第19話 駆け引き
「……何を馬鹿なことを言っているのかしら、わたくしは」
私は慌てて視線を逸らし、咳払いをひとつした。
「他国の王子の苦労など、わたくしが知ったことではありませんわ。ただ……そう、北方の厳しい冬を乗り切るには、気合だけでは足りませんことよ」
「……気合だけでは足りない?」
リュシアンが低く繰り返す。
「そうよ。身体が冷え切っている時はね、どれだけ立派な理屈を並べたって頭が回らなくなるの。そういう時は……熱々の根菜のスープに、ちぎった硬いパンを浸して、ふうふう言いながら食べるのが一番なのよ」
「……スープに、パン?」
「ええ! 人参と蕪をくたくたになるまで煮込んで、干し肉の出汁がたっぷり出たスープ! それに少しだけ塩を強めに効かせて、熱いうちにお腹の中に流し込むの。そうすれば、凍りついた胃袋の底からじわーっとあったかくなって、手足の先まで血が通うようになるんだから」
気がつけば、私は身振り手振りを交えながら熱弁していた。
下町の寒い朝を乗り切るために毎日作ってきた、あの不格好で温かい食事のこと。
「それとね、寝る前には少しだけ蜂蜜を垂らしたホットミルクを飲むの。胃が落ち着いて、嫌なこと全部忘れてぐっすり眠れるわ。……あなた、顔色が白いし、目の下に少し隈があるわよ。ちゃんと夜は眠れているの?」
覗き込むようにして尋ねると、リュシアンは目を見開いたまま、固まっていた。
「……」
風が吹き抜け、赤く染まったブナの葉が二人の間にパラパラと落ちる。
(……あ)
冷たい風が頬を打った瞬間、私の頭の中に警報が鳴り響いた。
(またやっちゃった……!)
他国の高貴な王子に向かって。
平民の残り物スープの食べ方を熱弁。
あまつさえ「目の下に隈がある」「ちゃんと眠れているのか」などと、近所の世話焼きおばさんのような口を利いてしまったのだ。
(傲慢……! 私は傲慢で高慢な女を演じなきゃいけないのに! これじゃ完全に下町のおかみさんじゃない!)
背筋を冷や汗が伝う。
恐る恐る顔を上げると、リュシアンは眉根を寄せたまま、言葉を失っていた。
「あ、あの……! 今の言葉は忘れてちょうだい!」
私は慌てて立ち上がり、ドレスの裾を払った。
「王族たるもの、どのような過酷な環境にも耐え抜くのが当然ですわ! スープだのミルクだの、下々の者たちの戯言を聞き流して差し上げましたのよ! オホホホホ……!」
引きつった高笑いを浮かべ、顔を真っ赤にして後ずさる私。
だが。
「……ふっ」
不意に、低く短い息の音が耳に届いた。
驚いて顔を戻す。
手すりに寄りかかっていたリュシアンのアイスブルーの瞳が細められ、薄い唇に、これまで見たことのない笑みが浮かんでいた。
「根菜のスープに、硬いパン、ですか。……王女殿下の口から、そのような具体的な家庭料理の手順を聞かされるとは思ってもみませんでした」
「うぐっ……だ、だから、あれは……」
「隈のことも、図星でしたよ」
リュシアンは一歩、私の方へと歩み寄ってきた。
「連日の交渉と神殿の不穏な動きに気を取られ、ここ数日はまともに眠れていなかった。……まさか、他国の王女に体調を気遣われるとは思いもしませんでしたが」
至近距離に迫ったリュシアンの瞳が、私を真っ直ぐに見つめてくる。
その瞳の奥には、観察眼の代わりに、かすかな熱を帯びた興味の色が宿っていた。
「ロゼリア殿下」
「な、何かしら……」
「貴女は、不思議な方だ」
リュシアンは静かな声で言った。
「傲慢な悪女の仮面を被ろうとしては失敗し、そうかと思えば、他人の痛みに誰よりも敏感に踏み込んでくる。……一体、どちらが貴女の真実なのですか?」
心臓が、跳ね上がった。
からかうような響きを含みながらも、その問いかけは鋭く、私の胸の奥深くまで突き刺さる。
「そ、それは……わたくしの奥深さは、一筋縄では計れないということですわ」
私は視線を彷徨わせながら、精一杯の言葉を返した。
「なるほど。計り知れない、ですか」
リュシアンは唇の端をわずかに持ち上げ、手袋を整えた。
「では、これからの滞在期間で、少しずつ確かめさせていただくことにしましょう。……手始めに、その根菜のスープとやらも、いつか試してみたいものですね」
「なっ……! わ、わたくし自ら料理など、するわけがありませんでしょう!?」
「おや、残念だ」
リュシアンは軽く首を振ると、ふと足を止め、探るような視線を私の目元へと向けた。
「……ひとつ、お聞きしても?」
「え……何かしら」
リュシアンは何かを口にしかけ、わずかに間を置いた。
そして、薄い笑みを残したまま首を横に振った。
「いえ。やはり、今はやめておきましょう」
それ以上は何も語らず、リュシアンは歩き出した。
「散策を続けましょう、ロゼリア殿下。……風が冷たくなってきました。身体を冷やしては、スープの前に殿下の方が倒れてしまう」
「言われなくても分かってますわよ……!」
私は赤くなった頬を手で押さえながら、彼の一歩後ろをついて歩き出した。
後ろを振り返ると、遠くで見ていたガレットが「何事だ」と言わんばかりに目を白黒させ、セドリックが信じられないものを見たように眼鏡を押し上げていた。
政略という冷たい鎖で結ばれたはずの縁談。
だが、色づく秋の木漏れ日の中で、冷酷だった北の王子の心に、確かに小さな火が灯り始めていた。




