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第5話 淑女教育

 翌朝、私の身体は悲鳴とともに目覚めた。


 天蓋付きの豪奢なベッドは、羽毛が詰め込まれすぎていて体が沈み込み、腰の骨がどこかへ行ってしまいそうだった。下町の硬い藁布団のほうがよほど疲れが取れる。


 だが、伸びをする間もなく、扉が静かに開いて四人の侍女たちが無言で部屋へ入ってきた。


「おはようございます、ロゼリア殿下。お召し替えのお手伝いに上がりました」


 先頭に立つ年配の侍女が、床に視線を落としたまま蚊の鳴くような声で告げる。


 全員、顔色が紙のように白い。私の顔を直視することすら恐れているのが、震える指先からありありと伝わってきた。

 かつてのロゼリア王女が、どれほど彼女たちを理不尽に怒鳴り散らしていたかが偲ばれる。


「あ、おはようござ……じゃなくて、ええ、始めなさい」


 慌てて喉の奥で言葉を押し殺し、顎を少し上げて傲慢そうに見下ろす。

 これだけでも首の筋がつりそうだった。


 だが、本当の地獄はそこからだ。


 下着姿になった私の背後に侍女二人が回り込むと、革と鯨骨で補強された分厚いコルセットを巻きつけ、左右から渾身の力で紐を締め上げた。


「ぐっ……!?」


 肋骨がミシミシと音を立てて圧縮され、肺の中の空気が一気に口から押し出される。


(死ぬ! 息ができない! 小麦粉の袋を百キロ担いだ時より苦しい!)


 思わず「ちょっとタンマ!」と叫びそうになったが、鏡の中に映る侍女たちの顔は、

「これで文句を言われたら何をされるかわからない」

という必死の形相だった。


私は歯を食いしばり、必死で胃袋を引っ込めて耐えた。


 さらにその上から、幾重ものパニエと、金糸の刺繍がびっしりと施された青藍色の重厚な絹ドレスを着せられる。


 首元にはレースの襟が立ち上がり、喉仏を圧迫する。

 手首には真珠のカフス。


 腰回りには金属の飾りが揺れ、総重量は十五キロを超えているのではないかと思えるほど重かった。


 靴は細く尖った踵の絹のパンプスだ。平らな石畳の上ですら、油を引いた鉄板の上に立っているかのように足首がふらつく。


「……準備が整いました、殿下。教育係のセドリック様が、階下の小広間でお待ちです」


「……ええ、参りましょう」


 息も絶え絶えになりながら、私は裾を引きずらないように注意深く一歩を踏み出した。




 案内されたのは、陽光が差し込む白大理石の小広間。

 壁際には豪奢な彫刻が施された円卓と椅子が置かれ、中央には広い空間が確保されている。


 そこに、一人の青年が背筋を正して立っていた。


 歳は二十代前半といったところだろうか。


 仕立ての良い濃紺の上着に白いクラバット(首布)を端正に結び、細縁の眼鏡をかけている。

 柔らかな金茶色の髪を丁寧に撫で付け、涼しげな目元と理知的な鼻筋が、いかにも王宮の優秀な官吏という雰囲気を漂わせていた。


 彼が、エドモン宰相の言っていた教育係、セドリックか。


 私の姿を認めるなり、セドリックは胸に手を当て、完璧な角度で頭を下げた。


「おはようございます、ロゼリア殿下。本日より、殿下の王女教育および復帰のための作法指導を仰せつかりました、文官のセドリック・ハミルトンと申します」


 声は驚くほど穏やかで、澄んでいた。


 だが、頭を上げた彼の琥珀色の瞳の奥には、氷のような警戒心が微かに宿っている。


 彼は知っているのだ。目の前にいる王女が、かつてどれほど多くの家庭教師を罵倒し、教材を破り捨て、泣いて辞職に追い込んできたかを。


(よし……ここは悪女らしく、初手から威圧しておかないと)


 私はエドモン宰相から昨晩叩き込まれた「悪の王女」の心得を思い出した。

 相手を値踏みするように薄笑いを浮かべ、鼻を鳴らし、見下すような声で言い放つ。


「ふん……。宰相がどんな教育係を寄越すかと思えば、ずいぶんと若い青二才ですこと。私の時間を無駄にしたら、ただではおきませんわよ」


 精一杯のドスの利いた高飛車な声を出したつもりだった。

 

