第18話 縁談
神殿の大主教が去った翌日、秋の空はどこまでも高く澄み渡っていた。
だが、王宮を包む空気は依然として張り詰めたままだ。大主教が口にした『神託の清め』という名の査問。
それを退けた国王の判断により、神殿勢力との対立は水面下で決定的な段階へと進みつつあった。
その対立を抑え込む唯一の防壁が、ヴァンディエル王国との同盟の成立だ。
午前の身支度を終えた私に、エドモン宰相が冷ややかな声で告げた。
『大主教の狙いは、我が国の孤立だ。北との同盟が盤石であると見せつければ、神殿も迂闊には手を出せぬ。……午後の公務の合間、庭園を人払いさせました。護衛は残しますが、リュシアン殿下と二人で散策し、親睦を深めていただきます』
そうしてセッティングされたのが、この秋の庭園散策だった。
カサ、と落ち葉を踏む音が静かな小道に響く。
私の隣を歩くのは、ヴァンディエル王国の第二王子、リュシアン・フォン・ヴァンディエル。(覚えるのに二日かかった)
黒を基調とした動きやすい乗馬服に、銀の刺繍が施された上着を羽織っている。
プラチナブロンドの髪が秋の乾いた風に揺れ、彫刻のように整った横顔には、相変わらず感情の起伏が見当たらない。
私たちの後ろ、十歩ほど離れた場所には、ガレットとセドリックが並んで控えていた。
ガレットは腰の長剣に手を添えたまま周囲に目を配り、セドリックは眼鏡の位置を直しながら、私の背中に「粗相をするな」という無言の圧力をかけ続けている。
(……息が詰まりそう)
私は手にしたショールの端を指先で弄りながら、歩幅をリュシアンに合わせた。
歩道の上には赤や黄色のカエデの葉が敷き詰められ、頭上の枝からは時折ハラハラと枯葉が舞い落ちてくる。
沈黙が長く続き、靴底が小石を踏む音だけが規則正しく響いていた。
「……昨日は、ずいぶんな騒ぎでしたね」
沈黙を破ったのは、リュシアンの方だった。
低く、どこか涼やかな声が、秋の冷気の中に溶けていく。
「大主教の訪問のことです。我が国にも神殿の勢力は存在しますが、あそこまで露骨に王座へ口を挟む真似はいたしません。アルドレアの国内事情も、なかなか一筋縄ではいかないようだ」
視線を前に向けたまま、リュシアンは淡々と語る。
(昨日のこと、やっぱりしっかり見てたんだ)
私は胸の鼓動を落ち着かせ、扇子を軽く胸元に当てて王女の口調を作った。
「ふん……。神殿の老人など、ただの枯れ木のようなものですわ。我が王家の力をもってすれば、あのような者たちの遠吠えなど、気にする価値もございません」
傲慢に言い放ってみせたが、リュシアンは足を止めることもなく、薄い唇の端をわずかに持ち上げただけだった。
「強がりはおやめになった方がいい。あの老人の目は、本気で獲物を狙う獣のそれでしたよ。……そして、貴女の手は、昨日からわずかに震えている」
「っ……!」
ショールを握っていた指先が、ぴくりと跳ねた。
慌てて手をドレスの陰に隠したが、リュシアンの青い瞳はすでにその動きを捉えていた。
「隠す必要はありません。誰であれ、あのような狂信者に見据えられれば恐怖を覚えるのは当然だ。……ただ、少し意外でした」
「何が、かしら」
「貴女はもっと、激情に任せて喚き散らすような方だと思っていました。かつて伝え聞いていたロゼリア殿下の短気な気性であれば、大主教の無礼な物言いにその場で激昂し、謁見の場を台無しにしてもおかしくなかったはずだ」
リュシアンは歩みを緩め、私の方へと視線を流した。
「だが、昨日の貴女は唇を噛み締め、耐えていた。……恐怖に怯えながらも、自らの立場を崩すまいと必死に踏み止まっていたように見えた」
彼のアイスブルーの瞳は、やはり私の表面だけを見てはいなかった。
悪女の仮面を被ろうと必死になっている私の、その奥にある引きつった呼吸や、怯えの輪郭を正確に切り取っている。
「……わたくしも、いつまでも子供ではありませんもの。大局を見据えることくらい、心得ておりますわ」
私は精一杯の虚勢を張り、歩道脇の低い石段へと向かった。
庭園の中央、色づいたブナの大木の下に、白い大理石のベンチが置かれていた。
