第7話 熱血な影
豪奢な王宮の朝は、ひどい筋肉痛とともにやってきた。
前日のセドリックによる歩行訓練と、慣れないヒールでの反復横跳びじみた立ち回りのせいで、ふくらはぎと背筋が痛む。
小麦粉の袋を三つ担いだ翌朝ですら、ここまで酷い張りを感じたことはない。
だが、ベッドの中で丸くなっている暇はなかった。
朝食の銀食器が下げられるとすぐ、ノックの音とともにエドモン宰相が姿を現したからだ。
「おはようございます、殿下。昨日はセドリックから報告を受けましたぞ。……ずいぶんと精力的に訓練に励まれたようですね」
エドモンは灰色の瞳を細め、皮肉とも安堵ともつかない笑みを口元に浮かべた。
「セドリックが酷く狼狽した様子で私の執務室へ駆け込んできましてね。『王女殿下がお茶を自ら淹れ、侍女の落とした皿を空中で掴み取られた』と。……少しは悪女らしく振る舞うよう念を押したはずですが」
「うぐっ……あれは、その、身体が勝手に動いてしまって……」
私が言い淀むと、エドモンは静かに首を振った。
「まあよい。病み上がりの奇行として、ひとまずは誤魔化しておきました。だが、今日からはさらに気を引き締めていただかねばなりません。本日より、殿下に専任の近衛護衛騎士をつけます」
「護衛騎士?」
「左様です。他国の王子をお迎えするにあたり、王女の身辺警護を強化するのは当然の措置。それに、貴女の不審な行動を外の目に晒さぬための監視役でもあります。……入れ」
エドモンの合図とともに、部屋の扉が開かれた。
部屋に入ってきたのは、一人の若い騎士だった。
歳は私と同じくらいだろうか。二十歳そこそこ。
燃えるような赤銅色の短い髪に、琥珀色の鋭い瞳。
日焼けした精悍な顔立ちには、若武者特有の張り詰めた空気が漂っている。
身に纏っているのは、白銀に磨き上げられた重厚なプレートアーマー。
胸当てには王家の紋章が刻まれ、肩からは深い青色のマントが垂れ下がっている。腰に使い込まれた長剣を佩き、その立ち姿には隙がひとつもなかった。
騎士はエドモンの横を通り過ぎると、私の前で足を止め、右拳を左胸に当てて膝を突いた。
ガシャン、と鎧が床を打つ重い音が響く。
「近衛騎士団第一部隊所属、ガレット・ベルンハルト。本日より、ロゼリア殿下の専任護衛の任を仰せつかりました。我が剣と命に代えて、殿下の御身をお守りいたします」
声は驚くほど野太く、張りのある低音だった。
一言一句に揺らぎがなく、武骨な誠実さが滲み出ている。
だが、膝を突き、頭を垂れる彼の全身からは、隠しようのない強烈な警戒心が立ち上っていた。
伏せられた視線。固く引き結ばれた唇。
忠誠の誓いを口にしながらも、その拳は白くなるほど強く握りしめられている。
まるで、いつ暴れ出すかわからない猛獣の前に、無理やり立たされた兵士のような硬直だった。
(……この人、私を……ううん、以前のロゼリア王女を、ものすごく警戒してる)
無理もない。
生前のロゼリア王女は、護衛の騎士を足蹴にし、気に入らないことがあれば炎天下で何時間も直立不動を命じるような暴君だったと聞いている。
近衛騎士団の中で最も貧乏くじと言われる「悪女の護衛」に任命されたのだ。熱血で真っ直ぐそうなこの青年が、内心で面白くないと思っていても不思議はない。
「……面を上げよ、ガレット」
エドモンの促しに、ガレットはゆっくりと顔を上げた。
琥珀色の瞳が、私の翡翠色の目を真正面から見据えてくる。
そこには、セドリックが見せたような戸惑いはなかった。浮かんでいたのは、敵意にも似た張り詰めた警戒心と、騎士としての義務感だけだった。
(ここで舐められたら、エドモン宰相に叱られる……!)
私は胸の前で腕を組み、顎をツンと持ち上げて、精一杯の見下し顔を作った。
「ふん……。近衛騎士団も、ずいぶんと若い青二才を寄越したものね。わたくしの護衛が務まるのかしら? 足手まといになるくらいなら、今すぐ訓練場へ帰って素振りでもしていなさいな」
パン屋で、威勢のいい若い徒弟たちに、
「邪魔だからどきな!」
と啖呵を切っていた時の要領だ。
ガレットの眉が一瞬、ピクリと跳ね上がった。
だが、彼は感情を押し殺すように奥歯を噛み締めると、低く地を這うような声で答えた。
「……滅相もございません。我が腕前、殿下の御身に万が一のことがあれば、命を賭してお見せいたします」
ぴくりとも動じない。
こちらの煽りなど織り込み済みとばかりに、鉄壁の態度を崩さなかった。
「では殿下、これより午後の庭園散策のお時間です。ガレットを伴って、外の空気を吸ってまいりなさい」
エドモンがそう告げると、ガレットは無言で立ち上がり、私の斜め後ろ、二歩下がった位置へと音もなく滑り込んだ。
背中にぴたりと張り付くような緊張感が、ひりひりと伝わってくる。
王宮の南側に広がる中央庭園は、春の花々が咲き乱れる見事な景観だった。
手入れの行き届いた白大理石の歩道、幾重にも重なるバラのアーチ、中央で涼やかな水音を立てる噴水。
だが、その景色をのんびり眺める余裕など、私には欠片もなかった。
(……息が詰まる)
私が一歩進むたびに、後ろから規則正しい足音がついてくる。
振り返らなくてもわかる。ガレットは右手を腰の剣の柄に添えたまま、周囲に視線を配りつつ、私の一挙手一投足を監視するように追尾していた。
春の陽気とはいえ、今日の午後はずいぶんと気温が上がっていた。
雲ひとつない青空から降り注ぐ日差しは、初夏を思わせるほど強い。
私は薄手の絹ドレスを着て日傘を差しているからまだいいが、問題は後ろを歩く男だった。
ふと、背後から微かに呼吸の乱れが聞こえた。
チラリと横目で盗み見る。
ガレットの額には、びっしりと大粒の汗が浮かんでいた。
彼が身に纏っているのは、儀礼用ではなく実戦用の分厚い鋼鉄の甲冑だ。
直射日光を浴びた鉄板は、触れば熱いくらいになっているはずだった。その下には分厚い革の鎧下を着込んでいるのだから、中は蒸し風呂のような状態に違いない。




