第20話 幼き日の記憶違い
晩秋の冷気が、王宮の石壁をじわじわと冷やしていた。
庭園の木々はすっかり葉を落とし、灰色の空から時折、小雨がパラパラとテラスの敷石を濡らしている。
中庭を行き交う近衛兵たちの吐く息も白く濁り、冬の足音がすぐそこまで迫っていた。
白大理石で造られた小広間には、卓上の真鍮の燭台と、暖炉で薪がパチパチとはぜる音だけが静かに響いている。
「……では殿下、明後日の夕刻に予定されている、ヴァンディエル王国使節団との私的茶会について確認いたします」
卓を挟んで向かい合うセドリックが、羊皮紙の手帳をめくりながら淡々と告げた。
細縁の眼鏡の奥にある琥珀色の瞳は、いつも通りの静謐さを湛えている。黒のフロックコートの胸元には、銀の懐中時計の鎖がきっちりと収められ、姿勢にも乱れは一切ない。
「公式の晩餐会とは異なり、今回はリュシアン殿下とごく少数の側近のみを招いた内輪の席となります。場所は、西翼の離宮にある温室庭園です」
「西翼の温室庭園?」
私は手にした白磁のカップをソーサーに戻し、首を傾げた。
「ええ。あそこには、亡くなられたセラフィナ王妃様がかつて丹精を込めて育てておられた、北方原産の白薔薇、『雪晶の吐息』が植えられております。寒冷な気候を好む花ゆえ、初冬のこの時期にしか花を開きません。北国出身のリュシアン殿下をおもてなしするには、これ以上ない趣向かと」
セラフィナ王妃。
私とロゼリアの実の母であり、十九年前、私を産んだ直後に亡くなったという先代の王妃。
エドモン宰相から渡された家系図と手記の写しの中に、その名前と肖像画の描写は確かにあった。翡翠色の瞳を持ち、穏やかで慈悲深かったという女性。
「……ええ、母上が愛した花ですものね。リュシアン殿下もお喜びになるはずですわ」
私は扇子を軽く胸元に当て、教え込まれた通りの優雅な微笑を作ってみせた。
セドリックの講義を数ヶ月にわたって受け、王宮の歴史や貴族の系譜については、もう粗方頭に入っていた。これなら問題なく受け答えができるはずだ。
だが、セドリックは手帳から視線を上げると、静かに私の顔を見つめた。
「ええ。……リュシアン殿下は植物や鉱物についての造詣も深くあられますゆえ、きっとあの白薔薇の由来についてもお尋ねになるでしょう。その際、殿下が『あの事件』についてどう語られるかが、ひとつの要となります」
「あの事件……?」
心臓が、トクンと不穏な跳ね方をした。
「……お忘れですか? 殿下が八歳の初冬、あの温室で引き起こされた、あの一件です」
セドリックは眼鏡を人差し指で押し上げ、何気ない調子で言葉を続けた。
「王宮中を震撼させ、当時の侍女頭が泣きながら陛下へ直訴したという……社交界でもいまだに語り草となっている出来事ですよ」
頭の中で、焦燥の火花が散った。
(八歳の冬……? 温室の白薔薇……!?)
必死で記憶の引き出しをひっくり返す。
エドモンから叩き込まれた「ロゼリア王女の過去の記録」の束。
そこには確かに、彼女が幼少期からどれほど周囲を困らせ、暴虐の限りを尽くしてきたかが事細かに記されていたはずだ。
八歳の冬。母の遺品であった庭園の薔薇を……。
(……あった! 確か、母の形見の花壇を、ハサミで滅茶苦茶に切り刻んだっていう悪行記録!)
母を亡くした悲しみからか、あるいは生まれつきの残忍さからか、ロゼリア王女は母が愛した白薔薇の花壇に上がり込み、咲き誇る花という花をことごとく切り落として踏み躙った。
止めに入った侍女の手の甲をハサミの先で突いたという。
(落ち着け、ミア。ここはロゼリアらしく、高慢に言い放てばいいのよ)
私は顎をツンと持ち上げ、冷ややかに目を細めて扇子を広げた。
「ふん……。何のことかと思えば、そんな下らない昔話ですの。あんなトゲだらけで目障りな花、わたくしの意に沿わなかったから切り刻んで捨ててやったまでのこと。母上の形見だ何だと騒ぎ立てる侍女たちの泣き顔が見苦しかったから、ハサミで黙らせて差し上げましたのよ。リュシアン殿下に聞かれたところで、『枯れ木同然の目障りな枝を掃除して差し上げただけですわ』と笑い飛ばして差し上げます」
私は、これ以上ないほど冷酷な声を作った。
だが。
「……」
小広間を満たしたのは、称賛でも、呆れ声でもなかった。
ただ、暖炉の薪がパチリと小さく爆ぜる音だけが、耳障りなほど鮮明に響いた。
セドリックは、動かなかった。
手帳を持ったまま、微動だにせず、ただ机の上の白磁のカップをじっと見つめていた。
その横顔からは、いつもの厳しい教育係としての気配が消えていた。
「……セドリック?」
私が呼びかけると、セドリックはゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、射抜くように私の目を捉える。
「殿下。あの日、現場に駆けつけた当時の侍女頭が陛下に訴え出た理由は、『花壇を荒らされたから』ではありません」
「え……?」
「あの年の初冬、王宮には記録的な寒波が訪れ、温室の暖炉が故障しておりました。『雪晶の吐息』の根元には冷害による立ち枯れ病が蔓延し、放置すればすべての株が腐り落ちる寸前だったのです」
セドリックの声は低く、淡々としていた。
