第11話 一人の時間
夜会の喧騒がようやく引き、自室の重い樫の扉が内側から閉ざされた瞬間、私は膝から崩れ落ちそうになった。
「……お疲れ様でございました、ロゼリア殿下。お召し替えの準備をいたします」
部屋付きの侍女たちが控えめに声をかけてくる。
夜会のあいだ中、ずっと張り詰めていた神経がぷつりと切れそうだったが、人前で完全に脱力するわけにもいかない。私は背筋をかろうじて伸ばしたまま、無言で頷いてみせた。
几帳面に留められた背中の真珠ボタンがひとつずつ外され、あの息の詰まるベルベットのドレスが床へと滑り落ちる。
そして、何重にも締め上げられていたコルセットの紐が解かれた瞬間。
「ふーっ!」
思わず、まぁまぁの声量の深呼吸が口から漏れた。
潰されていた肺に一気に夜の空気が流れ込み、肋骨が本来の形を取り戻していく。締め付けられていた皮膚がじんわりと熱を帯び、痒みのような痛みが走る。
まるで、分厚い氷の檻からようやく這い出たような心地だった。
「髪もお解きいたしますか?」
「ええ……もう、適当でいいわ。化粧を落としたら、今夜は下がってちょうだい。一人で休みたいの」
「かしこまりました」
侍女の手で髪留めのピンが外され、固く結い上げられていた亜麻色の髪が肩へとさらりと落ちる。
顔に塗りたくられていた白粉や紅を落とし、着せてもらったのは、飾り気のない生成りの木綿のナイトガウンだった。裾を引きずるような華美なフリルもなく、袖口もゆったりとしている。
侍女たちが一礼して部屋を出ていくと、カチリと鍵の閉まる音がして、部屋には完全な静寂が訪れた。
「……生き返った」
私は大きな寝台の端に腰を下ろし、靴下を脱ぎ捨てて素足を絨毯の上に投げ出した。
指先を丸めると、毛足の長い絨毯の柔らかい感触が肌をくすぐる。
下町の『麦穂亭』にいた頃は、板張りの床に藁草履が当たり前だった。それに比べれば、この部屋にあるものは何ひとつとして不自由のない、贅の限りを尽くした品ばかりだ。
けれど、この広すぎる天蓋付きの寝室は、どこまでいっても自分のものではない。借り物の衣装を脱ぎ捨てても、借り物の部屋に閉じ込められている感覚は消えなかった。
窓辺へ歩み寄り、分厚いベルベットのカーテンを細く開ける。
澄み切った夜空には銀色の月が浮かび、遠く王都の街並みをぼんやりと青白く照らし出していた。
東の空の低い位置、あの高い外壁の向こう側には、私が十九年間暮らした下町があるはずだった。
風向きによっては、夜になっても石窯の煤の匂いが微かに漂っていたあの街。
誰かが酒場の扉を乱暴に閉める音や、市場の片付けをする荷車の軋む音。
そんな雑然とした夜の気配すら、今はひどく遠く、恋しかった。
王宮に連れてこられてからというもの、息をつく暇すらなかった。
エドモン宰相に脅され、セドリックに歩き方から叱られ、ガレットの熱中症を心配して怒鳴り合い、昼間には他国の王子に手のタコを探られ、夜にはオリヴィアから嫌味の集中砲火を浴びた。
目の前の危機をやり過ごすことに手一杯で、立ち止まって考える余裕なんてどこにもなかったのだ。
けれど、こうして一人きりの夜を迎えると、胸の底に押し込めていた澱のような疑問が、静かに浮かび上がってくる。
(……ロゼリア王女)
私は窓枠に肘をつき、ガラスに映る自分の顔を見つめた。
月明かりに照らされたその輪郭は、十九年前に同じ胎から生まれた、もう一人の私だ。
一度も会ったことのない、双子の姉。
宮廷の誰もが、彼女のことを「悪女」と呼んだ。気位が高く、我儘で、人を人とも思わない冷酷な王女。オリヴィアもセドリックも、彼女のその性格を疑っていなかった。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
生まれつき体が弱く、病の床に伏せることが多かったという。
王宮という冷たい場所で、誰が味方で誰が敵かも分からないまま、腫れ物に触るような視線に囲まれて育った少女。
もし、その苛烈な振る舞いが、自分を守るための精一杯のトゲだったとしたら。
病気で苦しみながら、一人きりの離宮で息を引き取った時、彼女は何を思っていたのだろう。
