第21話 秘密を抱く庇護者
暖炉の中で薪の端が崩れ、赤い火の粉が小さく立ち上る。卓の上に置かれた燭台の焔がわずかに揺れ、セドリックの端正な顔立ちに濃い影を落としていた。
私は口元を固く結んだまま、喉の奥にへばりついた息を吐き出すこともできずにいた。
逃げ道はなかった。
白大理石の小広間には、私とセドリックの二人しかいない。
扉の外には見張りの兵も立てておらず、助けを求めることも、エドモン宰相を呼んで誤魔化すことも叶わない。
「……セドリック」
絞り出した私の声は、ひどく掠れていた。
セドリックは卓を挟んで立ったまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。
彼の手は卓上の羊皮紙の手帳に添えられたままだ。その指先が、わずかに白くなるほど強く握り込まれている。
「最初から、違和感はありました」
セドリックは感情を抑えた、静かな声で語り始めた。
「歩き方も、手の使い方も、他人を見る目も……以前の殿下とは、何もかもが違っていた。ですが、私はそれを病後の心境の変化だと思いたかったのです」
彼は一度言葉を切り、視線を卓上の白磁のカップへと落とした。
「幼い頃の殿下には、あの白薔薇を守ろうとしたような不器用な情がありました。ですが……この王宮の底知れぬ孤独が、他人に弱みを見せることを許さなくなった。いつしかご自身を嘲笑と傲慢の鎧で塗り固め、周囲を傷つけることでしか己の尊厳を保てなくなっておられたのです。……だが貴女は違う」
セドリックの喉仏が、微かに上下した。
「貴女は、誰かを踏みにじって自分を守ろうとは決してなさらない。……そのような振る舞いを、あの殿下がなさらなくなってから久しいことは、長年傍らに仕えてきた私が誰よりも知っています」
その声音には、主君への痛惜と、目の前の現実を受け止めようとする理知のせめぎ合いが滲んでいた。
「エドモン宰相が何らかの手を打ったのだとは推測していました。だが……王女の死を隠して替え玉を立てるなど、国家を欺くに等しい暴挙。信じたくはなかった。しかし、先ほどの記憶の食い違いで、もはや疑う余地はなくなりました」
セドリックは卓の縁から手を離し、ゆっくりと私へと歩み寄ってきた。
私の前、わずか数歩の間合いで立ち止まると、彼は静かに、だが逃げ場のない視線で私を見据えた。
「問いに答えてください。……本物のロゼリア殿下は、今どこにいらっしゃるのですか。そして、貴女は、一体どなたなのですか」
怒鳴り散らすわけでも、近衛兵を呼んで捕らえさせようとするわけでもない。
ただ、真実を求める冷徹なまでの誠実さが、そこにあった。
私は膝の上で握りしめたドレスの布地を見つめた。
指先が小刻みに震えている。
頭の片隅で、エドモン宰相の冷酷な脅迫が蘇る。
『もし正体を漏らせば、下町の店もろとも処分する』。
けれど、目の前に立つこの人を、これ以上欺き続けることなどできなかった。私の拙い嘘で、彼が大切に仕えてきた主君の思い出をこれ以上汚すことなど、できるはずがなかった。
「……本物のロゼリア王女は」
私は唇を噛み締め、震える声で紡ぎ出した。
「亡くなりました。数ヶ月前、離宮で……病気で、息を引き取ったと聞いています」
セドリックの息が、わずかに詰まった。
眼鏡の奥の瞳が微かに揺れ、眉間に深い苦悶の皺が刻まれる。彼も薄々察していたのだろう。けれど、言葉として突きつけられた事実に、胸を貫かれたような痛みを隠せないでいた。
「……そうでしたか。やはり」
セドリックは短く呟き、瞳を伏せた。
だが、すぐに顔を上げ、再び私を見据える。
「では、貴女は……? これほどまでに殿下と瓜二つの容貌を持つ貴女は、どこから連れてこられたのです」
私は深く息を吸い込んだ。
胸の奥に封じ込めていた、私自身の真実。
「私の名前は、ミアです」
王女の作り声ではない、地声の、少し低くて張りのある声で名乗った。
