第17話 神殿の影
中庭の木々が鮮やかな朱や黄金に染まり、朝夕の風には肌を刺すような冷たさが混じり始めていた。
王宮の回廊を吹き抜ける風は乾いており、足元を枯葉がカサカサと音を立てて転がっていく。
秋の訪れとともに、北方の軍事強国ヴァンディエル王国との通商協定に関する実務的な協議は大詰めを迎えつつあった。
リュシアン王子をはじめとする使節団は連日のように王宮の政務棟へと通い、父である国王レオンハルトやエドモン宰相との間で、慎重な交渉が重ねられている。
だが、その張り詰めた外交の糸を断ち切るかのように、王都の北にそびえる白亜の巨塔、『双生神殿』から、不穏な使者が姿を現した。
朝の鐘が王都に鳴り響いた直後、謁見の間には異様な静けさが満ちていた。
普段なら外交官や貴族たちの話し声で賑わう大広間の床に、重苦しい影が落ちている。
左右に並ぶ近衛騎士たちは胸当ての獅子章を輝かせながらも、いつも以上に硬い面持ちで柄に手を添えていた。私の斜め後ろに控えるガレットの全身からも、張り詰めた気迫が漂っている。
「殿下、動いてはなりませんよ」
私のすぐ傍らに立つセドリックが、唇をほとんど動かさずに耳打ちしてきた。
彼の眼鏡の奥の瞳は、普段の冷静さを保ちつつも、極限まで引き絞られた弓のように鋭い。
「本日謁見されるのは、双生神殿の頂点に立つお方……ヴィクトール大主教です。どのような言葉を投げかけられようと、感情を表に出してはなりません」
「……分かっていますわ」
私は深く息を吸い、胸の前で扇子を握りしめた。
身に纏っているのは、秋の気配に合わせた深い紫紺のドレスだ。首元まで覆う詰襟のレースが喉元を圧迫し、息をするたびに微かな衣擦れの音が耳に届く。
やがて、謁見の間の大扉が音もなく開かれた。
入ってきたのは、純白の長衣を纏った十数名の神官たちだった。
彼らは手に銀の香炉を掲げ、そこからは甘ったるく、どこか冷ややかな独特の香煙が立ち上っている。白衣の群れの足音は絨毯に吸い込まれ、ただ香炉の鎖が擦れ合うシャラシャラという金属音だけが広間に反響した。
そして、その神官たちの列を割り、一人の老人がゆっくりと歩み出てきた。
双生神殿の最高指導者、ヴィクトール大主教。
雪のように白い長髪を肩まで垂らし、純白の絹布に金糸で複雑な神聖文字が刺繍された豪奢な祭服を纏っている。
胸元には、二つの輪が重なり合い、その中央を一本の剣が貫く意匠、双子の魂を切り離す神の断罪を象徴する『聖断の印』が、重々しい黄金の輝きを放っていた。
一見すれば、慈悲深き高僧の佇まいに見える。
だが、その落ち窪んだ眼窩の奥にある瞳は、濁った灰色の中に冷酷な光を湛えていた。
顔に刻まれた無数の深い皺は、長年の権力闘争と教条的な執念によって彫り込まれたものだと一目でわかる。
ヴィクトール大主教は玉座の前、わずか数歩の距離で歩みを止めた。
彼は深く頭を下げることもなく、ただ右手で聖印を掲げ、形式的な礼を執った。
「アルドレアの守護者たるレオンハルト国王陛下に、神の加護があらんことを」
擦れた、だが広間の隅々まで染み渡るような粘り気のある声だった。
「息災であったか、ヴィクトール大主教」
玉座に腰掛けるレオンハルト国王の声は、低く、地鳴りのように響いた。
国王は肘掛けを握りしめ、眉間に深い皺を寄せている。その威厳に満ちた眼光には、神殿の長に対する敬意など微塵もなく、明白な警戒と嫌悪が宿っていた。
「神殿の奥深くに籠もっておられる貴僧が、わざわざ王宮へ足を運ばれるとはな。何の用向きだ」
「用向き、とお尋ねになられますか」
ヴィクトール大主教は薄い唇の端を歪め、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「神の僕たる者が、王国の慶事を言祝ぎに参るのは当然の務めにございます。……聞き及べば、長きにわたり病の床に伏しておられた第一王女、ロゼリア殿下が奇跡的な回復を遂げられ、宮廷にお戻りになられたとか」
