第9話 隣国からの客人
季節は巡り、王都を包む風に初夏の匂いが混じり始めていた。
庭園の木々は青々と葉を茂らせ、強い日差しが白亜の回廊に濃い影を落としている。
だが、王宮内に漂う空気は、爽やかな季節の訪れとは正反対に、張り詰めた氷のように冷え切っていた。
早朝から謁見の間には敷き直された深紅の絨毯が広げられ、回廊の至るところに儀仗兵が整列している。
いつもは静かな城内に、重役たちの慌ただしい足音と小声の指示が絶え間なく行き交っていた。
「殿下、背筋をお伸ばしください。首の角度はわずかに上、顎を引いて」
鏡の前で私のドレスのドレープを整えながら、セドリックが低く注意を促した。
今日の私の装いは、いつも以上に豪奢だった。深い群青色のシルク地に銀糸で細やかな刺繍が施されたドレスは、ため息が出るほど美しいが、その分だけ息苦しい。
「分かっていますわよ、セドリック。何度も言わなくてもよろしくて」
私は扇子の端を握りしめ、鏡の中の自分を睨みつけた。
後ろには、銀の甲冑を隙なく身にまとったガレットが、彫像のように直立不動で控えている。
あの庭園での一件以来、彼は私が少しでも無理な姿勢をとると、露骨に眉を寄せて心配そうな視線を投げてくるようになった。
もちろん、口を開けば「護衛の任務ですから」と硬い声で言い張るのだが。
「いよいよですね、殿下」
セドリックが眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、鏡越しに私の目を見据えた。
「本日ご到着されるのは、ヴァンディエル王国使節団の首席――第二王子のリュシアン殿下です」
ヴァンディエル王国。
大陸北方の広大な領土と、強大な重装騎兵団、そして豊富な鉱物資源を誇る軍事大国だ。
南方の農業国である我がアルドレア王国とは、国境の山脈を挟んで長年睨み合ってきた歴史がある。
この数年、両国の間で結ばれようとしている和平条約と、その証としての婚姻関係。それが、今まさに私の双肩にのしかかっている重圧の正体だった。
「リュシアン殿下は、国王陛下の次男でありながら、若くして北境守備軍の指揮を執る実力者です。冷静沈着で、宮廷の権力闘争にも決して隙を見せない怜悧な方だと聞き及んでおります」
セドリックの声には、隠しきれない緊張が混じっていた。
「我が国にとっても、この縁談を破談にすることは絶対に許されません。もし使節団に不興を買い、交渉が決裂すれば、北の軍靴が再び国境を越える口実を与えかねないのです」
「……ええ、重々承知していますわ」
私は扇子で口元を覆い、小さく息を吐いた。
パン屋で小麦の粉にまみれて暮らしていた頃には、想像もつかなかった世界の重みだ。
私のささやかな演技の成否に、下町の平穏どころか、国全体の存亡がかかっている。
失敗すれば、トマスさんたち下町の人々の暮らしもろとも、すべてが戦火に巻き込まれるかもしれないのだ。
「扉が開きます」
ガレットが低く告げた。
謁見の間の重厚な樫の扉が、左右の衛兵によって静かに押し開かれた。
玉座には国王レオンハルトが威厳に満ちた姿で腰を下ろし、その右脇にはエドモン宰相が控えている。私は玉座から一段下がった右手の席に腰掛け、両手を膝の上で重ねた。
ファンファーレの甲高いトランペットの音が、高いアーチ天井に反響する。
「ヴァンディエル王国第二王子、リュシアン・フォン・ヴァンディエル殿下、ご入場!」
儀典長の朗々とした声とともに、開かれた大扉の向こうから、一団の足音が近づいてきた。
響き渡る規則正しい軍靴の音。先頭を歩いてくる男の姿を捉えた瞬間、謁見の間にいた貴族たちの間から、微かな息を呑む気配が広がった。
そこにいたのは、信じがたいほど整った美貌を持つ青年だった。
歳は十八、あるいは十九といったところか。
光を吸い込むようなプラチナブロンドの髪を短く刈り込み、彫刻のように無駄のない顔立ち。薄い唇は引き結ばれ、その瞳は氷河の底を思わせる透き通ったアイスブルーだった。
身にまとっているのは、北国の深い夜を思わせる濃紺の軍服。胸元には無駄な装飾がなく、ただ一つ、ヴァンディエル王家の銀の獅子章だけが鈍い輝きを放っている。
無駄な動作が何ひとつない。
歩き方ひとつ取っても、隣に控えるガレットとはまるで違っていた。無駄な力みが削ぎ落とされ、足音すら最小限に抑えられている。
大広間の中央まで進み出ると、リュシアンは片手を胸に当てて流麗に一礼した。
