第15話 裏路地の攻防
深夜二時。
王宮の回廊を満たす静寂は、昼間のそれとはまるで違っていた。
分厚い石壁が外の風を完全に遮断し、冷え切った空気が床の隙間から這い上がってくる。
壁に等間隔で掛けられた燭台の火はほとんど落とされ、巡回兵の靴音が遠くの角を曲がっていく鈍い響きだけが、時折鼓膜を揺らしていた。
自室の扉の前に立ち、私は息を殺して外の気配を伺った。
(……足音が消えた。今だ)
身につけているのは、あの息の詰まる絹のドレスでも、コルセットでもない。
昼間のうちに第二厨房の物干し場からこっそり拝借してきた、見習い料理番の古びた麻の作業着とズボンだ。手首と足首を紐で固く縛り、亜麻色の長い髪を手拭いでしっかりと包み込んで、目深にフードを被っている。
扉の鍵を爪先で静かに外し、音を立てずに廊下へ滑り出る。
絨毯の敷かれていない冷たい石畳を、足裏全体を使って衝撃を逃がすように歩く。
昼間のセドリックの顔が、脳裏を離れなかった。
机に突っ伏して眠ってしまった私の肩に、自らの上着をかけてくれたあの人。
触れようとして止まった指先と、眼鏡の奥で揺れていた、あの苦痛に満ちた眼差し。
『貴女は――』と紡ぎかけ、そのまま飲み込まれた言葉。
部屋の四方を囲む高い壁が、じわじわと狭まって自分を押し潰してくるような錯覚に襲われる。
セドリックの疑惑、オリヴィアの冷たい視線、リュシアン王子の品定めするようなアイスブルーの瞳。そして、いつ神殿に嗅ぎつけられるか分からないという底知れない恐怖。
外の空気が吸いたかった。
王宮の作法も、悪女の仮面も、忌子という血の呪いも関係のない、あの埃っぽくて雑多な下町の風を、ほんのひと時だけでも肌に感じたかった。
回廊を抜け、中庭の植え込みの陰を縫うように進む。
目指すのは、第二厨房の勝手口だ。
あそこなら城壁の外側、町へと続く搬送用の小道へ直接抜けられるはずだと、昼間の製パン騒動の際に目をつけていたのだ。
ひんやりとした夜露が草の葉からズボンの裾を濡らす。
巡回兵の松明の光が遠くのアーチを横切るたび、私は木の幹の影に身を縮めた。光が通り過ぎるのを見届け、素早く次の物陰へ滑り込む。
やがて、勝手口が見えてきた。
外壁に埋め込まれた小さな鉄帯締めの木扉。周囲には野菜の空き箱や酒樽がうず高く積まれている。
(よし……あそこから出られる……!)
胸を撫で下ろし、木扉へ向けて駆け出そうとした、その瞬間だった。
カシャ。
積み上げられた木箱の陰から、硬質な金属の擦れ合う音が響いた。
「誰だ」
低く、張り詰めた声。
闇を切り裂くように、一人の大柄な影が滑り出てきた。
反射的に足を止め、後ずさる。
月明かりの下に現れたのは、ガレットだった。
昼間の白銀の甲冑ではなく、動きやすさを重視した濃紺の革鎧を身につけている。だが、腰には使い込まれた長剣が佩かれ、その右手はすでに柄の上に乗っていた。
裏口とはいえ城外へ通じる要所を、近衛騎士団が見逃すはずもなかったのだ。
「夜間に厨房裏をうろつく不審者か。……動くな。刃を抜くぞ」
鋭い瞳が、容赦なく私を射抜く。
フードで顔の上半分は隠れているはずだが、体格と服装からして、ただの使用人ではないと察知されたらしい。彼の一歩踏み出す足取りには、一切の躊躇がなかった。
(まずい……! ここで捕まったら、全部終わる!)
身代わり王女が夜中に男物の作業着を着て城を抜け出そうとしていたなどと知れ渡れば、エドモン宰相の手によって地下牢に叩き込まれるか、即座に正体を疑われて破滅だ。
弁明する暇などない。私は踵を返し、脱兎のごとく駆け出した。
「止まれ!」
背後でガレットの怒声と、力強く石畳を蹴る足音が響く。
歩幅の違いは圧倒的だ。直線で走れば、鍛え上げられた騎士の足にあっという間に追いつかれる。
だが、ここは狭く、物が多い裏庭だ。
私は正面の石壁に向かって真っ直ぐ走りながら、手前で急激に重心を低く落とした。
搬入用の荷車が通路の半ばを塞いでいる。
ガレットが、
「そこまでだ!」
と手を伸ばしてきた瞬間、私は床を滑るように身を投げ出し、荷車の下のわずかな隙間へ足を滑り込ませた。
ズザザッと砂煙を上げながら、荷車の腹の下をすり抜ける。
「なっ……!?」
背後で驚愕の声が上がった。
騎士の体格と革鎧では、荷車の下を潜ることなどできない。彼は荷車を大きく迂回せざるを得なくなった。
そのわずかな隙に、私は立ち上がり、積み上げられた酒樽へと飛びついた。
一段、二段と樽の縁を踏み台にして駆け上がり、裏庭を囲む背丈の倍近くもある石塀のヘリへ、両手を引っ掛ける。
子供のころ近所の悪ガキたちと追いかけっこをし、野良犬から逃げるために屋根から屋根へと飛び移っていた頃の身のこなしだ。
腕の力だけでぐっと身体を引き上げ、塀の上に片足を乗せる。
ここを飛び降りれば、外の小道に出られる。
そう確信して身を乗り出した瞬間、下から風を切る鋭い音が迫った。
「逃がすか!」
ガレットの巨躯が、驚くべき跳躍力で真下から飛び上がってきた。
彼の手が、私の足首を正確に掴み取る。
「きゃっ……!?」
バランスを崩し、私は塀の上から真下へと落ちた。
だが、ガレットは私を地面に叩きつけるようなことはしなかった。空中で私の腰を抱え込み、自らの身体をクッションにするようにして、芝生の上へと着地したのだ。
ドサッ、と重い衝撃が二人の身体を揺らす。
「捕らえたぞ、曲者……!」
ガレットが私の両手首を芝生に押さえつけ、逃げ場を塞ぐ。
その拍子に、私の頭を覆っていた手拭いとフードが、バサリと解け落ちた。
夜風が吹き抜け、束ねていた亜麻色の長い髪が、月光を浴びて芝生の上に扇状に広がる。
「観念して、正体を」
ガレットの言葉が、途中で凍りついた。
雲が切れ、澄み切った銀色の月光が、私の顔を真っ直ぐに照らし出した。
息を乱し、肩を上下させている私の顔を。
そして、暗がりの中で翡翠色に光る、私の瞳を。
「……」
静寂。
二人の荒い呼吸の音だけが、夜の空気の中に重なっていく。
ガレットの瞳が、これ以上ないほどに見開かれていた。
手首を押さえている彼の大きな掌が、ピクリと痙攣するように強張る。
「……ろ……」
彼の唇から、掠れた声が漏れ出た。
「ロゼリア……殿下……?」
「……」
私は何も言えなかった。




