第14話 揺らぐ確信
窓から差し込む陽光は日増しに熱を帯び、中庭の噴水が跳ね上げる水しぶきが、初夏の光を浴びてキラキラと輝いていた。
だが、白大理石の小広間に籠もりきりの私には、季節の移ろいを肌で楽しむ余裕など微塵もなかった。
「……では殿下、もう一度。ヴァンディエル王国の東部国境守備総督を務める侯爵のお名前と、その嫡男の爵位は?」
「ええと……東部だから、アルブレヒト侯爵。嫡男は……ギルバート伯爵……じゃなくて、子爵……?」
「惜しいですね、男爵です。アルブレヒト卿は昨年、国境総督の功績により王室から新たな直轄地を賜り、嫡男の叙爵が進められている最中ですから、必ず覚えてください」
パタン、と皮表紙の分厚い家系図集が閉じられた。
机の向かいに座るセドリックが、細縁の眼鏡のブリッジを押し上げ、小さく息を吐き出す。
「ヴァンディエル王国使節団の滞在は、あと二ヶ月近く続きます。今後予定されている午餐会や観劇会では、相手国の重臣たちの顔と名前、それに血縁関係を完璧に把握していなければ、些細な会話の端から失礼にあたりますよ」
「……頭から煙が出そうですわ、セドリック」
私は卓上に広げられた羊皮紙の山を見つめ、机に突っ伏したい衝動を必死に堪えた。
ここ数日、セドリックによる講義は苛烈を極めていた。
午前中は他国の情勢と貴族の系譜、午後は舞踏のステップの確認と北方語の発音指導、夕方には外交上の社交儀礼の暗記。
毎朝パンを焼き、客の顔とツケの金額を覚えるのとは、使う頭の引き出しがまるで違っていた。
「弱音を吐いてはいけません。殿下の……、療養中のブランクを埋めるためには、人並み以上の修練が必要なのですから」
セドリックは咳払いをひとつし、机の脇に置かれていた果物籠へと手を伸ばした。
銀の皿には、初夏に採れる小ぶりの林檎と洋梨、それに銀の小さな果物ナイフが添えられている。
「頭を使いすぎると糖分が不足します。少し休憩にいたしましょう。……侍女を呼んで、果物を剥かせますので」
「あ、いいわよ。そんなの、自分で――」
言いかけた瞬間、喉の奥で言葉を飲み込んだ。
だが、すでに私の右手は、無意識のうちに銀の果物ナイフの柄を握りしめていた。
「……殿下?」
セドリックが怪訝そうに眉を寄せる。
「な、何でもありませんわ。侍女の手を煩わせるまでもないということです。……たまには、このわたくしが自ら刃物を扱う姿を見せてあげますわよ」
私は引きつりそうな唇で傲慢な笑みを作りながら、籠から洋梨をひとつ取り上げた。
『麦穂亭』では、タルトやパイに使う果物の皮むきは毎朝の私の仕事だった。
一日十個の林檎や梨を、いかに薄く、いかに早く、果肉を削らずに剥ききるか。親父さんに怒鳴られながら叩き込まれた手先の感覚は、豪奢なドレスを着ていようと、指先が完璧に記憶していた。
サクッ。
銀のナイフの刃先が、梨の頂点に吸い付くように食い込む。
左手の親指で果実をくるくると一定の速度で回しながら、右手の刃先をほとんど動かさずに滑らせていく。
シャリ、シャリ、シャリ、シャリ。
刃先が皮の裏側を薄く撫で、途切れることのない一本の帯となって、螺旋を描きながら机の上へと滑り落ちていく。
あっという間に皮を剥き終えると、手早く均等に切り分け、銀皿の上へと美しく並べた。
「……ふぅ。ほら、できたわよ。食べなさいな」
私はナイフを置き、皿をセドリックの前へと押し出した。
皿の上には、果汁の滲んだ艶やかな果肉が、均等な厚みで並んでいる。
「……」
セドリックは、動かなかった。
皿の上の洋梨と、机の上に落ちた途切れのない一本の皮、そして私の右手を交互に見つめたまま、固まっていた。
「セドリック?」
「……殿下」
セドリックの声が、かすかに掠れていた。
「……貴族の令嬢が果物を口にする際、果物ナイフは皿の上で一口大に切り分けるために使うものであり、手で果実を握り、丸ごと皮を剥くなどという所作はいたしません」
