第8話 剣士の誓い
すでに庭園を歩き始めてから一時間近くが経過している。
ガレットの首筋を汗が流れ落ち、青いマントの襟元を濡らしていた。
彼の呼吸は浅くなり、喉仏が渇きを訴えるように上下に動いている。
それでも、彼は背筋を真っ直ぐに伸ばし、表情ひとつ変えずに私の後ろを歩き続けていた。
(……この人、倒れるんじゃないの?)
記憶が脳裏をよぎる。
真夏の『麦穂亭』の厨房。石窯の前の暑さはすさまじく、新入りの小僧たちが水分も取らずに無理をして、倒れてしまう姿を何度も見てきた。
暑さでやられるのは本当に危ない。意地を張っている奴ほど、前触れもなく急に意識を失うのだ。
(いけない、休ませなきゃ。でも……王女として、どう言えばいいの?)
ロゼリア王女が「暑いでしょう、休みなさい」なんて優しく声をかけるはずがない。
そんなことを言えば、またセドリックの時みたいに不審がられるか、あるいはエドモン宰相に「悪女らしくない」と叱責される。
(そうだ……あいつを追い払うような横暴な命令を出せばいいんだ)
私は足を止め、くるりと勢いよく振り返った。
ガレットは即座に足を止め、腰の剣に手をかけたまま、硬い表情で頭を下げる。
「……いかがなさいましたか、殿下」
私は扇子をバッと広げ、ガレットの鼻先を指差した。
できる限り尊大に、意地悪そうに、眉を吊り上げて言い放つ。
「鬱陶しいわね! さっきから後ろでガチャガチャと音を立てて、耳障り極まりないわ! わたくしの優雅な散策の邪魔よ!」
「……申し訳ございません。足音には配慮いたします」
ガレットは感情を抑えた声で返した。
「足音だけの問題じゃないわ! あなたのその暑苦しい鉄屑みたいな姿を見ているだけで、こちらの気分が悪くなるのよ! 今すぐわたくしの視界から消えなさい!」
これで「下がれ」と言えば、彼は涼しい詰め所に戻れるはず。
「……それは叶いません」
ガレットは顔を上げ、琥珀色の瞳で私を真っ直ぐに見据えた。
「私は近衛騎士として、殿下の警護を命じられております。どれほど疎まれようと、護衛対象から視界を外すことは軍規に反します。お側を離れるわけにはまいりません」
頑固者め。
真面目すぎるにも程がある。このままでは本当に暑さでぶっ倒れてしまう。
ガレットの顔色は、汗のせいで赤くなっているというより、むしろ血の気が引いて白っぽくなり始めていた。
足元がわずかに揺れているのを、私は見逃さなかった。
(ああもう……意地を張るんじゃないわよ、この筋肉馬鹿!)
私の性分が頭をもたげた。
理屈も演技も、全部吹き飛んだ。
私は日傘を畳むと、庭園の隅にある大理石造りの東屋をビシッと指差した。蔦が絡まり、深い日陰になっている涼しげな場所だ。
「いいから、あそこの日陰に行きなさい!」
「……は?」
ガレットの表情が、初めてぽかんと抜けた。
「聞こえなかったの!? あの日陰のベンチに座って、その重ったるい籠手を外して、風に当たって休んでいなさいって言ってるのよ!」
「な……殿下、何を」
「命令よ! 王女の命令! わたくしの命令が聞けないっていうの!? ついでに、そこの冷たい水をたっぷり飲んで、息を整えなさい! 三十回深呼吸するまで、そこから一歩も動くんじゃないわよ!」
私はまくし立てながら、東屋のテーブルの上に置かれていた水差しに駆け寄った。
冷たい井戸水にレモンが浮かべてある、休憩用の水だ。
それをグラスに並々と注ぎ、大股でガレットに詰め寄ると、その胸元へ突き出した。
「ほら! 飲みなさい!」
「ちょっ……殿下!? 何を」
手を出そうとしないガレットに苛立ち、私は反射的に片手で彼の顎をクイッと持ち上げ、グラスの縁を強引に唇へ押し当てた。
