第22話 包囲網
十二月に入ると、王都には本格的な冬が訪れた。
灰色の重い雲が連日空を覆い、初雪は瞬く間に白亜の王宮の屋根や中庭の彫像を真っ白に覆い隠した。回廊の柱には霜がびっしりと張り付き、吐く息は白く凍りついて宙にほどける。
だが、肌を刺す寒さ以上に、王宮の内部を漂う空気は異様な冷たさに包まれていた。
重いウールのドレスの裾を揺らしながら、私は東翼の回廊を歩いていた。
斜め後ろには静かな足取りでセドリックが寄り添い、少し離れた位置では革鎧の上に分厚い毛皮の外套を羽織ったガレットが、周囲に目を配っている。
すれ違う貴族たちの態度が、ここ数日で明らかに変わっていた。
以前のような、悪名高い王女への恐れや、遠巻きにするような距離感ではない。
彼らは私とすれ違う際、形式通りの礼を執りながらも、その瞳の奥に侮りと猜疑の色を浮かべていた。背中を通り過ぎた瞬間、ひそひそとした囁き声が冷たい石壁に反響して耳に届く。
「……見たか、あのお顔立ち」
「ええ。お姿こそロゼリア様に生き写しですが」
「先の夜会でも、グラスの持ち方や歩き方がまるで平民のようだったとか」
「神殿の大主教様が『神託の清め』を申し出られた際、国王陛下が頑なに拒まれたのも腑に落ちますわ。……離宮の侍女を神殿が問い詰めたという話、あながち嘘ではないのでは」
扇子の陰から漏れる声は、隠す気すらないほど露骨だった。
火種を撒き散らしている中心人物は、明白だった。
グレアム伯爵令嬢――オリヴィア。
夜会で恥をかかされた彼女は、水面下でヴィクトール大主教を支持する神殿派の貴族たちと結託していた。
王女の体調回復は偽装である。
本物の王女はすでに亡くなっており、玉座の傍らにいるのは身元不明の偽者か、あるいは神殿が最も忌み嫌う『忌子の呪い』を宿した魔性の存在ではないか。
離宮の元医師や下働きを買収した神殿が流したとされる、その毒のような噂。
それは宮廷のサロンから下級官吏の詰め所に至るまで、油が染み込むように浸透し始めていた。
「……殿下、前を。足元を乱してはなりません」
セドリックの低く落ち着いた声が、私の耳朶を打った。
私は強張りそうになる肩を抑え、顎を引いて背筋を伸ばした。
その時、前方の曲がり角から、華やかな毛皮のストールを巻いた一団が現れた。
先頭を歩くのは、サーモンピンクの冬用ドレスに身を包んだオリヴィアだった。その隣には、神殿派の有力者であるクロード子爵をはじめとする数名の貴族が付き従っている。
視線が交錯した。
オリヴィアは歩みを止めると、完璧な所作で優雅なカーテシーを披露した。
「ごきげんよう、ロゼリア様。雪の降る寒い日ですのに、ご精が出ますこと」
その声は甘く、だが冷え切った刃のように尖っていた。
彼女の後ろに控えるクロード子爵は、礼を執りつつも、私の顔から指先、立ち姿に至るまでを値踏みするようにじろじろと見つめている。
「……ええ、オリヴィア。あなたも相変わらず、取り巻きを引き連れてお賑やかですことね」
私は扇子を胸元で構え、冷ややかに返した。
「ええ、皆様と冬の祈祷祭についてご相談をしておりましたの」
オリヴィアは微笑みを崩さず、静かに小首を傾げた。
「神殿の大主教様も、王国の行く末を大変深く案じておいでですわ。『王宮の中に、神の教えに反する不浄の影が潜んでいる』と……。まことしやかな噂も流れておりますけれど、身に覚えのないロゼリア様にとっては、ただの笑い話でございましょう?」
「不浄の影、ですか」
私の横から、セドリックが一歩前へ進み出た。
彼は眼鏡の位置を直すと、冷淡な眼差しでオリヴィアと子爵を見据えた。
「出所の定かでない流言を宮廷内で広めることは、王室の尊厳を損なう行為にございます。グレアム伯爵令嬢ともあろうお方が、そのような言葉を軽々しく口にされるのは、少々思慮に欠けるのではありませんか」