「あぁ……えーっと」
「それ以前に」
セドリックは身を乗り出し、机の上に落ちた皮をまじまじと見つめた。
「この皮の薄さ、そして無駄のない手の動き……宮廷料理人でも、これほど手慣れたナイフさばきを見せる者はそう多くありません。……殿下、かつての貴女は、林檎の皮を剥こうとしてナイフの刃を机に突き刺し、侍女に怪我をさせそうになったことがおありでしたが」
「そ、それは……!」
背中に冷たい汗がツーと流れる。
「あれよ! 離宮でのリハビリよ! 木彫りの彫刻刀を握っていたと言ったでしょう!? 刃物の扱いに慣れたせいで、果物の皮むきなど朝飯前……じゃなくて、赤子の手をひねるようなものですわ! これからの時代、姫でも刃物を扱えなくてはね」
「……木彫りの技術が、果物の皮むきに直結するものなのですか」
「直結しますわ! 同じ刃物ですもの!」
私が必死で胸を張ると、セドリックはそれ以上追及せず、ただ深く息を吐いて洋梨の切れ端をフォークで口へと運んだ。
「大変、美味にございます」
「そ、そうでしょうとも。感謝なさい」
冷や汗を拭いながら、私は机の上の家系図に再び目を落とした。
危ない。気を抜くと、すぐに十九年間の庶民の癖が指先から漏れ出てしまう。
だが、私の油断はそれだけでは終わらなかった。
講義が再開されてから三十分ほど経った頃、立ち上がって白板の地図を指し示そうとした私のドレスの袖口が、椅子の肘掛けの金具に引っかかった。
ビリッ、と小さな乾いた音が響く。
「あ……」
見ると、袖口のレースの縫い目がほつれ、金糸の刺繍が数センチほど垂れ下がってしまっていた。
「おや、引っ掛けてしまいましたね」
セドリックが立ち上がり、呼び鈴へ手を伸ばそうとした。
「侍女を呼びましょう。お召し替えを――」
「待って、呼ぶほどのことじゃないわ」
私は無意識に、机の引き出しから手芸用の小箱を取り出していた。
昨日の講義で、刺繍の歴史を学ぶためにセドリックが用意させた裁縫道具だ。
小箱から針を取り、ドレスと同色の絹糸を手に取る。
糸の端を唇で軽く湿らせ、針穴に近づけると――スッと一瞬で糸が通った。糸通しなど使わずとも、針穴の位置と糸の張りは指先が知っている。
「ちょっとそこ、押さえてて」
「え……?」
呆気にとられるセドリックの指を取り、ほつれた袖口の布端を押さえさせる。
私は針を構えると、布の裏側から迷いなく針先を刺し込んだ。
チク、チク、チク、チク。
親指と人差し指で針を押し出し、中指の指ぬきで受ける。
布目をすくい、隠し縫いで表に糸が出ないよう手早くかがっていく。
キュッと糸を引き、裏側で玉結びを作って、歯でプチンと糸を噛み切った。
「よし、これで完璧! 元通りね!」
私は袖口をパンパンとはたき、満足げに笑った。
表からは、どこがほつれていたのか全く分からない仕上がりだ。
「……」
目の前に立つセドリックが、袖口を押さえた姿勢のまま、固まっていた。
彼の眼鏡の奥の瞳が、限界まで見開かれている。
(……あ)
またやってしまった。
王女が。
自ら針と糸を持ち。
あまつさえ、教育係に布を押さえさせ。
最後には『歯で糸を噛み切った』のだ。
下町の作業場なら日常茶飯事の光景だが、王宮の淑女としては、天地がひっくり返るほどの悪手だった。
「……で、殿下」
セドリックの声が、震えていた。
「な、何かしら……」
「刺繍すら『指が痛むから』と侍女に丸投げされていたロゼリア殿下が、いつの間に、これほど手慣れた技術を?」
「そ、それは……! 離宮で、木彫りの丸太を縛るための……そう、縄を編む練習をしていたせいですわ!」
「どれだけ木彫りが好きなんですか。一度作品を見せてくださいよ」
「そうですわね、いつかお披露目パーティーでもしましょう」
