第10話 侮りの視線、初めての夜会
昼間の緊迫した謁見を終え、その日の夜――王宮東翼の『硝子の大広間』にて、ヴァンディエル王国使節団を歓迎する公式夜会が幕を開けた。
天井から吊るされたクリスタル・シャンデリアが、無数の蝋燭の灯りを乱反射させ、広間を黄金色に染めている。
磨き上げられた白大理石の床には着飾った貴族たちの姿が映り込み、弦楽器とフルートが奏でる優雅な舞曲が、途切れないざわめきと溶け合っていた。
だが、その華やかな熱気の中に置かれた私の胃袋は、鉛を呑み込んだように重かった。
「殿下、扇子は胸の高さに。視線は常に相手の眉間へ。……余計な口は開かず、ただ退屈そうに顎を引いていればよろしいのです」
私のすぐ斜め後ろに寄り添うセドリックが、唇をほとんど動かさずに低い声で耳打ちしてくる。
今夜のセドリックは、正装である黒のフロックコートに身を包み、胸元に銀の懐中時計の鎖を光らせていた。眼鏡の奥の瞳は、昼間以上に鋭く周囲の貴族たちを警戒している。
「分かっていますわ」
私は羽飾りのついた扇子をわずかに広げ、口元を隠しながら小声で返した。
今夜の私のドレスは、深いワインレッドのベルベット仕立てだ。襟元には小粒のダイヤが縫い付けられ、裾には黒いレースが幾重にも重なっている。
夕方にどのドレスがいいか聞かれ、適当に選んだが、重くて肩がこる。
少し離れた大広間の壁際には、白銀の儀礼用甲冑を身にまとったガレットが、隙のない姿勢で直立していた。
白い手袋をはめているが、右手は腰の剣の柄の近くに置かれている。周囲で談笑する貴族たちを油断なく見据える彼の存在は、それだけで心強い防壁のようだった。
会場の最奥、一段高い壇上では、国王レオンハルトと、今宵の主客であるヴァンディエル王国の使節団が歓談していた。
その中心に立つリュシアン王子の姿がある。
濃紺の夜会服を着こなした彼は、貴族たちから注がれる賛辞や令嬢たちの視線を、薄い笑みで淡々と受け流していた。
昼間の謁見で、手袋越しに私の手のタコを探ってきたあの男だ。
時折、彼のアイスブルーの瞳が大広間を静かに見渡し、私と視線がぶつかりそうになるたびに、背筋が引き締まる。
(あの王子様がこっちに来ないうちに、なんとか無難にやり過ごさなきゃ……)
私がワイングラスを置いた、その時だった。
「まあ。療養からお戻りになられたと聞き及んでおりましたけれど、本当にお元気になられたのですね、ロゼリア様」
甘ったるく、だが棘を含んだ声が、背後から滑り込んできた。
周囲の貴族たちの会話が途切れ、静かな波紋が広がる。
大理石の床を鳴らしながら、一人の少女が取り巻きの令嬢たちを引き連れて歩み寄ってきた。
アルドレア王国でも指折りの大貴族、グレアム伯爵家の令嬢――オリヴィア。
鮮やかなサーモンピンクの豪奢なドレス。金色の巻き毛を高く結い上げ、胸元には大粒のエメラルドが揺れている。愛らしいアーモンド形の瞳には、隠しようもない傲慢さと、相手を値踏みするような色が宿っていた。
セドリックの背筋が、微かに強張ったのが気配でわかる。
生前のロゼリア王女とオリヴィア嬢は、社交界で有名な犬猿の仲だったと聞かされていた。
互いに我儘でプライドが高く、ことあるごとにドレスの流行や男たちの関心を巡って張り合っていたらしい。
「お久しぶりでございますわ、ロゼリア様。半年近くも離宮に籠もっておいででしたから、社交界では『もう二度とお顔を拝見できないのではないか』と、皆で心配しておりましたのよ?」
オリヴィアは扇子で唇を覆い、取り巻きたちと顔を見合わせて小さく笑った。
言葉の裏にある悪意が、はっきりと伝わってくる。
(落ち着け、ミア。ここで引いたら負けよ。ロゼリアらしく、高飛車に返すのよ……!)
