第24話 目撃
「キャッ……!?」
疲労の限界に達していた私の右足が、ついに大きくもつれた。
バランスを完全に崩し、身体が床へと倒れ込む。
硬い床に激突する――そう思ってぎゅっと目を閉じた、その瞬間。
バサリ、と冷たい風が巻き起こった。
強い力で腰を抱き寄せられ、私の身体は宙で受け止められた。
鼻腔をくすぐる、冷涼な香水の匂いと、上質な革の香り。
「……危ないですよ」
頭上から降ってきた、低く澄んだ声。
心臓が止まるかと思った。
恐る恐る目を開けると、至近距離に広がっていたのは、夜空のような深い紺色の軍服と――私をまっすぐに見つめ下ろす、リュシアンの瞳だった。
「リ……リュシアン、殿下……!?」
声が裏返った。
跳ね起きようとしたが、疲労で力が入らない脚がもつれ、余計に彼の胸元へと倒れ込んでしまう。
リュシアンの頑強な腕が、私の背中をしっかりと支え、床へと着地させてくれた。
「な……な、なぜ、ここに……!?」
頭の中が真っ白になった。
見られた。
ドレスも着ず、汗まみれで、一人で初心者のステップを必死に練習していた無様な姿を。
他国の、最も警戒しなければならないはずの王子に、全部見られてしまったのだ。
「政務棟からの帰り道ですよ。灯りが漏れていたので、覗いてみれば……」
リュシアンは腕を解き、一歩身を引いた。
その視線が、私の乱れた髪、汗ばんだ額、そして靴の先へと静かに流れていく。
「……こんな時間まで、稽古ですか」
「そ、それは……!」
私は慌ててショールを掻き集め、胸元を隠すようにして後ずさった。
声が震える。言い訳を組み立てようとするが、喉がカラカラに乾いて言葉が出てこない。
「あ、あれよ! その……体が、少し鈍っていたから……! 来たるべき舞踏会に向けて、完璧なステップをさらに磨き上げようと、ほんの少し体を動かしていただけですわ! そう、ただの気まぐれよ!」
必死で傲慢な王女の声を作ろうとした。
だが、息はまだ荒く、声は上ずり、膝は小刻みに震えていた。
リュシアンは何も言わず、ただ静かに私を見つめていた。
その瞳の奥にある深い光が、私の心臓を激しく揺さぶる。
『貴族の王女が、なぜ今さら基礎のステップを練習しているのか』と。
私は身を固くし、宣告の言葉を待った。
だが――。
「……なるほど。熱心なことだ」
リュシアンの口から漏れたのは、冷徹な追及ではなかった。
彼は静かに自らの黒い手袋を外すと、それを椅子の背へと置き、私に向かってすっと右手を差し出した。
「え……?」
「ワルツは一人で足順を覚えるだけでは不十分です。相手との間合いと、リードを受ける感覚が必要になる。……私が相手を務めましょう」
「な……何を仰っているの!? 他国の王子に、そのような真似を――」
「断るのですか? 完璧なステップを磨き上げたいのでしょう」
リュシアンの唇の端が、かすかに持ち上がった。
その表情には、外交官としての冷たさはなく、どこか悪戯っぽく笑う一人の青年の顔があった。
「それとも、私と踊るのが怖いですか、ロゼリア殿下」
その挑発的な響きに、私の下町仕込みの負けん気が小さく疼いた。
「……怖くなんて、ありませんわ」
私は意を決して、彼の手の平に自分の右手を重ねた。
リュシアンの長い指が、私の手を包み込む。
手袋を外した彼の手は温かく、剣ダコのある硬い手の平が、私のタコだらけの手とぴったりと重なり合った。
リュシアンの左手が、私の腰のあたりへと静かに添えられる。
至近距離で重なる視線。
彼の纏う冷涼な香水と体温が、凍え切っていた部屋の空気を塗り替えていく。
「……曲はありませんよ」
私が小声で呟くと、リュシアンは静かに目を細めた。
「心の中で、三拍子を刻めばいい。……行きますよ」
リュシアンが一歩、前へ踏み出す。
私は反射的に足を引いた。
スッ、と流れるような動き。
彼のリードは驚くほど確かで、力強く、そして優しかった。
私が重心を崩しそうになると、腰に添えられた手がさりげなく支え、次のステップへと自然に体を導いてくれる。
ワン、ツー、スリー。
ワン、ツー、スリー。
静寂の部屋の中、二人の靴音が綺麗に重なって響く。
鏡の前を通り過ぎるたび、映し出される二人の影。
軍服の青年と、部屋着の少女。不釣り合いなはずの二人が、滑らかに円を描いて回る。
(……すごい。体が、勝手に動く……)
さっきまであんなに重かった脚が、嘘のように軽かった。
リュシアンの瞳が、至近距離で私を見つめ続けている。
その澄んだ青に宿る熱が、あまりにも優しく、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「……姿勢が良くなりましたね」
耳元で、リュシアンの低く掠れた声が囁いた。
「あ、あなたが……上手すぎるだけですわ」
「貴女の筋がいいのですよ」
リュシアンは微かに笑い、私をふわりとターンさせた。
空気を孕んで回る部屋着の裾。
再び引き寄せられた胸元で、二人の吐息が重なり合う。
「努力を笑う者など、この世にはいません。……どれほど不格好であろうと、泥にまみれて立とうとする者の姿は、美しいものだ」
その言葉が、私の心臓のど真ん中に突き刺さった。
それは、王女ロゼリアに向けられた言葉ではなかった。
深夜に一人、汗を流して必死に抗っていた、私という人間そのものに向けられた言葉だった。
視界が、じんわりと滲みそうになる。
私は奥歯を噛み締め、必死で涙を堪えた。
やがて、リュシアンが静かに足を止め、二人の動きが止まった。
彼はゆっくりと私の手を離すと、一歩下がり、完璧な礼を執って頭を垂れた。
「……素晴らしいワルツでした、ロゼリア殿下」
「……ありがとう、ございます」
私は乱れた呼吸を整えながら、今度こそ、教わった通りの美しいカーテシーを返した。
今度は、膝も震えず、重心もブレなかった。
リュシアンは椅子の背から手袋を取り上げると、それをはめ直しながら扉へと向かった。
そして、部屋を出る直前、ふと足を止めて振り返った。
「夜風が冷たくなってきました。あまり無理をなさらず、今夜は温かいミルクでも飲んで、早くお休みになりなさい」
以前、私が庭園で彼に教えた言葉。
それをそのまま返され、私の頬が一気に熱くなった。
「……言われなくても、そうしますわ」
私がそっぽを向いて答えると、リュシアンは今度こそ満足そうに笑い、静かに扉を閉めて去っていった。
カチャリ、と鍵の音が響き、部屋には再び静寂が戻った。
私は一人、稽古室の中央に立ち尽くしていた。
重ね合わされていた右手の平には、まだ彼の温もりがはっきりと残っている。
(……リュシアン殿下)
あの人は、きっと何かを察している。
それでも、何も問わず、ただ私の手を取って一緒に踊ってくれた。
冷え切った右手を胸元に当てる。
そこにはまだ、彼の手の温もりが微かに残っていた。
――明日も、頑張れるかもしれない。
そんな思いがふと胸をかすめ、私は一人、誰もいない稽古室の中で赤くなった顔を覆った。
手の平に残る温もりを、しばらく消すことができないまま。