もはや自分でも何を言っているのか分からなかった。
セドリックは眼鏡を外し、眉間を指先で強く揉みほぐしながら、長いため息を吐き出した。
「もう結構です。殿下の類まれなる器用さについては、深く追及しないことにいたします。……講義を続けましょう」
セドリックは席に戻ったが、その視線は、もはや講義のテキストではなく、私の手元や仕草へと絶え間なく注がれていた。
何かを確かめようとするような、深い眼差し。
その視線に晒されるたびに、私の心臓は嫌な音を立てて跳ね上がった。
午後を過ぎ、部屋の空気はいよいよ初夏の熱気で重苦しくなっていた。
分厚いカーテンを開けても、吹き込んでくる風はぬるく、肌にまとわりつく。
コルセットに締め上げられた胸が浅く上下する。
目の前には、北方諸国の同盟関係を記した膨大な年表と、複雑に入り組んだ家系図の羊皮紙。
セドリックの低く穏やかな講義の声が、心地よい波のように耳朶を打つ。
「……当時のアルドレア王国は、北方の通商路を確保するため、旧帝国領の領主たちと協定を」
文字が、かすんでいく。
昨夜の一人反省会による寝不足と、連日の緊張の連続。
それに加えて、この初夏の午後の陽気だ。
いつもなら焼き上がったパンを店先に並べ終え、親父さんの小言を聞き流しながらカウンターの隅で舟を漕いでいた、一番眠たい時間帯だった。
(ダメ……起きてなきゃ……。ロゼリアは……こんなところで……寝たり……)
瞼が、鉛のように重い。
一度目を閉じると、二度と持ち上がらなくなっていく。
耳の奥で、セドリックの声が遠ざかる。
代わりに聞こえてきたのは、下町の市場のざわめきと、石窯の薪がパチパチとはぜる音だった。
香ばしいパンの匂い。
小麦粉の舞う作業場。
親父さんのしわがれた笑い声。
私の意識は、心地よい微睡みの底へと、ゆっくりと沈み込んでいった。
……どのくらい時間が経ったのだろうか。
肩のあたりに、重みのある温かいものが乗せられた。
清潔な石鹸の匂いと、古い紙の香り。
日差しの弱まった部屋の、わずかに冷え始めた夕暮れの空気を遮るように、上質な毛織物の上着が、私の背中を優しく包み込んでいた。
(……ん……?)
微睡みの中から、意識がゆっくりと浮上してくる。
机に突っ伏したまま、私は薄く目を開けた。
視界の端に映ったのは、濃紺の上着を脱ぎ、白いシャツ姿になったセドリックの横顔だった。
夕暮れの橙色の光が、窓から長く差し込み、彼の端正な横顔を深い陰影で彫り起こしている。
その表情を見た瞬間、私の息が止まりそうになった。
引き結ばれた薄い唇。
眉間に刻まれた、深い苦悩の皺。
セドリックは、机の上に投げ出された私の右手を、じっと見つめていた。
爪の間にわずかに残るタコ。
果物を剥き、針を操り、お茶を淹れた、私の硬く逞しい指先。
彼はそっと手を伸ばした。
壊れやすいものに触れるかのように躊躇いながら、その指先が私の頬にかかった亜麻色の前髪へと伸びる。
だが――触れる直前で、彼の手は宙でピタリと止まった。
セドリックの喉仏が、ごくりと動く。
『貴女は』
セドリックは伸ばしかけた手をゆっくりと引き戻すと、何かを堪え切るように拳を固く握りしめた。
そして、深く息を吐き出すと、静かに身を翻して足音を忍ばせながら広間の扉へと向かっていった。
カチャリ、と控えめな音を立てて扉が閉ざされる。
私は机からゆっくりと顔を上げ、肩にかけられた濃紺の上着を引き寄せた。
布地越しに伝わってくる、セドリックの温もりと香り。
「……どうしよう」
その一言だけが、暗くなった部屋に小さく落ちた。
セドリックにだけは、知られたくなかった。
彼が私に向けてくれたあの苦悩の眼差しを思い出すたびに、胸の奥が冷たく締め付けられる。
足元から静かに、だが確実に崩れ始めている秘密の重みを感じながら、私はただ、彼の上着を強く抱きしめることしかできなかった。