私は店先で、難癖をつけてくる客を相手にしていた時の感覚を呼び起こした。
顎を少し持ち上げ、冷ややかに目を細める。
「……あら、オリヴィア。相変わらず、騒がしい声ですこと。わたくしの不在中、少しは静かになったかと思っていましたのに、ちっとも変わっていませんのね」
精一杯の嫌味を返したつもりだった。
だが、オリヴィアは怯むどころか、面白そうに目を細めた。彼女は一歩間合いを詰めると、手にした扇子をパチンと閉じた。
「口の悪さだけはお変わりないようで安心いたしましたわ。……でも、そのお立ち振る舞いは、少々お可哀想なことになっておいでですこと」
「……何が言いたいの?」
「グラスの持ち方ひとつ取っても、ですわ」
オリヴィアの笑みが深くなる。
「先ほどから拝見しておりましたけれど、殿下はグラスの脚ではなく、ボウルの底を掴むように持っておいででしたわね? まるで下町の人間が扱うような持ち方ですわ。いくら病み上がりで指先が覚束ないとはいえ、王族としての最低限の嗜みまでお忘れになられたのかしら?」
「っ……!」
喉が詰まった。
無意識のうちに、木椀やジョッキを掴む時の癖が出ていたのだ。
周囲の貴族たちが、扇子の陰でひそひそと囁き交わすのが見えた。
「それに、そのワインレッドのドレス……」
オリヴィアは私のドレスを一瞥し、わざとらしく息を吐いた。
「今宵の主客であるヴァンディエル王国の国旗の色は濃紺。我が国の宮廷では、主客を迎える際には客人の色を引き立てる淡い色を選ぶのが常識ですのに。そのような赤をお選びになるなんて、北方の客人に対する当てつけのようですわ。……療養先で、礼法の基本すら頭から抜け落ちてしまわれたのかしら?」
それはドレスを用意した人の責任では? と思ったが、この色のドレスを選んだのは私だった。誰かのせいにしたいがまさか自分とは。
格式とマナーを盾にした、立て続けの指摘。
喧嘩なら言い返せば済むが、ここは王宮の夜会だ。王族としての理屈で返さなければ、ただの失態になってしまう。
(言い返さなきゃ……! 何か、それらしい言葉で……!)
昨日セドリックから教わった知識を必死に手繰り寄せようとするが、焦れば焦るほど、頭に浮かぶのは馴染みのある言葉ばかりだった。
「そ、それは……! わたくしのこの色は、その……当てつけなどではなく……! 熟成された葡萄酒のような……そう、焼き立てのパンの耳みたいに――じゃなくて!」
「……は? パンの耳?」
オリヴィアが眉をひそめ、怪訝そうに目を丸くした。
「ち、違いますわ! 要するに、あたたかい歓迎の情熱を示しているのですわよ! グラスの持ち方だって……手のひらの熱で適温に温めるという、わたくし独自の飲み方ですことよ! 文句がおあり!?」
苦し紛れの弁明だった。
声は上ずり、語尾も怪しく、完全にしどろもどろになっていた。
オリヴィアの表情から嘲笑が消え、底知れない不審の色が広がっていく。
「……ロゼリア様? 何を訳のわからないことを仰っているの? いつもの貴女なら、私のドレスを罵り、今すぐ広間から叩き出せと怒鳴り散らしていたはずですのに……」
オリヴィアの視線が、私の顔をじっと探るように見据えた。
「先ほどから、言葉遣いもどこかぎこちないですし……本当に、いつものロゼリア様ですの……?」
背中に冷たい汗が伝う。
悪女らしく振る舞おうとして焦るあまり、不自然さを際立たせてしまっていた。
その時だった。
「失礼いたします、オリヴィア令嬢」
静かで透き通った声が、二人の間に滑り込んできた。
セドリックが一歩前へ進み出て、私の前に半身を滑り込ませるようにして立った。
彼は眼鏡の位置を直すと、寸分の隙もない優雅な一礼をオリヴィアに向けてみせた。
「ハミルトン卿……?」
オリヴィアが眉を寄せる。
「殿下の衣装の色についてご懸念のようですが、それは私の助言によるものにございます」
セドリックは淡々と、だが広間に響き渡る明瞭な声で語り始めた。
