第16話 秘密の語らい
泥のついた作業着。乱れた髪。芝生の上に押し倒された、あまりにも無様な格好。
どんな悪女の台詞も、どんな嘘の言い訳も、今のこの状況の前では一文字も組み立てることができなかった。
ガレットは弾かれたように私の手首を離し、転がるようにして立ち上がった。
顔は蒼白になり、額には冷や汗が滲んでいる。
「な……ぜ? どうして殿下が、そのような下級使用人の服を……? それに、今の身のこなし……荷車の下を潜り、樽を駆け上がって塀を越えようとするなど」
ガレットの混乱は、見ていて痛々しいほどだった。
王宮で生まれ育ち、歩くことすら億劫がっていたはずの高貴な王女が、深夜に裏路地のネズミのような動きで脱走を図ったのだ。彼の常識は完全に粉砕されていた。
「……申し訳ございません!」
ガレットは突如、その場に片膝を突いて頭を垂れた。
「暗がりとはいえ、殿下の御身に手をかけ、押し倒すなどという狼藉を……! いかなる処罰も受ける覚悟です!」
「いいのよ、ガレット」
私は芝生の上に上体を起こし、深く息を吐き出した。
草の切れ端が作業着のあちこちにくっついているのを、指先で払う。
「あなたが謝る筋合いじゃないわ。見張りの任務を全うしただけでしょう。……悪かったのは、こんな格好で逃げ出そうとした私の方よ」
「殿下」
ガレットが恐る恐る顔を上げた。
その瞳には、恐怖や怒りではなく、底知れない戸惑いと、痛切な問いかけが宿っていた。
「何故なのですか」
ガレットの声は低く、真剣だった。
「何故、夜中にこのような場所から抜け出そうとされたのですか。もし外へ出られれば、護衛もつかず、暴漢に襲われる危険すらあります。……そこまでして、何処へ行こうとされていたのですか」
私は膝を抱え、遠くの石塀を見つめた。
夜風が冷たく、汗ばんだ肌を冷やしていく。
エドモン宰相なら、
「適当な嘘を吐いて威圧しろ」
と言うだろう。
けれど、目の前で真っ直ぐに私を見つめているこの実直な騎士に対して、これ以上馬鹿げた嘘を重ねる気には、どうしてもなれなかった。
「……息が、詰まりそうだったの」
ぽつりと、本音が口から零れ落ちた。
「……え?」
「あの部屋にいるとね、壁が迫ってくるみたいで……息がうまくできなくなるのよ」
私は自分の胸元をぎゅっと押さえた。
「誰も彼もが私を疑っているようで、一歩でも踏み外せば谷底に落ちるみたいで……。ほんの少しだけでいいから、外の風を吸いたかった。……ただ、それだけよ」
それ以上は言えなかった。
「下町のパン屋の匂いが恋しかった」
とも、
「自分は本物の王女ではない」
とも、口にすることは許されない。
だが、私の震える声の中に滲み出た切実さは、嘘偽りのない本物だった。
ガレットはしばらく何も言わなかった。
ただ立ち上がり、夜空を見上げていた。
その横顔には、庭園や夜会で見せた私の姿を、何度も思い返しているような迷いがあった。
「以前の殿下なら」
ガレットが静かに口を開いた。
「私のような護衛が手を上げれば、その場で近衛隊長を呼びつけ、私の首を撥ねろと怒鳴り散らしていたはずです」
「……そうね。聞いてるわ」
「今の殿下は……怒るどころか、私の非を咎めず、自ら非を認められた」
ガレットは視線を下ろし、私を真っ直ぐに見据えた。
「それに……先ほどの身のこなし。あれは、日頃から路地裏を駆け回り、身体ひとつで危険を避けてきた者だけが持つ動きです。……王族の立ち居振る舞いでは、決してありません」
背筋を冷たいものが走った。
やはり、分かってしまったのだ。
セドリックだけでなく、この武骨な騎士までもが、私の決定的な違和感に気づいている。
私は奥歯を噛み締め、宣告を待つ罪人のように身を固くした。
だが――。
「……ですが」
ガレットは短く息を吐くと、腰の剣から手を完全に離した。
「私は、近衛騎士団の兵士です。宮廷の陰謀や、高貴な方々の事情について詮索することは、私の役目ではありません」
「……ガレット?」
「私が守るべきは、目の前にいる主君の御身だけです」
彼は私の前に歩み寄ると、ゆっくりと腰を落とし、目線を同じ高さに合わせた。
「今夜のことは、見なかったことにいたします。何もなかったと、そう警備日誌には書いておきます」
「え……いいの? 違反になるんじゃないの……?」
「違反ですね。発覚すれば営倉行きです」
ガレットは苦笑するように口の端をわずかに上げた。
「ですから、これは……殿下と私だけの、秘密ということで」
秘密。
その言葉が、胸の奥にじんわりと染み渡っていく。
「ただし」
ガレットの表情が、再び真面目な騎士のものに戻った。
「外へ出るのは諦めてください。今の殿下には、あまりにも多くの目が向けられています。夜の街へ一人で出れば、何が起きるか分かりません」
「分かってるわ。無茶を言ったのは私よ」
「どうしても息が詰まるのであれば……」
ガレットは少し視線を彷徨わせ、耳の先をわずかに赤くしながら言った。
「この裏庭くらいなら、私が周囲を警戒している間、風に当たっていただいても構いません。……半刻ほどでしたら、夜警の巡回も来ませんから」
ぶっきらぼうで、不器用な、彼なりの精一杯の気遣いだった。
「……ありがとう、ガレット」
私が素直に微笑むと、ガレットは慌てて視線を逸らし、立ち上がって木扉の前に背を向けた。
「……礼には及びません。さあ、冷えますから、そこの石段にでも腰掛けていてください」
私は言われた通り、勝手口の脇にある低い石段に腰を下ろした。
夜風が心地よく頬を撫でていく。
少し離れた場所で、長剣に手を添えながら、背中を向けて周囲を警戒している大きな背中。
その姿を見つめていると、城壁に閉じ込められていた胸の息苦しさが、不思議とすうっと消えていくのが分かった。
私は王女ではない。
彼が忠誠を誓うべき本物のロゼリアですらない。
それでも今、この瞬間、私たちは確かにひとつの秘密を共有し、互いを信じ合っていた。
夜空を見上げると、満天の星が静かに瞬いていた。
下町で見ていたものと、まったく同じ星空だった。
明日になれば、また偽りの仮面を被らなければならない。
けれど、この不器用な騎士が背中を守ってくれている限り、私はもう少しだけ、前を向いて戦えるような気がしていた。




