第6話 第一の失敗
彼が席に戻り、椅子の背もたれに体を預けた瞬間、その端正な顔に隠しきれない疲労が滲み出たのを私は見逃さなかった。
額のあたりを指先で強く揉み、薄い唇をきゅっと引き結んでいる。
朝からずっと、気難しく悪名高い王女の機嫌を損ねないよう、神経を極限まで張り詰めて指導していたのだ。疲れが出ないはずがない。
(……あ)
その疲れた姿を見た瞬間、私の胸の奥で、下町のパン屋の染み付いた本能が勝手に作動してしまった。
店で疲れ切った顔の常連客が来たら、熱いスープを出してやる。
仕込みでヘトヘトになった親父さんには、淹れたてのお茶を差し出す。
それが、十九年間私の体に刻み込まれた、息をするのと同じ反射運動だった。
気がつけば、私の体はドレスの重さも忘れ、流れるような手際で動いていた。
卓上の銀ポットの蓋を開け、湯気の温度を指先で確かめる。
冷めかけていたポットを脇に除け、給湯用の温め台から沸き立ての熱湯を素早く注ぎ直す。
茶葉の缶からスプーン二杯分の茶葉を取り、ポットの中で均等に蒸らす。砂時計など使わずとも、茶葉が開ききる時間は体内時計が完璧に把握していた。
サッとカップを温め湯で洗い、温まった白磁のカップへ、黄金色に輝く紅茶を高い位置から滑らかに注ぎ落とす。
ふわりと、ベルガモットの華やかな香りが部屋いっぱいに広がった。
「どうぞ! 熱いうちに飲んでね、頭の疲れにはこれが一番効くから」
トスン、と心地よい音を立てて、セドリックの目の前に完璧なお茶を差し出した。
「……」
静寂。
部屋の中の空気が、完全に氷結した。
差し出された湯気立つカップを見つめるセドリック。
そして、前屈みになって満面の笑みを浮かべていた、私。
「……」
「……」
(あ)
背筋を、真冬の吹雪のような冷気が突き抜けた。
王女が。
身分ある高貴な王女が。
ただの文官である教育係に向かって。
自らの手でお茶を淹れ、給仕したのだ。
セドリックは椅子から飛び起きるようにして立ち上がり、顔を真っ青にして後ずさった。
その瞳は、もはや困惑を通り越して、純粋な恐怖に染まっていた。
「で、殿下……!? な、何を……何をなさっているのですか!?」
「え、あ、いや……その……」
私の脳内はパニックで大爆発を起こしていた。
(やばいやばいやばい! 何やってんの私! お茶淹れてどうすんの!? 悪女は人にお茶なんて淹れない!)
セドリックはガタガタと震えながら、テーブルの上の湯気立つカップを凝視した。
「殿下自ら、私のような一文官にお茶を……? ま、まさか……毒、ですか……? 私の指導が生意気だとお怒りになり、処分するために毒を!?」
「毒なんて入れてないわよ!? 上等な茶葉よ!」
思わず素の口調で叫んでしまった。
「ひっ! では、何の意図があってこのような?」
「そ、それは。そう! お前の淹れ方がなってないから、手本を見せてやったんですわ! 感謝なさい!」
「手本!? 王女殿下が、給仕の手本を……!?」
セドリックの混乱は頂点に達していた。
眼鏡が鼻先までずり落ち、普段の理知的な面影は完全に崩壊している。
その時、ガチャリと音を立てて広間の扉が開いた。
昼食のトレイを持った若い侍女が、おずおずと入ってきたのだ。
「し、失礼いたします……。ロゼリア殿下、セドリック様、昼食をお持ちいたし」
侍女は、部屋の中に充満する異様な空気と、青ざめて立ち尽くすセドリック、そして仁王立ちしている私の姿を見て、息を呑んだ。
その瞬間、彼女の手元が激しく震え、銀のトレイに載っていた高価なガラスのスープ皿が滑り落ちそうになった。
「きゃっ!?」
皿が床に落ちて粉々に割れる――誰もがそう思った瞬間。
私の体が、思考よりも先に動いていた。
下町で、酔っ払いが倒したジョッキや、子供が蹴っ飛ばしたパン籠を空中でキャッチし続けてきた反射神経。
ドレスの重さなど完全に無視し、私は大理石の床を滑るように踏み込むと、右手を素早く伸ばした。
パシッ!
