第13話 パン屋の娘
少年の手を強引に引っ張り、二人で並んで生地を捏ねる。
グッ、グッと体重を乗せて生地を折り畳む。
ドレスの重さなんて完全に忘れていた。掌に伝わる生地の弾力、手のひらの温もり、小麦が呼吸するように形を変えていく心地よさ。
「そう、手のひらの付け根で押すの! 指先でちぎっちゃダメよ!」
「こ、こうですか!?」
「そう! 筋がいいじゃない!」
生地を小さく丸め、丸い焼き型の中にぎっしりと隙間なく並べていく。
上から溶かしバターを塗り、粗糖をパラパラと振りかける。
「これを窯の手前、弱火のところで一気に焼き上げるの。……さあ、行くわよ!」
二つの皿が、赤熱した窯の中へと消えていった。
二十分後。
製パン所の中は、もはや天国のような香りで満たし尽くされていた。
焦がしバターの濃厚な匂い。
温まった牛乳と卵が焼き固まる、カスタードのような甘い香り。
そこにシナモンと干し葡萄の華やかな風味が混ざり合い、作業場の空気を黄金色に染め上げていた。
「焼けたわよ!」
私がピールを引き出すと、窯の中から現れたのは、息を呑むほど美しい二つの料理だった。
一つは、深皿の中でこんがりと黄金色に焼き上がった『パンプディング』。
卵液を吸ったパンがぷるぷると震え、表面はカリッと香ばしく、干し葡萄がぷっくりと膨らんでいる。
もう一つは、型いっぱいにふっくらと膨らみ、隣同士が仲良くくっつき合った『ちぎり菓子パン』。
溶けた粗糖がキャラメル状に輝き、見るからに柔らかそうだ。
「うわぁぁぁぁ……っ!!」
少年が感嘆の声を上げた。
その声を聞きつけてか、厨房の奥や廊下から、おずおずと他の下働きたち――皿洗いの少女や野菜切りの若者たちが、匂いにつられて顔を覗かせた。
「な、なんだこの匂い……?」
「おい、誰か火あぶりで処刑されたんじゃ……」
「処刑なんて誰もされてないわよ!」
私は振り返り、扉の陰に隠れていた下働きたちを手招きした。
「みんな、お腹空いてるんでしょう? ちょうどいいところに焼けたわ! 冷めないうちに食べなさい!」
「え……? で、殿下……?」
下働きたちは恐る恐る入ってきたが、目の前に並べられた熱々の料理と、満面の笑みを浮かべる私の顔を見て、毒気を抜かれたように立ち尽くした。
「ほら、丸椅子を持ってきて! みんなで輪になるのよ!」
私の号令で、作業場の中央に丸椅子が並べられた。
中央のテーブルに置かれた大きな深皿。私は銀のスプーンを配り、ちぎりパンを惜しげもなく手で割って、全員に手渡した。
パキッ、と音を立ててちぎれたパンから、白い湯気と甘い香りが立ち上る。
「いただきまーす!」
私が真っ先にパンプディングをスプーンで掬い、口へと放り込んだ。
熱い。そして、信じられないほど美味い。
外側はカリッとしていて香ばしく、中はとろけるようなプリンの柔らかさ。パンが吸い込んだ濃厚なミルクと卵の旨味が、噛むごとにじゅわっと溢れ出し、干し葡萄の酸味が全体を引き締めている。
「ん〜〜っ! 完璧! 我ながら最高の出来栄えね!」
私が幸せそうに頬を押さえると、少年たちも恐る恐る口に運んだ。
そして。
「う……うまい……っ!!」
見習いの少年が、目を輝かせて叫んだ。
「なんだこれ!? 外はカリカリなのに、中は信じられないくらいふわふわでトロトロだ……!」
「ちぎりパンもすごいよ! お砂糖がカリッとしてて、生地がすっごく柔らかい!」
皿洗いの少女が、頬を赤らめて夢中でパンを頬張る。
「でしょ? 失敗したパンでもね、水分と熱を補ってやれば、こんなに贅沢なお菓子に化けるのよ。捨てなくてよかったでしょう?」
「はい! はいっ……! ありがとうございます、殿下」
少年は鼻をすすりながら、何度も何度も頭を下げた。
「いいのいいの。パン職人は失敗して大きくなるんだから。次は窯の火をしっかり見て、熾火になってから入れなさいね」
「はいっ!」
それからは、もう無礼講のお茶会だった。
誰かが淹れてくれた安物のハーブティーをマグカップで啜りながら、私は下町で培ったパンのうんちくを語り、少年たちは目を輝かせてそれに聞き入った。
笑い声が作業場に響き、みんなの顔から身分の壁も恐怖も消え去っていた。
「あはは、そうそう! ライ麦パンを捏ねる時はね、もっと腕の力を使わないと――」
私はマグカップを置き、大きく笑いながら腕を広げた。
その瞬間。
ふと、自分の視界に入ったものに、私の思考が完全に凍りついた。
……腕まくりされた、薄汚れたドレスの袖。
……爪の間にびっしり詰まった、小麦粉とバターのカス。
……木製の粗末な丸椅子に、足を大きく開いて座っている自分の姿勢。
……そして、周りを囲む下働きたちと、完全に『タメ口』で談笑している自分。
「……」
静寂。
(……あれ?)
頭の中に、冷たい風がピューと吹き抜けた。
(私……今、何やってる……?)