もし、十九年前に下町へ捨てられたのが彼女で、王宮に残されたのが私だったなら――私は、どんな人間になっていただろうか。
答えの出ない問いが、夜の冷気の中へ静かに溶けていく。
そして、もう一人。
(……国王様)
実の父親である、レオンハルト国王の顔が脳裏に浮かぶ。
私を冷徹に見下ろし、
「身代わりを拒むなら下町の者を捕らえる」
と言い放った男。あの巌のような表情に、父親としての温情など欠片も見当たらなかった。
けれど、あの執務室で、彼が私を見て最初にこぼした言葉は、亡き妻――私の実の母である「セラフィナ」の名だった。
あの瞬間に見せた、わずかな狼狽と痛ましげな瞳。
冷酷な君主としての仮面の下で、あの人は何を抱えているのだろう。十九年前に自分の血を分けた娘を一人捨てさせ、残されたもう一人の娘を病で亡くし、今また、捨てたはずの娘を呼び戻して身代わりの道具として使っている。
国を守るため、王家を守るため。
その大義名分の裏で、あの大柄な背中がどれほどの孤独を背負っているのか。
……けれど、だからといって、私を脅して身代わりを強要したことまで許せるわけではない。あの人がどれほどのものを背負っていたとしても、私にとっては、突然現れて平穏な人生を奪い去った父親なのだ。
ふと、手のひらを見つめた。
昼間、リュシアン王子に指摘された、指の付け根のタコ。
毎朝暗いうちから硬い薪を割り、大鍋をかき混ぜてきた証だ。
(……親父さん。おっかさん)
数年前に流行り病で亡くなった、二人の皺だらけの笑顔が思い出される。
親父さんは無口で、パンがうまく膨らまないとすぐに不機嫌になったけれど、私が風邪を引いた夜には、一晩中手を握って熱を冷ましてくれた。
おっかさんは口うるさくて、少しでも仕入れの計算が合わないと小言を言ったけれど、私が作った失敗作のスコーンを「不格好だけど美味いよ」と笑って食べてくれた。
二人は、最初から知っていたのだ。
私が王家の禁忌である「忌子」であり、神殿に見つかれば命がない存在だということを。
それでも二人は、死ぬ間際まで一言もその秘密を口にしなかった。
親父さんが息を引き取る直前、私の手を弱々しく握り締めながら言った言葉を思い出す。
『ミア……お前は、美味いパンを焼け。胸を張って、自分の足で生きていけ』
あれは、ただの職人の遺言ではなかった。
王家の呪縛からも、忌子という血の宿命からも私を切り離し、ただ一人の人間として、自由に生きてほしいという祈りだったのだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
(ごめんね、親父さん。約束、破っちゃったよ)
私は今、粉まみれのエプロンを脱ぎ捨て、偽りの王女として豪奢な部屋に立っている。
自分の足で歩くどころか、他人の顔色を窺い、嘘に嘘を重ねる毎日だ。
けれど、後悔はしていない。
私がここで耐え抜かなければ、親父さんとおっかさんが愛したあの店も、下町のみんなの平穏も守れないのだから。
「……弱気になってる場合じゃないわね」
私は小さく頬を両手で叩いた。パチン、と乾いた音が静かな部屋に響く。
明日になれば、またセドリックの小言が飛んでくる。
ガレットは相変わらず不器用に警戒し、リュシアン王子は冷たい目で私のボロを探しに来るだろう。オリヴィアだって、今夜の屈辱を晴らそうと次の罠を仕掛けてくるに違いない。
王宮に来てから、私はずっと一人で戦っているつもりだった。
けれど、セドリックは夜会で機転を利かせて私を庇ってくれた。
ガレットは無言で前に立ち、剣の柄に手をかけて私を守ろうとしてくれた。
彼らが守ろうとしたのが、本物のロゼリア王女なのか、それとも目の前にいる私なのかは分からない。
それでも――あの瞬間、確かに私は一人ではなかった。
「……さてと」
私は窓のカーテンを静かに閉め、大きな寝台へと向かった。
ふかふかしすぎて落ち着かない羽毛布団に潜り込み、深く息を吐き出す。
騙し通さなければならない。
この国のために、下町の平穏のために、そして何より、私に命を託してくれた人たちのために。
暗闇の中で瞳を閉じると、冷たい城壁の向こうから、かすかに夜風の音が聞こえた。
明日もまた、戦いが始まる。