「王都の下町にある『麦穂亭』という小さなパン屋で、ずっと育ちました。……十九年前、
生まれたばかりの私を拾って育ててくれた職人の夫婦が、私の本当の両親でした」
「下町の……パン屋……」
「ええ。毎朝暗いうちから起きて薪を割り、粉を捏ねて、石窯の前でパンを焼いて暮らしていました。……でも、親父さんとおっかさんが亡くなって一人で店を切り盛りしていたある日、エドモン宰相の部下たちが突然店に踏み込んできたんです」
すべてが昨日のことのように鮮明だった。
「連れて行かれた先で、国王様とエドモン宰相から聞かされました。……私は、ロゼリア王女とまったく同じ日に生まれた、双子の片割れだと」
セドリックの目が見開かれた。
「双子……! では、貴女は……」
「神殿が禁忌とする、忌子です」
私は自嘲するように唇を歪めた。
「生まれ落ちた瞬間、王家の恥として下町へ捨てられた身なし子。……それが私の本当の素性です。ロゼリア王女が亡くなり、ヴァンディエル王国との婚姻を破談にできない王家が、代わりの道具として私を引っ張り出した。拒めば、下町の人たちを反逆罪で捕らえると脅されて……だから私は、ここでロゼリア王女の身代わりを務めています」
すべてを、吐き出した。
十九年間の生い立ちも、身代わりとなった経緯も、喉元に突きつけられた刃の恐怖も。
胸の奥に重く澱んでいた秘密をすべてさらけ出すと、不思議なほど心が軽くなっていた。
(……これで、終わりね)
偽りの王女を演じ、王室を欺いた平民。
神殿の教義に触れる忌子であり、国家の大事を偽装した大罪人。
セドリックがこの事実を公表すれば、私は即座に地下牢へと送られ、断頭台へ送られることになるだろう。
トマスさんたちの顔が脳裏をよぎり、胸が痛んだ。けれど、これ以上嘘で塗り固められた世界に縋り付く力は、もう私には残っていなかった。
私は静かに立ち上がると、ドレスの裾を揃え、セドリックに向かって深く頭を下げた。
下町で、失敗した時に親父さんへ頭を下げていた時のように、まっすぐに。
「騙していて、ごめんなさい。……あなたが大切に仕えてきたロゼリア王女のふりをして、おかしな言動で周囲を混乱させて……本当に申し訳ありませんでした。私を捕らえて衛兵に引き渡すなら、受けて立ちます。ただ……下町の人たちには何の罪もありません。それだけは、どうか信じてください」
冷たい床を見つめながら、私は宣告を待った。
衛兵を呼ぶ足音か、あるいは厳しい断罪の言葉が飛んでくるのを、身を固くして待った。
だが。
セドリックは動かず、ただ静かに息を吐き出していた。
その横顔には、激しい葛藤の陰が刻まれている。彼の中で、王家の秩序と、法と、亡き主君への忠義が、音を立ててぶつかり合っているのが分かった。
「……貴女の話を、すべて鵜呑みにしたわけではありません」
セドリックの声は、低く、硬かった。
「神殿が禁忌とする双子の迷信、その替え玉の謀略……にわかには信じがたい。それに、貴女を受け入れるということは、私が生涯を捧げて仕えてきたロゼリア殿下の死を完全に認め、国家を欺く大罪を黙認するということです。……教育係としての私の理性が、それを許すべきではないと叫んでいる」
「……ええ。当然です」
「ですが」
セドリックはゆっくりと息を吸い込み、私を見据えた。
「王家が都合よく貴女を捨て去り、都合よく呼び戻したからといって、貴女が先代王妃様の血を引く事実まで消えるわけではありません。王家が認めるかどうかと、貴女が王家の血を引く者であるかどうかは別問題です」
衣擦れの、微かな音が響いた。
「……え?」
顔を上げた私の視界に、信じられない光景が飛び込んできた。
セドリックが、私の足元に片膝を突いていた。
黒のフロックコートの裾を床に広げ、右手を左胸の前に当て、深く頭を垂れている。
それは、臣下が真の主君に対してのみ捧げる、最上級の臣従の礼だった。