私は、アルドレア王国第一王女、ロゼリア。
気位が高く、人を寄せ付けず、高慢で冷酷な悪女。
昨晩、オリヴィアに「化けの皮」と脅され、セドリックに「部屋から一歩も出るな」と厳命されていた、あの身代わり王女。
それが。
使用人の厨房に勝手に忍び込み。
ドレスを粉まみれにして腕まくりをし。
下働きたちと輪になって、大口を開けて菓子パンを頬張り。
親身になってパンの焼き方を熱血指導している。
(や……や……)
サーッと、全身の血の気が引いていくのが分かった。
(やらかしたぁぁぁぁぁぁっっ!!)
心の中で、絶叫が轟いた。
悪女どころの話ではない。完全に、下町の『麦穂亭』の厨房そのものだ。
もしこれがエドモン宰相に見つかったら? 国王レオンハルトにバレたら?
『貴様、身代わりの自覚が足りぬ! 神殿に引き渡す!』と一喝されて、即座に処刑台行きではないか。
「ひ、ひぃぃ……っ!」
私はガタッと音を立てて丸椅子から飛び起きた。
「で、殿下……? どうかなさいましたか?」
見習いの少年が、不思議そうに私を見上げる。
「な、何でもありませんわ!」
私は慌ててドレスの袖を乱暴に下ろし、粉まみれの胸元を両手で隠した。
そして、精一杯の「悪女の顔」を作ろうとして、引きつった笑みを浮かべた。
「こ、これは……そう! 王族の気まぐれよ! 下々の者たちがどのような粗末なものを食べているか、視察して差し上げただけですわ! 今日のことは……絶対に、誰にも言ってはなりませんことよ! 言ったら……言ったら、明日の朝食のパンを全部カチカチの乾パンにして差し上げますわ!」
意味不明な脅し文句を叫び散らしながら、私は振り返りもせず、脱兎の如く厨房の扉へと走り出した。
「あ、殿下! お皿が」
「いりませんわぁぁぁっ!」
私は叫びながら通用口の扉を蹴破るように飛び出し、回廊を全速力で駆け抜けた。
背後でドレスの裾がバサバサと音を立て、髪留めが外れて髪が風になびく。
(早く部屋に戻らなきゃ! セドリックが戻ってくる前に、手を洗って着替えなきゃ死ぬ!!)
曲がり角を一気に駆け抜け、自室へと続く東翼の廊下へ飛び込んだ、その時。
トスッ。
「きゃっ……!?」
曲がり角の陰から歩いてきた誰かの胸板に、私は正面から勢いよく激突した。
弾みで尻餅をつきそうになった私の腰を、細くしなやかな腕が咄嗟に抱き留める。
「……おっと。危ないですよ、殿下」
耳元で響いた、穏やかで澄んだ声。
冷や汗が、背中を滝のように流れ落ちた。
恐る恐る顔を上げる。
そこに立っていたのは――抱えていた書類の束を片腕に抱え、細縁の眼鏡の奥から静かに私を見下ろしている、セドリックの姿だった。
「セ……セドリック……」
「……はい。教育係のセドリックです」
セドリックの視線が、ゆっくりと私の全身をなぞっていった。
乱れに乱れた髪。
赤く火照った頬。
豪奢なドレスのあちこちに白くこびりついた、大量の小麦粉。
そして、私の口元からぷんぷんと漂っている、甘いシナモンと焼き立てのパンの匂い。
「……」
沈黙。
セドリックは眼鏡の位置を人差し指でクイッと直すと、冷ややかに、だが底知れない眼差しで私を見据えた。
「……殿下。部屋でおとなしく読書をしているはずの王女殿下が、なぜ、全身に小麦粉を浴びて、極上のパンプディングの香りを纏いながら廊下を疾走しておいでなのですか?」
「そ、それは……! その……本を読んでいたら、急に……小麦粉の歴史について深く考察したくなりまして……!」
「なるほど。考察の結果、全身に粉を塗りたくる儀式が必要だった、と」
「そ、そういうことですわ! オホホホホ!」
必死で高笑いを取り繕う私の顔を、セドリックはじっと見つめていた。
いつもなら「いい加減になさってください」と呆れた小言が飛んでくるはずだった。
だが。
セドリックの薄い唇が、ふっと微かに緩んだ。
彼の瞳の奥に、これまでの冷たい警戒や困惑とは違う、何か柔らかく温かい光が灯るのを、私は至近距離で目撃した。
「……殿下は、本当に不思議な方ですね」
「え……?」
セドリックはそっと私の腰から手を離すと、懐から清潔な白いハンカチを取り出した。
そして、私の頬に手を伸ばすと、そこに付いていた小麦粉を、驚くほど優しい手つきで拭い取った。
「焦げたパンを、プディングに化けさせる方法……。後で、私にも詳しく教えていただけますか?」
「っ……!?」
心臓が、跳ね上がった。
(見……見られてた……!?)
セドリックはそれ以上何も追及せず、ハンカチを私の手に握らせると、優雅に一礼して身を引いた。
「さあ、お部屋へ戻りましょう。セドリック特製の紅茶を淹れて差し上げます。……甘いお菓子には、少し苦味のある茶葉がよく合いますから」
そう言って歩き出すセドリックの背中を、私は真っ赤になった顔で見つめることしかできなかった。
手渡されたハンカチに残る、彼の清潔な石鹸の匂い。
悪女の仮面はボロボロに剥がれ落ちていたけれど、私の胸の奥には、これまで感じたことのない甘酸っぱい熱が、静かに広がっていた。