だが、その一言一句が、私の胸に重い杭のように打ち込まれていく。
「顔も知らぬ母の、王宮に残された唯一の面影を守ろうと……当時八歳だったロゼリア殿下は、真夜中にたった一人で温室に忍び込み、霜焼けで赤く腫れ上がった小さな手で剪定鋏を握りしめておられました。病気に侵された蕾と枝を、朝が来るまで、泣きながら一本残らず切り落としておられたのです。……根元に薬湯を注ぎ、生きている新芽だけを残すために」
「な……」
「止めに入った侍女の手を払いのけたのは、寒波で凍りついた土を素手で掘り返している姿を、誰にも見られたくなかったからだ。……そして、切り落とした傷だらけの花びらを、殿下は泥にまみれたエプロンに包んで自室へ持ち帰り、誰にも見られぬようベッドの下に隠して、一晩中声を殺して泣いておられた」
セドリックの喉が、わずかに震えた。
「翌春、切り戻された白薔薇は見事な新芽を吹き、かつてないほどの大輪の花を咲かせました。ですが、殿下は自らの行いの真意を誰にも明かさず、周囲が『王女が花を切り刻んだ』と罵るのを、ただ冷たい目で黙って見下ろしておられた。……それが、あの事件の全容です」
言葉が、出なかった。
喉の奥がカラカラに乾き、息が吸えなくなる。
悪女の凶行と記録されていた事件の裏にあった、幼い少女の不器用で、痛ましいほどの愛情。
誤解されても弁明せず、他人の侮蔑を鎧のように着込んで、一人で涙を呑み込んだ八歳のロゼリア。
そして――。
その真実を、目の前にいるセドリックは知っていたのだ。
「……なぜ」
セドリックが静かに呟いた。
「なぜ、ご自身が命懸けで守り抜いた花のことを、『トゲだらけで目障りだから切り刻んで捨てた』と仰るのですか」
「そ、それは……!」
背中に、氷水を流し込まれたような寒気が走った。
「む、昔のことですもの! 幼い頃の感傷なんて、とうに忘れてしまいましたわ! 今のわたくしにとっては、ただの忌々しい思い出にすぎませんのよ!」
必死で声を張り上げた。
だが、私の震える声は、広間の分厚い石壁に虚しく跳ね返るだけだった。
「忘れた、ですか」
セドリックは立ち上がった。
彼の手が卓上の羊皮紙の手帳を閉じ、指先でその表紙を静かになぞる。
「では、もうひとつお尋ねいたします。……殿下が十歳の誕生日に、国王陛下から賜った、母君の遺品である『蒼氷石のブローチ』。あれは今、どこにありますか?」
「蒼氷石の……ブローチ……?」
頭の中が真っ白になった。
知らない。そんなもの、エドモンから渡された資料のどこにも書かれていなかった。
「宝石箱の、奥底ですわ。普段使いするようなものではありませんもの」
「そうですか」
セドリックの瞳から、最後の光が消えた。
「あの日、国王陛下はブローチなど下賜されてはおりません。陛下が贈ろうとしたそれを、殿下は『母を死なせた男からの施しなど要らぬ』と手で払い落とし、大理石の床に叩きつけて粉々に砕かれたのですから」
「っ……!」
誘導尋問だった。
最初から、試されていたのだ。
セドリックは、私が本物のロゼリア王女であるかどうかを確かめるために、あえて偽りの問いを投げかけた。
そして私は、見事にその罠に飛び込んだのだ。
「……」
沈黙が、小広間を完全に支配した。
暖炉の火がゆらめき、二人の影を壁に長く引き伸ばしている。
セドリックは眼鏡を外し、懐から取り出した布でレンズをゆっくりと拭った。
「……人は変わるものです。十数年に及ぶ孤独や病の床を経て、殿下が心境の変化を遂げられた可能性も、私は捨てきれずにいました。手慣れた針仕事や料理の手際も、離宮での密かな気晴らしであったなら、あり得ぬ話ではないと……どこかで信じようとしていた」
レンズを拭く手が止まる。
セドリックは静かに眼鏡をかけ直すと、視線をまっすぐに私へ向けた。
「ですが……自らの手で粉々に砕いた母の形見を、『宝石箱の奥底にある』と答えるはずがない。記憶が曖昧になったのなら、曖昧なりの答えになる。あれほど明確な虚偽にはならない」
その琥珀色の瞳には、もはや一片の迷いも残されていなかった。
――掌のタコ。
――果物の皮むきの手際。
――歯で糸を噛み切る仕草。
――裏庭で見せた、路地裏育ちの身のこなし。
――焦げたパンをプディングへと化けさせた知恵。
これまで彼が抱いてきた違和感のすべてが、今、一つの冷厳な答えへと辿り着いていた。
「……貴女は」
セドリックの声は、低く、かすかに震えていた。
怒りでも、糾弾でもない。
長年仕えてきた主君の喪失と、目の前にいる少女への複雑な感情が混ざり合った、痛切な響き。
「貴女は……ロゼリア殿下では、ありませんね」
広間の空気が、凍りついた。
心臓が早鐘を打ち、喉の奥が引きつる。
何か言い訳をしなければ。
エドモン宰相に怒られる。
下町の店が、トマスさんたちが危ない。
神殿に知られれば殺される。
けれど、セドリックの澄み切った眼差しを前にして、私の唇からは、どんな嘘の言葉も紡ぎ出すことができなかった。
「……セドリック……」
私の掠れた呟きが、静まり返った広間に小さく落ちた。
欺瞞の上に積み重ねられた偽りの日々が、音を立てて崩れ去っていく。
晩秋の冷たい雨が、窓ガラスを静かに打ち鳴らしていた。