大主教の濁った灰色の瞳が、ゆっくりと玉座の傍らに座る私へと向けられた。
視線がぶつかった瞬間、私の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
(……な、に……この視線……)
リュシアン王子の視線が冷徹な観察であるならば、この老人の視線は、底知れぬ悪意で骨の髄まで暴こうとする生々しい執念そのものだった。
全身の血が足元から引いていくような感覚がする。
私の本能が、この男を「絶対に関わってはならない捕食者」だと告げていた。
「……お初にお目にかかります、大主教様」
私は喉の引きつりを悟られぬよう、扇子をわずかに広げて口元を隠し、作り物の王女の声を出した。
「神殿の皆様におかれましても、祈りを捧げてくださっていたとのこと、感謝いたしますわ」
「おお……なんと麗しきお姿」
ヴィクトールは細めた目を私に固定したまま、わざとらしく両手を広げた。
「生死の境を彷徨い、一度は呼吸すら絶えかけたとお聞きしておりましたのに……こうして神の御前にお立ちになられるとは、まさに奇跡。……しかし、奇跡には往々にして、人の目には見えぬ歪みが伴うものでございます」
ピリ、と謁見の間の空気が張り詰めた。
「……何が言いたい」
エドモン宰相が一歩前へ進み出た。
その灰色の瞳には冷徹な光が宿り、老獪な政治家としての鋭い牙が覗いている。
「殿下の健康回復は、王宮専属の医師団が万全を期して成し遂げたもの。歪みなどという不吉な言葉を、神の代理人が軽々しく口にされるのは感心いたしませんな」
「これはエドモン宰相。相変わらず、俗世の理屈に囚われておいでですな」
ヴィクトール大主教はエドモンの牽制を意に介さず、滑らかに言葉を継いだ。
「我が双生神殿の教えをお忘れか。人の肉体に宿る魂はひとつ。肉体が死の淵に瀕した際、その隙間に魔性の気配や、分かたれた忌まわしき宿業の影が忍び込むことがある。……特に、このアルドレアの地においては、古より忌子の呪いが王土を脅かしてきた歴史がございます」
忌子。
その言葉が発せられた瞬間、玉座の国王の手が、ピクリと硬直した。
広間に控える貴族たちの間から、微かなざわめきが漏れる。
双子を不吉の象徴とし、生まれた命すら闇に葬ることを正当化する神殿の教義。それはこの国の深部に根を張る、最も暗く重い禁忌だった。
「大主教」
国王レオンハルトの低く太い声が、ざわめきを一瞬で圧殺した。
「我が娘の回復に、そのような邪推を差し挟むことは許さぬ。戯言を弄するために参ったのなら、二度と神殿の敷居を跨げぬよう取り計らおうか」
冷徹な威圧。
だが、ヴィクトール大主教は眉一つ動かさなかった。むしろ、国王の過剰なまでの拒絶反応を、楽しむように眺めている。
「滅相もございません、陛下。神殿はただ、王家の安寧と王女殿下の魂の清浄を願うのみ。……ゆえに、ひとつご提案がございます」
大主教は胸の聖断の印に指を添え、厳かに告げた。
「来る秋の大祭において、ロゼリア殿下に『神託の清め』をお受けいただきたい」
「……何だと?」
エドモン宰相の声が一段と低くなった。
「神殿の最奥にある『双生の祭壇』にて、三日三晩、殿下の身を神聖なる香煙で清め、神官たちの手によって血と魂の儀式を執り行うのです。そうすれば、病の床で殿下にまとわりついた一切の不浄が払われ、ヴァンディエル王国とのご婚姻も、神の祝福のもとに進めることができましょう」
言葉の響きは祝福であり、清めだった。
だが、その実態が何を意味しているか、私ですら直感で理解できた。
(神殿の奥に……三日三晩、閉じ込められる……?)
