第23話 稽古部屋の灯り
深夜の王宮は、凍てつく静寂に閉ざされていた。
窓の外では粉雪が音もなく舞い落ち、白亜の壁や中庭の彫像の上に、新たな白い層を重ねている。
回廊の床からは底冷えする冷気が這い上がり、壁に掛けられた燭台の残り火が、時折すきま風に小さく揺れていた。
私は寝台の中で幾度も寝返りを打った末、とうとう羽毛布団を跳ね除けた。
眠れるはずがなかった。
目を閉じれば、昼間に回廊ですれ違ったオリヴィアの冷笑と、クロード子爵の品定めするような視線が暗闇に浮かび上がってくる。
神殿派の貴族たちが連名で提出したという『神託の清め』を求める請願書。耳元に残る、貴族たちのひそひそとした嘲笑。
そして何より、私の胸を締め付けて離さないのは、味方となってくれた二人の姿だった。
目の下に濃い隈を作り、深夜まで書類の山と格闘していたセドリック。
神殿派の刺客を警戒し、凍えるような寒さの中で一晩中部屋の前に立ち続けてくれたガレット。
(私のせいだ……)
胸の奥が、冷たい針で突かれたように痛む。
私が下町育ちの癖を隠しきれず、グラスの持ち方ひとつ、歩き方ひとつで隙を見せたからだ。
私が本物のロゼリア王女らしく完璧に振る舞えてさえいれば、あんな噂が立つことも、二人にこれほどの危険と重圧を背負わせることもなかったはずなのだ。
「……じっとしていられない」
私は寝台から滑り降りた。
寝間着の木綿の上から厚手のショールを羽織り、足元には日中の講義で履いている低いヒールの革靴を履く。
部屋の扉を音を立てずに開け、控えの間をそっと抜け出した。
ガレットは明け方の交代まで一度詰め所で仮眠を取るようセドリックに厳命されており、通路の遠くで見張りに立つ交代兵の背中を確認しながら、その死角を縫うように足早にすり抜けた。
足音を忍ばせ、冷え切った東翼の回廊を奥へと進む。
目指したのは、日中にセドリックからダンスや立ち振る舞いの指導を受けている『小稽古室』だった。
普段は使われていない離れの部屋で、壁一面に大きな姿見が据え付けられている。ここなら、深夜に誰かが通りかかることもない。
重い樫の扉を押し開け、中に滑り込む。
部屋の隅に置かれていた燭台に火を灯すと、柔らかな橙色の光が、磨き上げられた板張りの床と冷え切った鏡の表面をぼんやりと照らし出した。
吐く息が、白く濁って広がる。暖炉に火を入れていない部屋の中は、外気と変わらないほど冷え切っていた。
私はショールを脱ぎ捨てて椅子の背に掛け、鏡の前に立った。
映し出されたのは、飾り気のない部屋着を着た、青白い顔の自分だった。
「……背筋を伸ばして。顎を引いて、視線は水平に」
セドリックの声真似を呟きながら、姿勢を正す。
両手で架空のドレスの裾をつまみ、右足を半歩後ろへ引く。
膝を静かに曲げ、上体をわずかに傾ける――貴族令嬢の基本所作である、カーテシー。
鏡の中の自分が、ぎこちなく沈み込む。
「……ダメ。重心がブレてる」
私の重心は、常に前傾気味で、いつでも駆け出せるように低く構えられている。
重い小麦粉の袋を担ぐには最適な立ち方だが、優雅に上体を垂直に保ったまま腰を落とす王族の所作とは、根本から筋肉の使い方が違っていた。
もう一度。
足を後ろへ。膝を落とす。背筋を張る。
「……っ」
太ももの筋肉がきしみ、膝がかすかに震えた。
昨日までの講義の疲労が、脚全体に鉛のように溜まっている。それでも私は、歯を食いしばって立ち上がった。
(パンを焼いていた時と同じよ。体が覚えるまで、何千回でも繰り返すだけ)
初めて石窯の前に立った日、親父さんに怒鳴られながら、何百個ものパン生地を丸め直した時のことを思い出す。
指先が痛もうが、腰が砕けそうになろうが、手元を見ずに美しい丸型が作れるようになるまで、毎晩厨房で一人で手を動かし続けた。
頭で考えるんじゃない。体に叩き込むのだ。
スッ、と足を引く。沈む。立ち上がる。
今度は、舞踏会の基本ステップだ。
ワン、ツー、スリー。
静かな部屋に、革靴の踵が板張りの床を叩くコツ、コツという乾いた音だけが響く。
右へ三歩、左へターン。
ドレスの裾を翻すイメージで、視線は鏡の中の自分の眉間から外さない。
冷え切っていた体が次第に熱を帯び、額から首筋にかけて、じっとりと汗が滲み出してきた。
吐く息が荒くなり、白い湯気となって宙に消えていく。
「ワン、ツー、スリー……ターン、引いて……っ!」
足首がもつれ、バランスを崩しかけた。
私は咄嗟に壁に手をつき、荒い呼吸を整えた。
靴の中で擦れた足の裏が、ジンジンと焼けるように熱い。
鏡の中の自分を見つめる。
乱れた髪が頬に張り付き、肩が大きく上下している。