「流言、とお切り捨てになりますの、ハミルトン卿?」
クロード子爵が横から口を挟んだ。脂ぎった顔に、薄ら笑いが浮かんでいる。
「だが、火のないところに煙は立たぬもの。病み上がりを理由に神殿の清めを拒み続ける殿下のお姿に、不審を抱く者が増えるのは必定。もし潔白であられるなら、神の御前でその身の清浄を証明されればよろしいはずだ」
「子爵、貴殿のその発言は」
セドリックが語気を強めようとした瞬間。
ザッ、と重い靴音が響いた。
ガレットが漆黒の毛皮外套を払いのけ、大股で間へ割り込んできたのだ。
彼の手は腰の長剣の柄に置かれ、瞳には鋭い気迫が宿っていた。
「そこまでだ。ロゼリア殿下の御前であるぞ。道をあけよ」
低く地を這うようなガレットの声に、子爵は息を呑んで半歩後ずさった。
オリヴィアはわずかに目を細めたが、動じる様子もなく、静かに唇元に笑みを浮かべた。
「近衛の方もお役目に熱心でいらっしゃること。……もちろん、わたくしもロゼリア様の潔白を心から信じておりますわ。失礼いたします」
オリヴィアは静かに一礼すると、取り巻きたちを引き連れて回廊の奥へと去っていった。
その日の夕刻、執務室から戻ったセドリックの表情は、いつになく険しかった。
暖炉に薪がくべられ、パチパチと火が爆ぜているにもかかわらず、部屋の空気は冷え切っている。
「……宮廷内の状況は、予想以上に悪化しています」
セドリックは運ばれてきた紅茶に口もつけず、手帳を開いた。
「神殿派の貴族たちが連名で、国王陛下に対して『王女の神託受託を求める請願書』を提出しました。ヴァンディエル王国との通商条約締結を前に、国内の宗教的権威を盾にして王家を揺さぶる構えです」
「請願書……」
私は天蓋付きの寝台の縁に座り、膝の上でドレスの布地を握りしめた。
「エドモン宰相が水面下で反対派の切り崩しを行っていますが、ヴィクトール大主教の息のかかった貴族は想像以上に根が深い。もしこのまま請願を無視し続ければ、彼らは『王家が異端を匿っている』として、民衆を扇動する恐れがあります」
「……その、神託の清めというのは、具体的には何をするの?」
私の問いに、セドリックは手帳から視線を上げ、声を一段落とした。
「神殿の奥深くに三日間隔離され、神官たちの手で肉体の詳細な検査を受けさせられます。さらに、教義に基づく『聖石』や『聖水』による儀式――体に触れた際の反応を理由に、神殿側が一方的に『不浄』と判定を下すことができる査問です」
指先が冷たくなる。
そんなもの、受ければひとたまりもない。
生活の痕跡で偽者だと暴かれる以前に、神殿の都合ひとつで「忌子の呪いがある」と断定され、即座に捕らえられる仕組みなのだ。
「……セドリック」
私は俯いたまま、掠れた声で呟いた。
「私……下町へ帰った方がいいんじゃないかしら」
「何を仰るのですか」
セドリックの声が、わずかに低くなった。
「だって、全部私のせいでしょう? 私がうまくロゼリアを演じられないから、あんな噂を立てられて……。私がここから消えれば、神殿だって探りようがなくなるんじゃないの?」
「消えてどうなるというのです」
セドリックは卓を回り込み、私の前に立った。
眼鏡の奥の瞳が、厳しい光を宿して私を見下ろしている。
「今貴女が姿を消せば、王家は『後ろ暗いところがあったから王女を隠した』と認めることになります。そうなれば神殿は即座に捜索隊を組織し、下町を隈なく捜索するでしょう。『麦穂亭』も、貴女の馴染みの人々も、すべて異端隠匿の罪で処刑されます」
「っ……!」
「逃げ場など、最初からどこにもないのです」
セドリックの言葉は容赦がなかった。
