↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
16/26

第16話 秘密の語らい

 泥のついた作業着。乱れた髪。芝生の上に押し倒された、あまりにも無様な格好。


 どんな悪女の台詞も、どんな嘘の言い訳も、今のこの状況の前では一文字も組み立てることができなかった。


 ガレットは弾かれたように私の手首を離し、転がるようにして立ち上がった。

 顔は蒼白になり、額には冷や汗が滲んでいる。


「な……ぜ? どうして殿下が、そのような下級使用人の服を……? それに、今の身のこなし……荷車の下を潜り、樽を駆け上がって塀を越えようとするなど」


 ガレットの混乱は、見ていて痛々しいほどだった。


 王宮で生まれ育ち、歩くことすら億劫がっていたはずの高貴な王女が、深夜に裏路地のネズミのような動きで脱走を図ったのだ。彼の常識は完全に粉砕されていた。


「……申し訳ございません!」


 ガレットは突如、その場に片膝を突いて頭を垂れた。


「暗がりとはいえ、殿下の御身に手をかけ、押し倒すなどという狼藉を……! いかなる処罰も受ける覚悟です!」


「いいのよ、ガレット」


 私は芝生の上に上体を起こし、深く息を吐き出した。

 草の切れ端が作業着のあちこちにくっついているのを、指先で払う。


「あなたが謝る筋合いじゃないわ。見張りの任務を全うしただけでしょう。……悪かったのは、こんな格好で逃げ出そうとした私の方よ」


「殿下」


 ガレットが恐る恐る顔を上げた。

 その瞳には、恐怖や怒りではなく、底知れない戸惑いと、痛切な問いかけが宿っていた。


「何故なのですか」


 ガレットの声は低く、真剣だった。


「何故、夜中にこのような場所から抜け出そうとされたのですか。もし外へ出られれば、護衛もつかず、暴漢に襲われる危険すらあります。……そこまでして、何処へ行こうとされていたのですか」


 私は膝を抱え、遠くの石塀を見つめた。

 夜風が冷たく、汗ばんだ肌を冷やしていく。


 エドモン宰相なら、

「適当な嘘を吐いて威圧しろ」

と言うだろう。


 けれど、目の前で真っ直ぐに私を見つめているこの実直な騎士に対して、これ以上馬鹿げた嘘を重ねる気には、どうしてもなれなかった。


「……息が、詰まりそうだったの」


 ぽつりと、本音が口から零れ落ちた。


「……え?」


「あの部屋にいるとね、壁が迫ってくるみたいで……息がうまくできなくなるのよ」


 私は自分の胸元をぎゅっと押さえた。


「誰も彼もが私を疑っているようで、一歩でも踏み外せば谷底に落ちるみたいで……。ほんの少しだけでいいから、外の風を吸いたかった。……ただ、それだけよ」


 それ以上は言えなかった。


「下町のパン屋の匂いが恋しかった」

とも、

「自分は本物の王女ではない」

とも、口にすることは許されない。


 だが、私の震える声の中に滲み出た切実さは、嘘偽りのない本物だった。


 ガレットはしばらく何も言わなかった。


 ただ立ち上がり、夜空を見上げていた。

 その横顔には、庭園や夜会で見せた私の姿を、何度も思い返しているような迷いがあった。


「以前の殿下なら」


 ガレットが静かに口を開いた。


「私のような護衛が手を上げれば、その場で近衛隊長を呼びつけ、私の首を撥ねろと怒鳴り散らしていたはずです」


「……そうね。聞いてるわ」


「今の殿下は……怒るどころか、私の非を咎めず、自ら非を認められた」


 ガレットは視線を下ろし、私を真っ直ぐに見据えた。


「それに……先ほどの身のこなし。あれは、日頃から路地裏を駆け回り、身体ひとつで危険を避けてきた者だけが持つ動きです。……王族の立ち居振る舞いでは、決してありません」


 背筋を冷たいものが走った。


 やはり、分かってしまったのだ。

 セドリックだけでなく、この武骨な騎士までもが、私の決定的な違和感に気づいている。


 私は奥歯を噛み締め、宣告を待つ罪人のように身を固くした。


 だが――。


「……ですが」


 ガレットは短く息を吐くと、腰の剣から手を完全に離した。


「私は、近衛騎士団の兵士です。宮廷の陰謀や、高貴な方々の事情について詮索することは、私の役目ではありません」


「……ガレット?」


「私が守るべきは、目の前にいる主君の御身だけです」


 彼は私の前に歩み寄ると、ゆっくりと腰を落とし、目線を同じ高さに合わせた。


「今夜のことは、見なかったことにいたします。何もなかったと、そう警備日誌には書いておきます」


「え……いいの? 違反になるんじゃないの……?」


「違反ですね。発覚すれば営倉行きです」


 ガレットは苦笑するように口の端をわずかに上げた。


「ですから、これは……殿下と私だけの、秘密ということで」


 秘密。

 その言葉が、胸の奥にじんわりと染み渡っていく。


「ただし」


 ガレットの表情が、再び真面目な騎士のものに戻った。


「外へ出るのは諦めてください。今の殿下には、あまりにも多くの目が向けられています。夜の街へ一人で出れば、何が起きるか分かりません」


「分かってるわ。無茶を言ったのは私よ」


「どうしても息が詰まるのであれば……」


 ガレットは少し視線を彷徨わせ、耳の先をわずかに赤くしながら言った。


「この裏庭くらいなら、私が周囲を警戒している間、風に当たっていただいても構いません。……半刻ほどでしたら、夜警の巡回も来ませんから」


 ぶっきらぼうで、不器用な、彼なりの精一杯の気遣いだった。


「……ありがとう、ガレット」


 私が素直に微笑むと、ガレットは慌てて視線を逸らし、立ち上がって木扉の前に背を向けた。


「……礼には及びません。さあ、冷えますから、そこの石段にでも腰掛けていてください」


 私は言われた通り、勝手口の脇にある低い石段に腰を下ろした。

 夜風が心地よく頬を撫でていく。


 少し離れた場所で、長剣に手を添えながら、背中を向けて周囲を警戒している大きな背中。


 その姿を見つめていると、城壁に閉じ込められていた胸の息苦しさが、不思議とすうっと消えていくのが分かった。


 私は王女ではない。

 彼が忠誠を誓うべき本物のロゼリアですらない。


 それでも今、この瞬間、私たちは確かにひとつの秘密を共有し、互いを信じ合っていた。


 夜空を見上げると、満天の星が静かに瞬いていた。

 下町で見ていたものと、まったく同じ星空だった。


 明日になれば、また偽りの仮面を被らなければならない。


 けれど、この不器用な騎士が背中を守ってくれている限り、私はもう少しだけ、前を向いて戦えるような気がしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。