第12話 匂いにつられて
夜会が明けた翌日の午後、王宮の空気は驚くほど穏やかだった。
ヴァンディエル王国の使節団は国王レオンハルトとの非公式会談に入り、護衛のガレットは近衛兵の交代勤務のため一度詰め所へと戻っていた。
教育係のセドリックも、昨夜のオリヴィアとの騒動の後始末や使節団への公式文書の作成に追われ、
「一時間ほど席を外します。殿下、くれぐれも部屋から出ず、大人しく読書でもしていてください」
と念を押して部屋を出て行った。
つまり、今の私は完全に自由だった。
「……読書なんて、してられるわけないじゃない」
私は部屋の天蓋付きベッドから跳ね起き、足首を回した。
誰の視線もない。見張りの騎士も、小言を言ってくる教育係もいない。
部屋の扉を少しだけ開けて廊下を覗くと、昼下がりの静けさの中、巡回兵の足音すら遠く離れていた。
少しだけ、息抜きがしたかった。
昨晩の息苦しいドレスとコルセットから解放されたとはいえ、この四方を高い壁に囲まれた豪奢な部屋にじっとしていると、胸の奥がじわじわと塞ぎ込んでくる。
私は足音を忍ばせ、自室のある東翼の離れから、中庭へ続く回廊へと抜け出した。
どこへ行くあてもなく、ただ日当たりのいい石畳の小道を歩いていた、その時だった。
ふわり。
初夏の風に乗って、懐かしい匂いが鼻腔をかすめた。
「……ん?」
私は足を止め、鼻をくんくんと鳴らした。
甘く、どこか香ばしい、薪の煙の匂い。
それに混じって、発酵した酵母特有の柔らかな酸味と、熱せられた小麦粉の甘い香りが漂ってくる。
(この匂い……パンを焼いてる?)
毎朝欠かさず嗅ぎ続けてきた匂いだ。体が勝手に反応し、足がふらふらと匂いの発生源へと引き寄せられていく。
王宮の北側に位置する、石造りの平屋の建物。煙突から細く白い煙が立ち上っている。王宮に仕える使用人や下級官吏たちの食事をまかなう、第二厨房の製パン所だった。
通用口の木製扉が、換気のために少しだけ開いていた。
私は壁の陰に身を隠し、隙間からそっと中を覗き込んだ。
中は広々とした石造りの作業場で、中央には大きな木製の捏ね台、奥には赤々と火が燃える二連の石窯が備え付けられていた。
下町の『麦穂亭』の窯より何倍も大きく、立派な設備だ。
その作業場の中央で、一人の若い少年が、必死の形相で石窯の前に立っていた。
十四、五歳くらいだろうか。白ぶちのコック帽を斜めに被り、体格に合わない大きなエプロンを締めている。見習いの料理番らしい。
「頼む……膨らんでくれ……!」
少年は祈るように手を組み、窯の鉄扉を覗き込んでいた。
だが、漂ってくる匂いの質が、次第におかしな方向へと変わり始めた。
香ばしさを通り越し、ツンと鼻を突く焦げ臭い煙が、窯の隙間からモクモクと噴き出し始めたのだ。
「うわっ!? 煙が……!?」
慌てた少年が、分厚い革手袋をはめて窯の扉を乱暴に開けた。
中から一気に黒煙が吹き出し、少年は激しく咳き込む。
鉄のピールで引っ張り出された天板の上には――無残な物体が転がっていた。
本来なら黄金色にふっくらと焼き上がるはずだったブリオッシュの山。
それが、表面は真っ黒に炭化し、中は生焼けのままべちゃりと潰れ、まるで黒い石ころのように無惨な姿を晒していた。
「な、なんで……!? 火加減は教わった通りにしたのに……!」
少年はピールを落としそうになりながら、頭を抱えた。
「あああ……どうしよう……! 王宮用の特級白小麦と、貴重な無塩バターに卵……砂糖まで使ったのに……! こんなの、料理長に見つかったら……」
少年の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
王宮の食材は厳重に管理されている。見習いが高価な食材を丸ごと無駄にしたとなれば、ただの叱責では済まない。給金を引かれるか、下手をすれば厨房から叩き出される。
少年は震える手で黒焦げのパンをゴミ箱に捨てようと、天板を持ち上げた。
その時、天板の端が作業台に引っかかり――。
ガッシャーーンッ!