リュシアンは自然な動作で歩み寄ると、ベンチに落ちていた枯葉を手袋で払い、私に座るよう促した。その所作には洗練された無駄のなさがあった。
「ありがとう、リュシアン殿下」
腰を下ろし、ショールを膝の上に広げる。
リュシアンはベンチには座らず、少し離れた手すりに背を預け、腕を組んで私を見下ろした。
「大局、ですか」
リュシアンが小さく息を吐いた。晩秋の冷気に、冷たい吐息が薄く溶けていく。
「貴女の仰る通りだ。この縁談は、両国の利害が一致した政略にすぎない。我が国は南方の豊かな穀倉地帯と通商路を手に入れ、貴国は北方の軍事的な後ろ盾と鉄資源を得る。……そこに個人の感情が入り込む余地はない」
その言葉は冷たく、どこか割り切った響きを持っていた。
だが、彼の横顔を見上げた時、私はふと違和感を覚えた。
陽光を浴びるリュシアンの髪は眩しいほど美しい。けれど、その瞳の奥には、冷え切った影が沈んでいた。
まるで、遠い北の雪原で、一人きりで風に吹かれているような孤立感。
「リュシアン殿下は……この縁談に、納得していらっしゃるの?」
思わず、王女の取り繕った口調ではなく、素直な疑問が口をついて出た。
リュシアンはわずかに眉を動かし、私を見据えた。
「納得、とは奇妙な問いですね。王族に生まれた以上、自らの身を国のために差し出すのは当然の義務です。納得の有無など、最初から考慮に値しない」
「でも……あなたの国には、もっと気心の知れた令嬢や、想い人だっているかもしれないでしょう?」
「いませんよ」
即座に、乾いた答えが返ってきた。
「北境守備軍の陣中で育ち、十代の前半から剣を握って北方騎兵を率いてきました。私の周りにいたのは、命令に従う部下か、隙あらば足を掬おうとする宮廷の政敵だけだ。……誰かに心を許すなどという贅沢は、北国の冬には存在しない」
淡々とした声だった。
自分を哀れむでもなく、運命を呪うでもない。ただ、冷厳な事実としてそれを受け入れている。
「兄である王太子は宮廷で政治を担い、第二王子である私は前線で泥と血に塗れて国境を守る。それが私の役割だ。今回の使節団の首席という役目も、南の国との同盟を確実にまとめ上げ、北の防壁を盤石にするための任務にすぎない。……失敗は許されない」
リュシアンの組んだ腕の指先が、ごく僅かに上着の布地を強く握りしめたのを、私は見逃さなかった。
十八歳。
私とほとんど変わらない年齢だ。
それなのに、この人はずっと、失敗の許されない過酷な戦場と、張り詰めた宮廷の中で、たった一人で戦ってきたのだ。弱音を吐くことも、誰かに甘えることも許されず、ただ「第二王子」という重圧の鎧を着込み続けて。
(……なんだか、似てるな)
ふと、そんな思いが胸をよぎった。
下町の『麦穂亭』で、親父さんとおっかさんが相次いで亡くなった後のことだ。
たった一人で店を背負い、毎朝暗いうちから火を熾し、粉を捏ね、仕入れの帳簿とにらめっこしていたあの日々。
風邪を引いて熱が出ても、店を休めば常連たちが朝飯に困る。仕込みを失敗すれば、その日の売上が消し飛んで家賃が払えなくなる。
誰にも頼れず、弱音を吐く暇もなく、ただがむしゃらに歯を食いしばって立っていた頃の自分の孤独と、目の前にいる王子の冷たい瞳が、奇妙なほど重なって見えた。
「……大変だったのね」
ぽつりと、私の唇から零れ落ちた。
リュシアンが怪訝そうに目を細める。
「何がです」
「北国の冬よ。寒くて、厳しくて……一人で気を張っていなきゃいけない場所なんでしょう?」
私は膝の上のショールをぎゅっと手繰り寄せた。
「どれだけ頑張っても、誰も『お疲れ様』って言ってくれない。失敗すれば責められるのに、上手くいって当たり前だと思われる。……そういうのって、じわじわと身体の芯が冷えていくみたいで、辛いじゃない」
一人きりで大鍋をかき混ぜていた時の、あの凍えるような寂しさ。
それを思い出しながら紡いだ言葉は、王女ロゼリアの台詞としては完全に落第点だった。あまりにも泥臭く、庶民的な実感が籠もりすぎていた。
リュシアンの表情が、微かに強張った。
彼は何も言わず、ただじっと私を見つめている。