どこからどう見ても、優雅な王女の姿ではない。
けれど、ここでやめるわけにはいかなかった。
「もう一回……!」
私は乱れた前髪を手で払い、再び部屋の中央へと足を踏み出した。
同じ頃。
政務棟の長い回廊を、一人の男が静かな足取りで歩いていた。
ヴァンディエル王国第二王子、リュシアン。
彼は深夜まで及んだ通商条約の追加条項の確認を終え、自らの宿舎へと戻る途中だった。
濃紺の軍服の上から黒い外套を羽織り、冷たい夜風の吹き込む渡り廊下を進む。
その瞳には、長時間の外交交渉による疲労の色など微塵もなく、氷のように研ぎ澄まされた光が宿っていた。
(……アルドレア王家の足並みが乱れている)
リュシアンは歩きながら、今日一日の宮廷内の動きを反芻していた。
神殿派の貴族たちが提出した請願書。回廊で囁かれる不穏な噂。
そして、それらの火種の中心にいる、あの翡翠の瞳を持つ王女。
――手の平の、硬いタコ。
――他国の王子に向かって熱弁した、泥臭い根菜スープの温もり。
――夜会でオリヴィアに侮辱された際、悔しさに唇を噛み締めながら見せた拙い抵抗。
――そして、大主教の冷酷な視線に晒された時に見せた、本能的な怯え。
かつてヴァンディエルに届いていた「傲慢で残虐なロゼリア王女」の記録と、目の前にいる彼女の姿は、あまりにも違いすぎていた。
人は病や環境で性格を変えることがある。だが、骨身に染み付いた生活習慣や、ふとした瞬間に漏れ出る手の動き、他人の痛みに共鳴してしまう魂のありようまでは、偽装できるものではない。
(あの女は、一体――)
ふと、リュシアンの足が止まった。
東翼の奥、普段は使われていないはずの離れの小稽古室。
その扉の隙間から、微かな明かりが漏れていた。
さらに、静まり返った廊下に、かすかに届く規則正しい音。
コツ、コツ、コツ。
布が擦れ合う衣擦れの音と、浅く苦しげな呼吸の気配。
リュシアンは眉をわずかに寄せ、音もなく扉へと近づいた。
軍人特有の気配を完全に殺した歩みで、半開きになった樫の扉の隙間から、部屋の中を覗き込む。
そこに広がっていた光景に、リュシアンは小さく息を呑んだ。
薄暗い部屋の中央。
ろうそくの灯りに照らされながら、一人の女性が一人で踊っていた。
豪奢なドレスも、高価な装飾品も身につけていない。
飾り気のない部屋着の袖を捲り上げ、汗に濡れた亜麻色の髪を揺らしながら、彼女は一心不乱にステップを踏んでいた。
右足を引く。腰を落とす。立ち上がる。
その動きは、決して洗練されたものではなかった。
足取りには迷いがあり、重心の移動には無駄が多い。王族の令嬢であれば、幼少期から叩き込まれ、呼吸をするように身につけているはずの基礎中の基礎。
それを、彼女は今、必死の形相で一から体に叩き込もうとしていた。
「ワン……ツー……スリー……」
掠れた声で拍子を取りながら、何度も同じカーテシーを繰り返す。
膝が笑い、体がふらつく。それでも倒れそうになる脚を自ら叱咤するように叩き、すぐに姿勢を正して再び足を引く。
その額からは汗が流れ落ち、床にポタリと染みを作っていた。
荒い息遣いが、冷え切った部屋の中に白く立ち上る。
そこにあったのは、優雅さとは程遠い、泥臭いまでの必死さだった。
(……やはり、そうなのか)
リュシアンの胸の中で、これまで集めてきたすべての違和感が、一つの輪郭を結んでいく。
少なくとも、彼が以前から伝え聞いていた「ロゼリア王女」とは別人だ。
本物の王女に何があったのかまでは分からない。だが、目の前で汗にまみれてステップを踏んでいるこの女性は、王宮の外側から連れてこられた、まったく別の人間ではないのか。
国家の命運を左右する外交の場で、自分は替え玉を相手にしていた可能性がある。
軍人としての冷徹な理性が、即座にそれを「欺瞞」であり「背信」であると告げていた。
今すぐこの扉を開け放ち、国王とエドモン宰相を問い詰めれば、条約交渉を決定的に有利へ導く切り札になるはずだ。
だが――。
もし今、ここで彼女の正体を暴けば、どうなるか。
王家は保身のために即座に彼女の口を封じようとするだろう。神殿がこの事実を嗅ぎつければ、彼女は異端として処刑台へ送られる。
逃げ場のない檻の中に閉じ込められ、他人の身代わりとして立たされながら、それでも誰にも泣き言を言わず、一人で足を動かし続けているこの女性を――自らの交渉の道具として切り捨てるのか。
(……馬鹿な女だ)
心の中でそう呟きながらも、リュシアンの足は、告発のために動くことはなかった。
むしろ、過酷な運命に押し潰されまいと必死に抗うその横顔を見つめるうちに、胸の奥底に熱い痛みが広がっていくのを、彼は自覚していた。