 下町の酔っ払いが、

「おい店主、酒が薄いぞ!」

と絡んできた時に、

「文句あんなら他所へ行きな!」

と怒鳴り返す時の気迫を、貴族風に変換したのだ。


 だが、セドリックは眼鏡の位置を人差し指で直すと、眉一つ動かさずに淡々と返した。


「ご心配には及びません、殿下。私は陛下の信任を受けてこの任に就いております。殿下がどれほどお怒りになろうと、途中で投げ出すことはいたしません。……それよりも、療養から戻られたばかりでお疲れとは存じますが、リュシアン殿下をお迎えするまでの時間は限られております。早速、基礎から確認させていただきます」


 まったく動じていない。


それどころか、私の悪態など「いつもの発作」程度に受け流されている。さすがは王宮で生き残ってきたエリートだ。


「まずは、歩行と姿勢の確認です。殿下、あちらの壁際まで、背筋を伸ばして歩いてみてください」


「歩くだけ? そんなの朝飯前……じゃなくて、造作もないことですわ」


 私はドレスの裾を軽く持ち上げ、大理石の床を踏み出した。


 下町で十九年間、毎日小麦粉の袋を運び、重い水桶を担ぎ、市場の混雑を縫うように駆け回ってきた私の足腰を舐めてもらっては困る。体幹の強さには自信がある。


 スタスタスタスタッ。


 一気に壁際まで到達し、くるりと振り返って見せた。

 どうだ、と言わんばかりに胸を張る。


「……」


 セドリックは、開いた口が塞がらないといった様子で固まっていた。

 眼鏡の奥の琥珀色の目が、点になっている。


「……殿下」


「何かしら? 早くて正確でしたでしょう」


「早すぎます。そして、足音が勇ましすぎます」


 セドリックは額に手を当て、深くため息をついた。


「王族の歩行とは、風に揺れる水仙のように優雅でなければなりません。今のは……まるで、朝の市場へ急ぐ荷運び人の大股歩きです。床を蹴る音が『ドカドカ』と響いておりました」


「うっ……」


 的確すぎる指摘に、喉が詰まる。


「よろしいですか、殿下。歩幅は靴一足分。足先を外に向けず、頭の天辺から糸で吊り上げられているような感覚を保ち、裾を揺らさず滑るように進むのです。……これを頭に乗せて練習しましょう」


 セドリックが机の上から取り出したのは、分厚い革表紙の歴史書だった。重さは二キロ近くありそうだ。


それを私の頭頂部に器用に乗せる。


「一歩ごとに本が揺れぬよう、顎を引き、視線を三歩先に落としてください。それでは、参りますよ」


「……わ、わたくしに指図するなんて、いい度胸ですわね」


 悪女のセリフを付け足しつつ、私は慎重に足を前に出した。


 す……す……。


 頭の上の本がズシリと重い。踵の高いパンプスがグラグラと揺れる。


 足首に異様な緊張が走り、ふくらはぎの筋肉が引きつりそうになる。下町でパンを焼いている時は、こんな無駄な筋肉の使い方をしたことがない。


「背中が丸まっています、殿下」


 セドリックがすっと近寄り、私の肩甲骨の間に細い指先を添えた。


「胸を開いて。肩の力を抜いてください」


「んぐっ……」


「息を止めてはいけません。優雅な微笑みを浮かべたままで」


 無茶を言うな。


 コルセットで肺は潰れそうだし、足の裏は痛いし、頭の上には鈍器のような本が載っているのだ。これで笑えというほうが狂っている。


 それでも、下町の意地があった。


ここで弱音を吐いて「やっぱり無理でした」と逃げ出せば、トマスさんたち下町のみんなが神殿に捕まってしまう。

 私は奥歯を噛み締め、汗を滲ませながら、一歩、また一歩と足を運んだ。


 十往復、二十往復。

 何度も本を落としそうになりながら、私は一度も弱音を吐かずに歩き続けた。


 ふと、横を歩いていたセドリックの足が止まった。


 見上げると、彼は不思議そうに首を傾げ、じっと私の顔を見つめていた。


「……セドリック? 何を見ていらっしゃいますの?」


「……いえ。失礼いたしました」


 セドリックは眼鏡の縁に指を添え、困惑の混じった声で呟いた。


「以前の殿下であれば、三回本を落とした時点で『こんな本、燃やしておしまい!』と叫び、私に本を投げつけておいででしたので。これほど根気強く、黙々と基礎反復を続けられるお姿を拝見するのは、その……初めてのことでして」


