手に置かれた上席に座っていた。
身に纏っているのは、氷の結晶を模した銀糸が縫い込まれた、濃紺と白の二重織りのドレス。
胸元には王家の紋章を象ったサファイアの首飾りが下がり、背筋を伸ばして扇子を胸の高さに掲げている。
斜め後ろには、黒のフロックコートを着たセドリックが静かに控えていた。
眼鏡の奥の瞳は穏やかだったが、その視線は、事前に警戒していた給仕や神殿派貴族の動きを一つたりとも見逃すまいと、会場全体をくまなく追っている。
そして私の背後、二歩下がった定位置には、白銀の儀礼甲冑に身を包んだガレットがいた。彼の手は腰の長剣の柄にしっかりと添えられ、わずかな空気の揺らぎすら聞き逃すまいと神経を研ぎ澄ませている。
(……空気が重い)
扇子の陰で、私は小さく息を吸い込んだ。
広間の下座には、ヴィクトール大主教率いる白衣の神官団がずらりと並んでいた。
大主教は胸元の『聖断の印』を指先でなぞりながら、濁った灰色の瞳をじっとこちらへ向けている。その傍らには、神殿派の貴族たちを引き連れたオリヴィアの姿もあった。
彼らが宮廷内にばら撒いた「王女は偽者であり、忌子の呪いを受けている」という噂は、今や広間を満たす貴族たちの視線の中に、明白な毒となって沈殿していた。
誰もが、何かが起きるのを待っている。
そんな張り詰めた沈黙が、重い空気となって肩にのしかかっていた。
「両国の恒久なる友誼を祝し、聖杯を捧げ奉る」
儀典長の高らかな声が響いた。
壇上へと続く大理石の階段を、銀のトレイを捧げ持った二人の給仕が、しずしずと上がってくる。
給仕が進み出て、私の前で足を止める。
白い給仕服の袖口から伸びた手が、トレイから杯を取り上げようとした――
ピリッ。
肌を焼くような異様な気配が、その給仕の全身から立ち上った。
(……え?)
給仕が顔を上げた。
深く被った帽子の陰から覗いたのは、血走った異様な光を放つ両目。
男は銀のトレイを跳ね除けると、袖口から一瞬で抜き身の短剣を滑り出させた。刃先には、粘ついた紫黒色の液体がべったりと塗られている。
「偽りの王女に、神の断罪を!」
男が低く叫んだ。
同時に、神官の列からも二人の男が白衣を脱ぎ捨て、隠し持っていた長剣を抜き放ちながら壇上へと殺到した。
広間が一瞬にして狂乱に包まれた。
「ひ、ひぃぃっ!?」
「刺客だ!」
「殿下をお守りせよ!」
貴族たちの悲鳴が響き渡り、逃げ惑う人々が押し合いへし合い、椅子やグラスが派手な音を立てて床に倒れる。
近衛兵たちが抜刀して駆け寄ろうとするが、逃げ惑う貴族の群れに阻まれ、壇上への初動が遅れた。
毒刃が、私の喉元めがけて一直線に突き出される。
距離はわずか三歩。
常人であれば、恐怖で声も出せず、その場に立ち尽くすしかない一瞬だった。
だが。
下町で酔っ払いの大喧嘩に巻き込まれ、飛んでくる酒瓶や陶器を毎日のように掻い潜ってきた私の身体は、理屈よりも先に動いていた。
(刺されてたまるもんですか……!)
私はドレスの裾を踏まないよう咄嗟に爪先を引き、重心を一気に沈み込ませた。
首をわずかに傾けたそのわずかな隙間を、冷たい刃先がヒュッと風を切って通り過ぎる。
「なっ……!?」
刺客の男が、空振りの勢いに前のめりになって目を見開いた。
私は体勢を低く保ったまま、卓上にあった前菜用の分厚い銀の大皿を咄嗟に両手で引っ掴み、盾のように突き出した。
勢い余って突っ込んできた刺客の顔面が、突き出された銀皿の中央にまともに激突する。
ガコォォォンッ!!
鈍く重い金属音が響いた。
ローストビーフのタレと香草を顔面に浴びた刺客は、鼻を押さえてよろめき、後方へとよろめく。
「調子に乗るんじゃないわよ……っ!」
下町の地声が思わず漏れ出た。
だが、息をつく暇もなく、壇上を駆け上がってきたもう一人の刺客が長剣を振りかぶり、私の前へと迫ってくる。
私は反射的に、卓上の分厚いテーブルクロスを両手で手前へと強く引き寄せた。
ガラガラガシャァンッ!
銀食器やグラス、燭台が一斉に階段の上から雪崩を打って転がり落ち、駆け上がろうとしていた男の足元へと散らばる。
「くっ……!?」
散乱した食器と料理に足を取られ、男の踏み込みが大きく乱れた。
その光景を、背後で見ていたガレットの息が止まっていた。
「……」
白銀の甲冑を着た近衛騎士は、目を大きく見開いたまま、息を呑んでいた。
目の前で起きた光景。
毒刃を紙一重でかわし、銀皿で刺客を怯ませ、卓上の食器をぶちまけて足止めした。
宮廷育ちの王女ができる所作では、決してない。
――裏庭で見せた、荷車の下を潜り抜ける身のこなし。
――深夜の稽古室で、汗を流して繰り返していた泥臭いステップ。
――そして今、目の前で繰り広げられた、生き延びるための本能的な立ち回り。
(……違う)
これまで仕えてきた、あの冷酷な王女とはあまりにも違う。
この人は、誰かに守られるのではなく、自分の手足で懸命に生きてきた人だ。
なのに――。
なぜだ。
俺は今、この人を失いたくないと、強く思っている。
「ぬおおおおおっ!!」
咆哮が広間の空気を震わせた。
ガレットが長剣を一気に抜き放ち、私の前に躍り出た。
足元をもたつかせていた刺客の剣を、上段からの力任せの一撃で叩き伏せる。
ギィィィンッ!