「セ、セドリック……!? 何をして……」
「頭をお上げください、ミア殿」
低く、澄んだ声が私の耳に届いた。
彼が口にしたのは、「ロゼリア」ではなく、私が明かしたばかりの「ミア」という名だった。
「な、何を言っているの……! 殿なんて呼ばないで! 私は王女じゃないわ! 下町の平民で、忌子で、あなたたちを騙していた偽物よ!? 跪く相手を間違えているわ!」
「いいえ」
セドリックは顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの迷いも、厳罰を求める冷徹さも消えていた。そこにあったのは、苦悩の末に己の道を選び取った男の、静かな覚悟だった。
「貴女は、私にとって守るべき姫君です」
「セドリック」
「私はこの数ヶ月、貴女が何をしてきたかを見てきました。誰かが倒れそうになれば身分を忘れて駆け寄り、腹を空かせた見習いがいれば自ら手を粉まみれにして食事を作る。他人の侮蔑に震えながらも、誰かを踏みにじって自分を守ろうとは決してなさらない。……私は、その生身の行動を見てきたのです」
セドリックは立ち上がると、一歩間合いを詰め、私の前に立った。
「亡きロゼリア殿下への哀悼は、私の胸の奥に生涯残り続けるでしょう。……ですが、いま私の目の前で、理不尽な重圧に押し潰されそうになりながらも懸命に立っている貴女を、見捨てることはできません」
セドリックの手が、ゆっくりと伸ばされた。
かつて、眠る私の前で躊躇い、引き戻されたその指先が――今度は迷うことなく、私の右手をそっと包み込んだ。
手袋越しではない、素肌の温もり。
私の硬い手の平を、セドリックの細くしなやかな指が、静かに包み込む。
「その手が、どれほど過酷な日々を生き抜いてきたかを物語っています。……欺瞞の檻に貴女を閉じ込め、身代わりの道具として消費しようとする者たちから、私は貴女をお守りしたい」
胸の奥が、熱い塊で満たされていく。
喉が詰まり、視界がじんわりと滲んだ。
「……でも、私につけば、あなたまで罪に問われるわ。エドモン宰相や国王様に知られたら……神殿に嗅ぎつけられたら、命がないのよ?」
「承知の上です」
セドリックは微かに口元を緩め、静かに告げた。
「私はこれより、ロゼリア殿下の教育係ではなく、ミア殿個人の忠臣となりましょう。神殿の狂信者どもの牙からも、宮廷の権力闘争からも、我が知略のすべてを賭けて貴女を守り抜きます」
彼は私の手を持ち上げると、その手の甲に、誓いを立てるように静かに唇を落とした。
触れた皮膚の熱さに、心臓が跳ね上がる。
「……セドリック」
「貴女の秘密は、私の命に代えても守り抜きます。これからの講義も、社交界の立ち回りも、すべて私が完璧に導いて差し上げましょう。……ですから、どうかもう一人で怯えないでください」
眼鏡の奥の瞳が、張り詰めた熱を帯びて私を見つめ返してくる。
教育係と身代わり王女という主従の境界線が解け、一つの秘密を共有する共犯者としての絆が、二人の間に結ばれた。
「……ありがとう、セドリック」
私の瞳から、一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。
セドリックはもう片方の手で、その涙を親指でそっと拭った。
「泣くのはおやめください。……せっかくのお顔が台無しです」
いつもの小言のような台詞だったが、その響きにはこれまでにない柔らかな色が混ざっていた。
窓の外では、冷たい秋の雨が降り続いていた。
けれど、不思議だった。
さっきまであれほど寒かったはずの小広間が、今は少しだけ暖かく感じられた。
「それと……」
「はい」
「木彫りの彫刻は本当に趣味ですか?」
「……ぷっ、ふふふ、あはは!」
「冗談です」
暖炉の火が静かに爆ぜる音を聞きながら、私は確信していた。
私はもう、一人きりで戦っているのではないのだと。




