第4話 王女の代役
男の鋭い眼光が、私を捉えた。
その瞬間、国王の巌のような顔立ちに、ごく僅かな――だが決定的な動揺が走るのを、私は見逃さなかった。
彼の喉仏が微かに震え、冷徹だった瞳の奥に、亡霊でも目撃したかのような激しい揺らぎが浮かぶ。
「……セラフィナ」
国王の口から、掠れたような呟きが漏れた。
だが、その弱さは瞬く間に掻き消え、再び厳格な君主の仮面がその顔を覆った。
「宰相の言う通りだ、娘よ」
国王は重い足取りで私の前に立ち塞がった。身長差は頭一つ分以上あり、その影が私を完全に覆い尽くす。
「お前がロゼリアとして生きねば、この国は立ち行かぬ。ヴァンディエル王国との同盟は瓦解し、北からの侵略を許すことになる。そして神殿が王家の隙を突き、民を巻き込む権力闘争が始まるだろう」
「だからと言って」
私は威圧感に気圧されそうになる足を必死に踏ん張った。
「私には私の人生があります! 親父さんとおっかさんが遺してくれた店があって、待ってくれている街の人たちがいるんです! 急に現れて『お前は王女だ、身代わりになれ』だなんて、そんな勝手な理屈、受け入れられません!」
下町のパン屋の娘として生きてきた意地だった。
いくら王家の血を引いていようと、十九年間私を捨て、存在すら消し去っていた人間たちに、今さら都合よく使われてたまるものか。
だが、国王レオンハルトの瞳は、微塵も揺らがなかった。
彼は冷たく、感情の籠もらない声で言い放った。
「断るならば、それでもよい」
「え……?」
「だが、十九年前に死んだはずの『忌子』が生きていたとなれば、神殿は黙ってはおらぬ」
国王の淡々とした言葉が、私の鼓膜を打った。
「王家を攻撃する絶好の好機として、神殿はお前を匿い育てた者たちを徹底的に調べ上げるだろう。あの『麦穂亭』でお前と関わり、買い支えていた下町の者たちにまで、神殿の異端審問と詮索の目が向けられることになる」
「なっ……!?」
背筋を冷たいものが駆け抜けた。
「トマスさんや、近所の人たちは何も知りません! ただのお客で、ただの隣人です!」
「神殿の教義の前に、そのような弁明が通じると思うか?」
国王は眉一つ動かさず、静かに告げた。
「神殿は疑わしき者を徹底的に追及する。お前の店に関わった者たちは厳しい取り調べを受け、下町の平穏は完全に失われるだろう。……お前が拒絶するとは、そういう事態を招くということだ」
あまりにも残酷で、逃げ場のない現実。
拳を強く握りしめすぎて爪が手のひらに食い込んだ。鈍い痛みが走るが、目の前の国王は、ただ冷徹に私を見下ろしているだけだった。
「選べ、ミア」
エドモン宰相が、静かに間に入った。
「神殿に嗅ぎつけられ、下町の者たちを巻き込む道を選ぶか。あるいは……ロゼリア王女として王宮に留まり、この国の平穏を繋ぎ止めるか」
選択肢など、最初から存在しなかった。
私が首を横に振れば、今朝まで笑い合っていたトマスも、足の悪いおばあちゃんも、ツケをせがんできたロブも、全員が私のせいで神殿の追及を受ける。
親父さんとおっかさんが命がけで守り抜いてくれた私の命が、今度は下町の人々を脅かす火種になる。
そんなこと、受け入れられるはずがなかった。
私はぎりっと奥歯を噛み締め、俯いた。
視界の隅に、部屋の壁に掛けられた一枚の大きな油絵が目に入った。
金色の額縁に収められた、若い女性の肖像画。
柔らかな亜麻色の髪を編み込み、深い翡翠色の瞳で優しく微笑んでいる女性。その顔立ちは、鏡を見るまでもなく、私自身の顔と瓜二つだった。
「……セラフィナ様、ですか」
掠れた声で呟くと、エドモン宰相が微かに目元を緩め、頷いた。