金属の天板が床に落ち、黒焦げのパンが無残に石畳の上へと転がった。
甲高い音が、静かな厨房全体に響き渡る。
「う、嘘だろ……」
少年はその場にへたり込み、両手で顔を覆った。
その無惨な光景を見て、私の足は勝手に動いていた。
ドレスの裾を持ち上げ、木製の扉を押し開けて厨房の中へと踏み込む。
「ちょっと、大丈夫!?」
「ひっ……!?」
私の声に驚いた少年が、跳ね上がるように顔を上げた。
そして、床に散らばる黒焦げのパンの前に立つ私の姿――豪奢なドレスを纏い、翡翠色の瞳をした私の顔を見た瞬間、少年の喉から息が止まるような引きつった音が漏れた。
「ひ……ひぃぃぃぃぃっ……!!」
少年は飛び退くようにして後ずさり、壁に背中をしこたま打ち付けた。
その目は限界まで見開かれ、全身が小刻みにガタガタと震えている。
「ロ、ロゼリア……王女殿下……!?」
「え、あ……」
しまった。
少年はもう完全にパニックに陥っていた。彼は床に両膝を突き、額を石畳に擦り付けるようにして平伏した。
「も、申し訳ございません! 申し訳ございません! 決して、殿下のお食事を汚すつもりでは……! ただ、明日の朝のパンの練習を……! どうか、どうか首を撥ねないでください! 鞭打ちだけはご勘弁を……!」
悲痛な叫び声が、厨房に木霊する。
ロゼリア王女の悪名が、この厨房の末端にまでどれほど深く染み渡っているかが嫌というほど分かった。
この少年は本気で、自分がここで処刑されると信じ込んでいるのだ。
「……はぁ」
私は深く息を吐き出した。
私は床に散らばった黒焦げのパンを一瞥し、ゆっくりと少年に歩み寄った。
そして、彼の前にしゃがみ込み、その肩にそっと手を置いた。
「頭を上げなさい」
「ひっ……! ご、ごめんなさ――」
「いいから、上げなさいってば」
私は少し声音を柔らかくし、少年の肩を軽く叩いた。
「誰もあなたの首なんて撥ねないわよ。怪我はなかった? 火傷は?」
「……え?」
少年がおずおずと顔を上げた。
煤で汚れた頬に、涙の筋が二本走っている。その瞳は、怒り狂うはずの王女が穏やかに自分を見つめている現実を、全く理解できていないようだった。
「窯の温度が高すぎたのね」
私は床に転がったパンの一つを拾い上げ、指先で割ってみせた。
「表面は炭になっちゃってるけど、中心はまだ発酵の気泡が残ってる。生地にバターと砂糖をたっぷり入れたでしょう? 糖分と油脂が多い生地は焦げやすいのよ。薪が熾火になるまで待たずに、炎が上がっているうちに天板を入れちゃったんじゃない?」
「な……」
少年の口がぽかんと開いた。
「な、なぜ……それを……?」
「見れば分かるわよ。私も昔、同じ失敗を数え切れないくらいやったもの」
脳裏に、昔の光景が浮かぶ。
店で、初めて一人でバターロールを焼かせてもらった日。焦って薪をくべすぎて、
天板ごと真っ黒にしてしまった私。
泣きじゃくる私に、親父さんはげんこつを落としながらも、こう言ったのだ。
『パン職人はな、失敗した生地をゴミ箱に捨てる奴が一番の三流だ。失敗したら、別の美味いもんに化けさせろ。小麦と牛と鶏に謝りながら、最後まで食い切るのが礼儀ってもんだ』
親父さんの言葉を思い出すと、胸の奥が熱くなった。
「さてと」
私は立ち上がり、両腕のドレスの袖を肘の上まで豪快に捲り上げた。
絹のレースがくしゃくしゃになったが、知ったことではない。
「で、殿下……!? 何を……!?」
「何をって、リカバリーよ。こんな上等な小麦とバター、捨てたらバチが当たるわ」
私は作業台の上にあった清潔な布巾を手に取り、床に落ちたパンを拾い集めた。
「焦げた皮はナイフで全部削ぎ落とすの。中の白い部分だけを集めれば、立派に使えるわ」
「つ、使えるって……生焼けのパンですよ!?」
「生焼けなら、もう一度火を通せばいいのよ。……ほら、そこに牛乳と卵はある?」
「は、はい! あちらの冷暗所に……」
「それと、蜂蜜か粗糖。干し葡萄があれば最高ね。あと、シナモンの粉を少し。……ぼさっとしてないで、早く持ってきなさい!」
「は、はいっ!」
私の威勢のいい指示に、少年は条件反射で立ち上がり、冷暗所へと走っていった。
そこからの私の動きに、一切の迷いはなかった。
波刃のブレッドナイフを握り、黒焦げになったパンの表面をサッサッと削ぎ落としていく。
手首のスナップを利かせ、焦げた苦い部分だけをミリ単位で削り落とす。作業台の上には、あっという間に真っ白で柔らかいパンの芯だけが山積みになった。
「す、すごい……なんて速さだ……」
材料を抱えて戻ってきた少年が、目を丸くして立ち尽くしている。
「感心してる暇があったら、耐熱の深皿にバターを塗りなさい! 底と側面にたっぷりね!」
「は、はいっ!」
私は大きな木鉢に卵を四つ割り入れ、泡立て器で素早く溶きほぐした。
そこへ人肌に温めた牛乳を注ぎ、蜂蜜をたっぷり加えて混ぜ合わせる。甘い香りが立ち上る卵液の中に、一口大にちぎったパンの芯を惜しげもなく放り込んだ。
「こうやってね、潰れたパンに卵液を吸わせるの。生焼けの水分なんて、卵液を吸わせちゃえば関係なくなるわ」
ギュッ、ギュッと手で軽く押し込み、パンの気泡の奥まで甘い液体を行き渡らせる。
バターを塗った深皿に浸したパンを敷き詰め、上から干し葡萄を散らし、シナモンパウダーをひと振り。
「窯の温度はどう?」
「あ、薪の炎が落ちて、ちょうどいい熾火になってます!」
「よし、完璧。これを窯に入れて、じっくり焼き色がつくまで待つわよ」
深皿をピールに乗せ、窯の奥へと滑り込ませる。
「これで一つ目はよし。……でも、これだけじゃお腹いっぱいにならないわね。まだ小麦粉は残ってる?」
「あ、はい! 捏ね鉢に、さっき余った生地がまだ少し……」
「よし、じゃあ即席のちぎりパンを作るわよ。手を出して!」
「えっ!?」
「一緒に捏ねるの! パンは手早くやらないと生地がダレるわよ!」
私は腕まくりを直し、木製の捏ね鉢へと手を突っ込んだ。