凄まじい衝撃に、刺客の手から剣が吹き飛んだ。
ガレットは間髪を入れず、甲冑の肩で刺客の胸板に体当たりを喰らわせ、階段の下へと叩き落とした。
「殿下には、指一本触れさせん!!」
ガレットが剣を構え直す。その背中は、揺るぎない防壁となって私を覆っていた。
その時、広間の反対側からも、鋭い指示が響き渡った。
「混乱に乗じて逃げようとする者を見逃すな! 神殿側の出口を封鎖せよ!」
セドリックだった。
彼は事前に神殿派を警戒させていた警備兵へ即座に指示を飛ばし、懐から銀の警笛を取り出して鋭く吹き鳴らした。
逃げ惑う貴族たちを冷静に誘導しながら、神殿派の動きを先回りして封じ込めていく。
「クロード子爵、そこを動くな! 貴殿が先ほどから給仕たちへ不審な合図を送っていたこと、すべて記録しておりますぞ!」
「なっ……ハミルトン卿、何を根拠に……!」
セドリックの冷徹な追及に、神殿派の貴族たちが顔色を失って後ずさった。
文官としての彼の知略が、現場の混乱を瞬く間に制圧していく。
だが、最初に銀皿をぶつけられた毒刃の男が、鼻血を拭いながら再び短剣を握り直していた。
男はガレットの死角を突くように、狂気を宿した目で、壇上の私へと再び跳びかかろうとする。
「神罰を!」
私の足元には、もう防ぐものはない。
身構えた、その瞬間。
シャッ。
空気を切り裂く、鋭く冷たい金属音が響いた。
男の喉元、わずか数ミリの位置に、抜き身のサーベルの切っ先がピタリと突きつけられていた。
「……そこまでだ」
低く、冷涼な声。
男の動きが、完全に凍りついた。
来賓席から音もなく間合いを詰め、一瞬にして刺客の退路を断ったのは――リュシアン王子だった。
濃紺の軍服の裾を翻し、サーベルを片手に構えたリュシアンの立ち姿には、一片の隙もなかった。
彼のアイスブルーの瞳は、絶対零度の冷徹さで刺客を見下ろしている。軍人として幾多の修羅場を潜り抜けてきた男の放つ、張り詰めた気迫が広間を支配した。
「ヴァンディエル王国との公式式典において、これほどの凶行に及ぶとはな。……我が国の名誉にかけて、指示を下した黒幕を徹底的に洗い出させてもらう」
リュシアンの冷たい声が、神官席に座るヴィクトール大主教を真っ直ぐに射抜いた。
大主教の顔から、いつもの不気味な笑みが完全に消え去っていた。
「ひっ……」
刺客の男はサーベルの冷たさに耐えかね、その場に崩れ落ちるように膝を突いた。
駆けつけた近衛兵たちが一斉に刺客たちを取り押さえ、縄を打ち、広間の床へと組み伏せる。
静寂が、広間に戻ってきた。
倒れた燭台の煙と、床に散らばった料理の匂いが漂う中、壇上には、私を取り囲むように立つ三人の姿があった。
剣を鞘に納めながら、私を心配そうに見つめるガレット。
乱れた眼鏡の位置を直し、息を整えながら駆け寄ってくるセドリック。
そして、サーベルを収め、静かに私へと歩み寄ってくるリュシアン。
「……怪我はありませんか、殿下」
ガレットが低く、掠れた声で尋ねてきた。
「え、ええ……大丈夫よ。ありがとう、ガレット」
私が答えると、ガレットは一瞬だけ口元を引き結び、すぐに深く頭を下げた。その瞳には、もう迷いのかけらもなかった。
「まったく……」
セドリックが私の前に立ち、小さく息を吐き出した。
「銀皿を盾にする王女がどこの世界においでですか。……ですが、実に見事な立ち回りでございましたよ、ミア殿」
最後の言葉は、私だけにしか聞こえない微かな囁きだった。
その眼鏡の奥の瞳には、呆れとともに、柔らかな温もりが滲んでいた。
そして、リュシアンが私の正面に立った。
彼は手袋を外すと、私の額にかかった髪を、指先でそっと払った。
「見事な身のこなしでしたよ。……あのような立ち回り、宮廷のどんな教本にも載っていませんがね」
「うぐっ……そ、それは……!」
私は慌てて足元に落ちていた扇子を拾い上げ、顔を真っ赤にして胸元を隠した。
「あ、あれよ! わたくし独自の、高度な護身術ですわ! 決して下町で覚えた荒技などではございませんことよ! オホホホホ……!」
引きつった高笑いを上げる私を前に、三人がそれぞれ小さく息を漏らした。
ガレットが口元を緩め、セドリックが肩をすくめ、リュシアンが静かに目を細める。
私は三人を見回した。
誰も、私を「偽物」とは呼ばなかった。
ただいつものように、それぞれの眼差しで、まっすぐに私を見ていた。
それだけで、胸の奥に張り詰めていた冷たいものが、少しずつほどけていくのを感じていた。
換気のために開け放たれた高窓から、冬の冷たい夜風が吹き込んでくる。
けれど、広間に立ち尽くす私の胸の奥は、不思議なほど静かで、温かかった。