「ヴァンディエル王国の国章は『濃紺の夜空に輝く銀の獅子』。そして今宵、殿下が纏われた深紅は、古くからかの国において『獅子を照らす暁の太陽』を意味する最上級の敬意の色でございます。北方の客人を温かく迎え入れるための配慮を、単なるマナー違反と断ずるのは、少々学の浅さを露呈されることになりかねませんよ」
(そんな話、一言も聞いてないんだけど!? てかそもそも私のせいだし)
胸の中で突っ込みを入れる私の横で、オリヴィアの顔が見る見るうちに赤く染まっていった。
「なっ……!?」
「さらに、殿下のグラスの扱いについても。病み上がりの殿下の体調を考慮し、冷えすぎた飲料を避けるよう医師から指示が出ておりますゆえの配慮でございます。……それとも伯爵令嬢は、王女殿下の健康管理にまで異議をお唱えになるおつもりでしょうか?」
「そ、そんなつもりは……!」
「であれば、これ以上の言動はお控えいただきたい。殿下の御心を乱すことは、我が国の名誉を傷つけることに他なりません」
セドリックの整然とした反論に、オリヴィアが息を詰まらせた。
さらに、追い打ちをかけるように。
ガシャリ、と鎧の擦れる音が響いた。
壁際に控えていたガレットが大股で歩み寄り、腰の長剣の鞘を左手で軽く押し上げながら、威圧的な体躯でオリヴィアの取り巻きたちの前に立ち塞がった。
「ロゼリア殿下に対するこれ以上の不穏な言動は、王室に対する不敬とみなします」
ガレットの野太い声が、低く厳格に響き渡る。
「これ以上続けられるのであれば、騎士団の権限において退場を命じます」
「ひっ……!」
ガレットの放つ迫力に、取り巻きの令嬢たちが息を呑んで後ずさった。
琥珀色の瞳は、オリヴィアを真っ向から見据えて微動だにしない。
セドリックの冷静な言葉と、ガレットの無言の威圧。
二人を前にして、オリヴィアはそれ以上言い返せなくなっていた。
「……くっ……!」
オリヴィアは奥歯を噛み締め、扇子を強く握りしめた。
彼女はセドリックとガレットを睨みつけ、最後に――二人の背後にいる私へと、冷たい視線を向けた。
「……教育係と護衛騎士を盾になさるなんて、ずいぶんと大人しくなられたことですわね、ロゼリア様」
オリヴィアは声を落とし、私だけに聞こえるような低音で囁いた。
「今日のところは引き下がりますけれど……覚えていらして。貴女のその化けの皮、いつまでも剥がれずに済むと思わないことですわ」
オリヴィアはドレスの裾を翻すと、取り巻きたちを連れて足早に去っていった。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
周囲の貴族たちも、何事もなかったかのように歓談へと戻っていった。
「……ふぅ」
私はその場にへたり込みそうになる足を、必死で踏ん張った。
背中にはじっとりと汗が張り付いている。
「……助かりました、二人とも」
思わず素の口調で呟くと、セドリックが静かに振り返り、眼鏡の奥の目を細めた。
「礼には及びません。……ですが殿下、パンの耳とは一体何事ですか? あれほど無駄口は叩くなと申し上げましたのに」
「うぐっ……焦って、つい……」
「まったく……。これでは先が思いやられます」
セドリックは小さく息を吐いたが、その表情には初期のような冷たい警戒感はなく、どこか呆れたような色が混じっていた。
横に立つガレットも、剣から手を離すと、短く息を吐き出した。
「……怪我はありませんでしたか、殿下」
「ええ、大丈夫よ。ガレットも、ありがとうね」
「……私は、任務を果たしたまでです」
ガレットはぶっきらぼうに視線を逸らしたが、その立ち姿の強張りは解けていた。
二人に守られ、なんとか最初の波を乗り切った。
だが、ふと壇上を見上げると、リュシアン王子が杯を片手に、こちらの一連のやり取りをじっと見つめていた。
そのアイスブルーの瞳と、真正面から目が合った。
(あの人も、今のを見ていた……?)
宮廷という名の戦場。
オリヴィアの向けた疑念の刃と、遠くから見定めるリュシアン王子の視線。
息の抜けない綱渡りは、まだ始まったばかりだった。