「そうだ。貴女の実の母君だ」
肖像画の中の女性は、どこか哀しげに、だが確かに慈愛に満ちた眼差しでこちらを見つめていた。
この人は、忌子として生まれた私を殺すことができず、我が身を裂かれるような思いで下町へと逃がしてくれたのだ。自分の命と立場を危険に晒してまで。
母がくれた命。
親父さんとおっかさんが育ててくれた身体。
下町の人々が買い支えてくれた、私のパン。
それらすべてを無駄にしないための道が、目の前の茨の道しかないというのなら。
私は深く、長く息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……分かりました」
私の声は、自分でも驚くほど静かに、硬く響いた。
「やります。ロゼリア王女の身代わりを引き受けます」
国王レオンハルトの瞳に、僅かな光が宿った。
だが、私は彼が口を開くよりも早く、鋭い視線で国王を睨み据えた。
「ただし、条件があります」
「条件だと?」
国王が低く唸る。
「下町の店と、近所の人たちには絶対に手を出さないでください。『麦穂亭』は王室御用達の看板を掲げてそのまま保全し、税の取り立てもこれまで通りにすること。誰一人として、神殿の詮索の手を及ばせないと約束してください」
私の言葉に、国王はしばらく沈黙を守っていた。
やがて、彼は短く息を吐いた。
「もちろんだ。エドモン、手配せよ」
「かしこまりました、陛下」
「それと、もう一つ」
私は胸元を強く押さえ、はっきりと告げた。
「私は、あなたを父親だとは思いません。この国を守るために、身代わりの契約を結んだだけです。……それ以上を、私に求めないでください」
国王の表情が、一瞬だけ痛ましげに歪んだように見えた。
だが、彼は何も言わず、ただ背を向けて隠し扉の奥へと消えていった。重い扉が閉ざされ、部屋には再びエドモン宰相と私だけが残される。
「……厳しい道になるぞ、ミア」
エドモン宰相が、静かに語りかけてきた。
「貴女が演じるべきロゼリア殿下は、気位が高く、残酷で、誰からも恐れられていた悪女だ。これまでの貴女の優しさや、庶民としての癖は、すべて命取りとなる」
「演じてみせますよ」
私は前掛けの端を握りしめ、自分を奮い立たせるように言い放った。
「悪女になればいいんでしょう? 人を睨みつけて、我儘を言って、踏ん反り返っていればいいんでしょう。……下町の酔っ払いを追い払うのと、大して変わりません」
虚勢だった。
心臓は今にも早鐘のように打っており、手足の震えは止まっていなかった。
それでも、私はもう後戻りのできない場所に立っている。
「明日から、貴女に王女としての作法と、ロゼリア殿下の振る舞いを叩き込む教育係をつける。……名を、セドリックという。優秀な青年だが、彼にも貴女の正体は明かしていない。完全に騙し通さねばならぬ」
「……分かりました」
「では、支度をさせよう。まずはその煤けた服を脱ぎ、王女の衣を纏うのだ」
エドモン宰相が合図を送ると、控えていた侍女たちが無言で部屋に入ってきた。
彼女たちの冷ややかな、どこか怯えを孕んだ視線が私に向けられる。
脱ぎ捨てられた、小麦粉の匂いが染み付いた麻の前掛け。
代わりに私の身体を締め付けたのは、重く、硬く、息も詰まるような豪奢な深紅の絹のドレスだった。
鏡の中に映し出されたのは、煤を落とされ、豪奢な装飾に飾られた、見知らぬ女の姿。
冷たい光を放つ翡翠色の瞳。
それは紛れもなく、かつて国中から恐れられた『悪の王女』の姿そのものだった。
私の、偽りの王宮生活が、今、始まろうとしていた。