「なっ……!?」


 しまった、と背筋が凍りついた。

 あまりの真面目さに、ロゼリアらしさが消えていたのだ。


「あ、当たり前ですわ! わたくしを誰だと思っていて!? この程度の訓練、朝飯前……じゃなくて、お遊びにすぎませんことよ! オホホホ!」


 私は慌てて扇子を取り出し、わざとらしく口元を隠して高笑いした。


 セドリックは眉根を寄せ、ますます不審そうに小首を傾げていたが、やがて、

「……では、次はお茶の作法に移りましょう」

と机へ促した。




 円卓の上には、白磁の繊細なティーカップと、銀のティーポットが用意されていた。


 カップの縁には細やかな金彩が施され、息を吹きかけただけでも割れてしまいそうなほど薄い。


「貴族の夜会や他国の使節との会談において、喫茶の所作は極めて重要です」


 セドリックが向かいの席に腰を下ろし、手本を示すようにカップを手に取った。


「親指と人差し指、中指の三本で取手を挟むように持ち上げます。小指を立ててはいけません。ソーサーは胸の高さまで持ち上げ、カップを口元へ運ぶ際、音を立てずに口をつけるのが礼儀です。……どうぞ、やってみてください」


 私は息を呑み、慎重にカップに手を伸ばした。


 だが、私の右手は十九年間のパン作りによって、すっかり「職人の手」になっていた。


 親指の付け根には硬いタコがあり、握力は人一倍強い。繊細な白磁の取手をつまもうとすると、指先が強張り、カップがカチャカチャとソーサーの上で甲高い音を立てて暴れ回る。


「……殿下、肩に力が入りすぎております」


「わ、分かっていますわよ! このカップが、あまりにも貧弱な作りをしているだけですわ!」


「カップのせいにされても困ります。……ほら、力を抜いて。私が指を添えますから」


 セドリックが立ち上がり、私の背後に回った。

 彼の手が、上からそっと私の右手を包み込む。


 男の人にしては滑らかで、だがペンを握り慣れた節のあるしっかりとした指先。ふわりと、石鹸と古い紙の清潔な匂いが鼻腔をくすぐった。


「ここです。親指の腹をここに当て、手首のスナップで持ち上げるのです」


「っ……!」


 至近距離から降ってくる穏やかな声に、心臓が跳ねる。


 男衆と肩を並べて働いていた時は、男の手になど何の意識も向かなかったのに、こうして静かな部屋で密着されると、妙な熱が耳の裏に集まってくる。


「……どうされましたか? お顔が赤くなっておいでですが」


 セドリックが覗き込んでくる。その瞳には一切の邪気がなく、純粋な教育者としての真剣さしかなかった。


「な、何でもありませんわ! 近いですわよ、無礼者!」


 私は反射的に手を振り払ってしまった。


 ガチャンッ!


 ソーサーの上のカップが跳ね、中に残っていた紅茶が少しだけテーブルの上にこぼれた。


「あ……」


 やってしまった、と血の気が引く。


 だが、セドリックは怒るでもなく、静かにハンカチを取り出してテーブルを拭き始めた。


「失礼いたしました。少々距離が近すぎましたね。ですが殿下、殿下のその指先、以前よりもずいぶんと硬く、逞しくなられたようにお見受けしますが」


 セドリックの鋭い視線が、私の掌のタコに向けられる。

 心臓が止まるかと思った。


「そ、それは……療養先で、リハビリのために……そう! 木彫りの彫刻に熱中していましたのよ! わたくしの類まれなる芸術センスが爆発してしまいまして!」


「木彫り、ですか」


 セドリックは眼鏡を押し上げ、じっと私を見た。


「以前の殿下は、爪が痛むからと刺繍すら嫌がっておられましたが……ずいぶんと素朴な趣味をお持ちになられたのですね」


「ひ、人は変わるものですわ! 死の淵を彷徨ったのですから、価値観の転換というやつです!」


 必死で言い訳を並べ立てる。冷や汗が背中をツーと流れていくのが分かった。


 セドリックはそれ以上追及せず、壁の振り子時計を見上げた。


「……もう昼時ですね。本日の午前の講義はここまでといたしましょう。午後からは他国の歴史と、ヴァンディエル王国の情勢についての講義を行います」


 そう言って、セドリックは深く息を吐き出した。

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