だが、その声の底にある、痛ましいほどの切迫感が伝わってくる。
「……それに、私は申し上げたはずです。我が知略のすべてを賭けて、貴女をお守りすると」
セドリックは静かに息を吐き、視線を柔らかく緩めた。
「貴女が自分を責める必要はありません。問題は、貴女の出自を利用して王権を揺るがそうとする神殿の野心にあるのです。……神殿派貴族たちの過去の汚職や、大主教の側近たちの資金の流れについて調査を進めています。連中の勝手を封じるだけの材料を、必ず揃えてみせます」
セドリックの目の下には、うっすらと濃い隈が浮かんでいた。
ここ数日、彼は講義の合間を縫って深夜まで政務棟に籠もり、膨大な帳簿や報告書を調べ尽くしていたのだ。
胸が締め付けられるように痛んだ。
その夜、私は眠ることができなかった。
窓の外では風が激しく吹き荒れ、時折、乾いた雪がガラスを叩きつけていた。
寝台から抜け出し、ショールを羽織って部屋の外へと続く私室の扉を少しだけ開けた。
東翼の控えの間には、暖炉の微かな残り火だけが灯っている。
そこには、一人の人影があった。
ガレットだった。
彼は甲冑を着込んだまま、長剣を床に突き立て、壁に背を預けて直立していた。
交代の時間はとうに過ぎているはずだった。だが彼は詰め所へ戻ることもせず、私の部屋の前で、不動の姿勢で見張りを続けていたのだ。
「……ガレット?」
小声で呼びかけると、ガレットは弾かれたように顔を上げ、即座に剣の柄を握り直した。
「……殿下? このような夜更けに、どうされたのですか」
「どうされたのは、あなたの方よ。夜警の交代時間はもう終わったでしょう? なぜまだここにいるの」
「……近衛騎士団の内部にも、神殿派の息のかかった者が紛れ込んでいる可能性があります」
ガレットは短く答えた。その声は低く、疲労の色を滲ませていたが、琥珀色の瞳は爛々と澄んでいた。
「家格の都合上、騎士団の兵の素性は頭に入っています。先ほどの交代要員も、クロード子爵の領地出身の者でした。万が一のことがあってはならない。今夜は私がこのまま警護に当たります」
「そんな……一晩中立っているつもりなの? 身体が持たないわ」
「騎士の務めです」
ガレットは武骨に首を振った。
「それに……私は、裏庭で殿下と約束いたしました。『目の前にいる主君の御身を守る』と。……たとえ相手が神殿であろうと、貴族であろうと、この剣が折れぬ限り、殿下に指一本触れさせはしません」
暗がりの中で、彼の横顔が静かに浮かび上がる。
私が偽物だと気づきながら、理由を問うこともせず、ただ己の誇りと誓いのためだけに、冷え切った廊下で寒さに耐え続けている男。
「……ガレット」
「お部屋へお戻りください、殿下。冷えます」
ガレットはそう言って、再び前を向き、通路の闇を鋭く見据えた。
私はゆっくりと扉を閉めた。
背中を扉に預けたまま、暗い部屋の中で一人、息を吐き出した。
セドリックは自らの地位と命を賭けて情報戦を戦い、ガレットは凍える寒さの中で剣を握りしめて立っている。
二人は私が平民のパン屋の娘だと知っている。
それでも、彼らは私を「守るべき主君」として、必死に壁となって支えてくれているのだ。
私一人が「自分が偽者だから」と逃げ腰になり、怯えていてどうする。
私が弱気になって倒れれば、私を信じてくれた二人の居場所すら、神殿の炎に焼き尽くされてしまうのだ。
窓の外を見上げた。
吹雪の切れ間から、鋭く冷たい冬の星が一つ、輝いている。
私は、その光をしばらく見つめた。
「……負けてたまるもんですか」
誰もいない部屋で、私は小さく呟いた。
どんなに冷たい風が吹きつけようと、私はこの場所で、最後まで自分の足で立ち続けなければならない。