熱を出して寝込んだ頑固な親父さんに薬湯を飲ませていた時の手口そのものだった。
「んぐっ……ごくっ、ごくっ?」
冷たいレモン水が口の中に流れ込み、ガレットは反射的にそれを飲み込んだ。
空になったグラスを引き戻し、私は肩で息をしながら、呆気にとられるガレットを睨みつけた。
「……ふん! 喉が渇いて干からびた顔で立たれるなんて、わたくしの美意識が許さないのよ! みっともないったらありゃしないわ! さあ、日陰に入りなさい!」
「……」
沈黙が落ちた。
噴水の水音だけが、涼やかに響いている。
ガレットは唇を水で濡らしたまま、両手を中途半端に上げた姿勢で固まっていた。
日焼けした彼の顔が、猛烈な勢いで耳の先まで赤く染まっていく。
「……で……」
「何よ、まだ文句があるの?」
「殿下自ら……騎士の顎を掴んで水を飲ませるなど……そのようなこと……前代未聞です!」
ガレットは絞り出すような声で言うと、胸当てを押さえて数歩後ずさった。
その目は見開かれ、驚きと気恥ずかしさと混乱が、全部まとめて顔に出ていた。
「無礼者め! わたくしの施しをありがたく受け取りなさいな! ほら、座る!」
「座りません! 私は護衛です! 日陰で休むなど、騎士の風上にも置けぬ恥辱です!」
「恥辱でも何でもいいから座りなさい! あなたがここで倒れたら、重たい鎧を引きずるわたくしの身にもなりなさいよ! 腰が折れるわ!」
「引きずらなくて結構です! というか、なぜ殿下が私を引きずる前提なのですか!?」
王女と近衛騎士が、庭園の真ん中で大声を張り上げて言い争う。
遠巻きに見ていた庭師たちが、腰を抜かして植え込みの陰に隠れるのが見えた。
ガレットは肩を怒らせ、荒い息を吐きながら私を見つめていたが、やがて、ふと、何かに気づいたように眉をひそめた。
「……殿下」
「な、何よ」
「……貴女は、私が暑さにやられて倒れそうだったのを、心配してくださったのですか?」
ぎくり、と胸が跳ねた。
直球すぎる問いかけに、冷や汗が噴き出す。
「な、何を勘違いしているのよ! わたくしが、あなたのような鉄屑筋肉を心配するわけないでしょう!? 目障りだからどかせようとしただけよ!」
「では、なぜ水を……あらかじめ日陰の場所まで指定して」
「それは……そう! わたくしの類まれなる慈悲深さが、あまりの暑苦しさに耐えかねて爆発しただけですわ! 感謝こそすれ、恩着せがましい口を利くんじゃありません!」
私はバッと顔を背け、日傘を開いて頭上に掲げた。
顔が熱い。つい、いつもの調子で世話を焼いてしまったことが恥ずかしかった。
ガレットはしばらくの間、無言で私を見つめていた。
その目には、最初に出会った時の冷たい警戒心はもうなかった。
代わりにあったのは、どう扱っていいのかわからない困惑だった。
「……失礼いたします」
ガレットは短く呟くと、ぎこちない足取りで東屋へと向かった。
そして、ベンチには座らなかったものの、柱の陰になる涼しい場所に立ち、腰の長剣を握り直した。
吹き抜ける風が、濡れた赤銅色の前髪を揺らしている。
「……三十回の深呼吸、数えさせていただきます」
「……好きになさい」
私は背を向けたまま、小さく息を吐き出した。
日陰に入ったガレットの呼吸が、次第に落ち着いたリズムを取り戻していくのが気配でわかる。
彼の全身から立ち上っていた刺々しい空気は、いつの間にかすっかり消え失せていた。
(……ふぅ。なんとか倒れずに済んだみたいね)
悪女の演技としては、またしても完全な落第点だったに違いない。
だが、日陰に立つ不器用な騎士の横顔を見ながら、私は胸の奥で、ほんの少しだけ肩の荷が下りるのを感じていた。
王宮の分厚い城壁に囲まれた息苦しい世界の中で。
少しだけ、風が通ったような気がした。