床からわずかのところで、落下していたスープ皿の底を完璧に掌で受け止める。スープの一滴すら床にこぼれていない。
「ふぅ……セーフ! 熱いから気をつけてね、怪我はなかった?」
私は皿をトレイに戻し、安心したように侍女の顔を見て、満面の笑みでお辞儀をした。
「持ってきてくれてありがとう!」
「……」
侍女の目が、限界まで見開かれた。
彼女の視線が、私の笑顔と、受け止められた皿と、私の丁寧なお辞儀の間を激しく往復する。
次の瞬間。
「ひ、ひぃぃぃぃっ!!」
侍女は喉が裂けんばかりの悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。
「申し訳ございません! 申し訳ございませんロゼリア殿下! どうか、どうか命だけはお助けください! 首を撥ねないでくださいぃぃ!」
「ええっ!? なんで!?」
お礼を言っただけなのに、なぜか命乞いをされている。
「殿下が……殿下が下賤な私のような者に微笑みかけ、礼を言うなんて……! これは死ぬ前の儀式ですね!? 最も残酷な方法で処刑するための前振りに違いありませんわぁぁぁ!」
「違う違う! そんな怖いこと考えてないから!」
取り乱す侍女と、おろおろ形振り構わず手を振る私。
そして。
背後で、冷ややかな空気がスッと流れた。
恐る恐る振り返ると、そこには眼鏡の位置を戻し、凍りついたような目で私を凝視しているセドリックの姿があった。
「……セ、セドリック……?」
セドリックは無言のまま、ゆっくりと私に近づいてきた。
その瞳の奥には、もはや警戒や恐怖ではなく、底知れない巨大な「謎」を前にした学者のような、恐ろしいほどの探求光が宿っていた。
「……殿下」
「な、何かしら?」
「今の身のこなし……あのようなアクロバティックな体術を、いつの間に習得されたのですか?」
「え、あ、それは……療養先で、木彫りの丸太を避ける訓練を」
「そして」
セドリックは私の言葉を遮り、さらに一歩間合いを詰めた。身長差のある彼の影が、私を覆う。
「使用人に頭を下げ、礼を言い、私には完璧な手順でお茶を淹れてくださる。……以前の殿下であれば、皿を落とした侍女はその場で地下牢行き、私のお茶など床にぶち撒けておいででした」
「うぐっ……」
「殿下。貴女は本当に……あのロゼリア殿下なのですか?」
静かな、だが逃げ場のない問いが、大理石の広間に響き渡った。
心臓が早鐘のように跳ねる。
バレたのか? 初日で? たった半日で、下町のパン屋の素性が露見してしまったのか?
絶体絶命の沈黙の中、私は最後のハッタリを振り絞った。
「な、何を馬鹿なことを言っているのですか、セドリック!」
私は胸を反らし、わざとらしく鼻を鳴らした。
「わたくしは……そう! 改心したのですわ! 死の淵から蘇り、慈愛の心に目覚めたのです! これからは『聖女のように、宮廷に君臨して差し上げますことよ! オホホホホホ!」
乾いた笑い声が、広間に虚しく反響した。
セドリックはしばらくの間、首を四十五度ほど傾げ、まじまじと私の顔を見つめていた。
その表情は、
「何を言っているんだこの人は」
という、完全な困惑に支配されていた。
「……左様でございますか。とりあえず、午後の講義の前に、頭を冷やされることをお勧めいたします」
セドリックは深々と一礼すると、倒れていた侍女を立たせ、逃げるように広間を出て行った。
バタン、と重い扉が閉ざされる。
一人残された私は、その場にへなへなと崩れ落ちた。
大理石の床の冷たさが、ドレス越しに伝わってくる。
「……初日から、大失敗じゃないのよぉぉぉ」
頭を抱えて唸る私の声は、誰にも届かず、豪奢な天井へと吸い込まれて消えた。
悪女への道は、想像を絶するほど遠く、険しかった。