「アルドレア王国国王、レオンハルト陛下。ヴァンディエル王国使節団を代表し、両国の恒久平和の誓いを胸に、拝謁いたします」
低く、耳の奥に染み渡るような声だった。
余計な感情を削ぎ落とした響きでありながら、相手を呑み込むような静かな威圧感がある。
「よくぞ参られた、リュシアン殿下。長旅の疲れもあろう。我が国をあげて、殿下を歓迎いたす」
国王が重々しく応じ、両国の儀礼的な挨拶が交わされた。
そして、儀式が一段落したところで、国王の視線が私へと向けられた。
「紹介しよう。我が娘、ロゼリアだ。……体調を崩し長く療養していたが、殿下をお迎えするため、こうして宮廷に戻ってきた」
心臓が跳ね上がった。
リュシアンの青い瞳が、ゆっくりとこちらへ向けられる。
ただ見つめられているだけなのに、喉の奥がひどく乾いた。
何かを探られている。そんな感覚だけが、はっきりと伝わってくる。
リュシアンは静かな足取りで私へと歩み寄ってきた。
私の前、わずか数歩の距離で立ち止まる。至近距離で見ると、その肌の白さと整いすぎた目鼻立ちが、非現実的なほど際立っていた。
「お初にお目にかかります、ロゼリア殿下」
リュシアンは片膝をつき、私の右手をそっと取った。
手袋越しに触れた彼の指先は冷たく、そして硬い感触があった。彼は私の手の甲に、形式通りの口づけを落とす。
(ここで……ロゼリアらしく、高慢に振る舞わなきゃ……!)
私は必死で喉の引きつりを抑え、事前にエドモンから教え込まれていた「悪女の態度」を引っ張り出した。
顎をわずかに上げ、冷ややかに見下ろすように目を細める。
「……ええ。遠路はるばる、ご苦労なことですわね、リュシアン殿下。北方の田舎とは違って、我が国の気候はお気に召しましたかしら?」
相手の国を「田舎」と呼び、見下すような嫌味。
生前のロゼリア王女が、他国の使節に対してよく使っていたという傲慢な台詞だ。
横に控えていたセドリックが、わずかに息を呑むのが分かった。
だが、リュシアンは眉一つ動かさなかった。
彼は立ち上がり、薄い笑みを口元に浮かべたまま、私の顔を見つめ返してきた。
「温和で豊かな土地だと感じております。……ですが、それ以上に驚きましたよ」
「……何がかしら?」
「これまでの噂から想像していた姿とは、ずいぶん印象が異なるようだ。病の床にあった影響でしょうか。瞳の奥に、かつて伝え聞いたような苛烈さが見受けられない」
ぞくり、と背筋に冷たい汗が伝った。
「そ、それは……療養生活が長かったせいですわ。静かな離宮で過ごすうちに、無駄な感情を外に出さなくなっただけのことです」
「なるほど。静養が殿下の気質を丸くした、と」
リュシアンは頷いてみせた。
だが、その視線が、私の目元から口元へ、そして強張った肩へと移っていく。彼が私の言葉を額面通りに受け取っていないことは明白だった。
「ところで、ロゼリア殿下」
リュシアンが一歩、間合いを詰めた。
彼の纏う冷たい香水の匂いが、ふわりと鼻をかすめる。
「先ほど手を預からせていただいた際、指の付け根に少々、気になる硬さを感じましたが……毎日、何か硬い道具でも握っていらしたのですか?」
頭の中で、警報がけたたましく鳴り響いた。
(手袋の上から触っただけで、感触を探っていたの……!?)
手袋をしていても、指の付け根の厚みや皮膚の硬さから、道具を握り込んできた形跡を推し量ったのだ。
「……そ、それは……」
声が裏返りそうになるのを、私は必死で抑え込んだ。
「……木彫りですわ。離宮で暇を持て余しておりましたので、彫刻刀を握って芸術に励んでおりましたの」
「木彫り、ですか」
リュシアンは薄い唇の端をわずかに持ち上げた。
「王族の姫君の趣味としては、ずいぶんと実用的で力強いものをお選びになられたのですね。……いずれ、殿下のその類まれなる作品を拝見できる機会を楽しみにしております」
「……機会があれば、ですわね」
「ええ。これからの滞在期間、殿下と語り合える時間を心待ちにしておりますよ」
リュシアンは再び優雅に一礼すると、音もなく元の位置へと下がっていった。
その背中を見送りながら、私はドレスの下で握りしめた拳を震わせていた。
背中にはじっとりと汗が張り付き、息をするのも苦しい。
セドリックのように戸惑っているわけでもない。
ガレットのように警戒しているわけでもない。
この男は、最初から私の正体を探っている。
少しでも気を抜けば――暴かれる。
北国からの怜悧な客人を前に、私の偽りの王宮生活は、さらに一段と深い泥沼へと足を踏み入れていた。