医師でもない神官たちに、身体を調べ尽くされる。
十九年間、下町で育った私の身体。手の平のタコ、下町の生活でついた微かな傷、そして何より、本物のロゼリア王女と私の身体的な差異。
神殿の隔離された空間でそれらを調べ上げられれば、身代わりであることなど、一日と持たずに露見する。
それだけではない。
もし私が「十九年前に死んだはずの双子の片割れ――忌子」であると知れれば、彼らは狂喜乱舞して私を異端の生贄として処刑台に送るだろう。そして、私を匿っていた下町の『麦穂亭』の人々も、すべて教義の炎で焼き尽くされる。
「……断る」
国王レオンハルトの冷徹な一言が、広間に叩きつけられた。
「ロゼリアは病み上がりであり、体調は未だ万全ではない。そのような過酷な儀式に耐えられるはずがなかろう」
「おやおや、陛下。神の清めを拒まれるとは、何か神殿に知られては困るような『秘密』でもおありですか?」
ヴィクトール大主教の言葉の端に、剃刀のような毒が閃いた。
彼はゆっくりと私へと歩み寄ってくる。
ザッ、と床を踏み鳴らす音が響いた。
私の前に、ガレットの屈強な体躯が立ち塞がったのだ。
ガレットは抜刀こそしなかったものの、腰の長剣の鞘に手をかけたまま、大主教を睨み据えた。
「これ以上、殿下への無礼な接近は罷りならぬ」
「近衛の若造が、神の代理人に剣を向けるか」
大主教は冷笑を浮かべ、ガレットの肩越しに、私の顔を覗き込んできた。
その濁った灰色の瞳の奥に、確信めいた嘲笑が宿っていた。
この男は、すでに何かを察している。
ロゼリア王女が病で急死したという事実か、あるいは、目の前にいる女が本物ではないという疑念か。確たる証拠は掴んでいないにしても、王家の異様な警戒ぶりから「何かが隠されている」ことを確信しているのだ。
「ロゼリア殿下。……貴女のその翡翠の瞳は、誠に美しい。まるで、かつて神の怒りに触れて散った、悲劇の王妃様のようでおられる」
大主教の低い囁きが、私の鼓膜を震わせた。
「神の眼からは、何人たりとも逃れることは叶いません。……玉座に偽りの光が満ちる時、神罰の雷がこの城を焼き払うことでしょう」
ヴィクトール大主教は身を翻すと、白衣の神官たちを引き連れて、静かに謁見の間を去っていった。
香煙の甘ったるい匂いだけが、冷え切った広間にいつまでも漂い続けていた。
大扉が重い音を立てて閉ざされた瞬間、玉座の国王が肘掛けを拳で激しく叩きつけた。
ドンッ!
凄まじい衝撃音が響き渡り、広間にいた貴族たちが一斉に身を縮める。
「……エドモン」
「はっ」
「神殿の動きを監視せよ。あの老狐、どこまで嗅ぎつけている?」
「……神殿内部の密偵によれば、離宮周辺の医師や侍女の動向を探っている形跡がございます。ロゼリア殿下の急死の事実を掴むのも、時間の問題かと」
エドモンの冷淡な報告に、私の背筋を冷たい汗が伝っていった。
包囲網が、確実に狭まっている。
宮廷内のオリヴィアの嫌がらせなどとは次元が違う。国家の屋台骨を揺るがす巨大な宗教勢力が、私という存在を起点にして、王家そのものを呑み込もうと口を開けているのだ。
ふと、広間の上座、来賓席の一角に視線を向ける。
そこには、静かに腕を組み、事の成り行きを見届けていたリュシアン王子の姿があった。
彼のアイスブルーの瞳は、激高する国王でも、去っていった大主教でもなく、ただ一人、青ざめて立ち尽くす私だけを、深く、冷徹に見つめていた。
秋の冷たい風が、ステンドグラスの隙間から吹き込んできた。
私の足元で、偽りの王女としての命脈が、音を立てて軋み始めていた。




