第3話 忌子の血
馬車が停まったのは、壮麗な王宮の正門ではなく、城の北側にひっそりと口を開けた石造りの通用門の奥だった。
車輪が止まり、外から重厚な掛け金が外される音が響く。
扉が開かれると、ひんやりとした湿った空気が流れ込んできた。
外壁に囲まれた小さな中庭には、苔むした石畳と、等間隔に配置された衛兵たちの姿しかない。どこにも人影はなく、ただ重い静寂だけが漂っていた。
「降りなさい」
エドモン宰相が先に降り立ち、振り返って私を見上げた。
両脇を固める二人の騎士に促され、私は膝の震えを必死に抑えながら石畳へと足を下ろす。靴底が地面を叩く乾いた音が、壁に跳ね返って小さく響いた。
人目を避けるため、城内のひとけのない地下通路を抜けた先にある、薄暗い一室へと案内された。
高いアーチ状の天井には煤けたシャンデリアが吊るされ、四方の壁は分厚い樫の木の書棚で埋め尽くされている。
敷き詰められた絨毯は足音を完全に吸い込み、重厚な革張りの長椅子と、無骨な黒檀の執務机が置かれていた。窓には隙間なく分厚いベルベットの帳が下ろされ、外界の光は一切遮断されている。
エドモン宰相は机の前の椅子を指差し、短く促した。
「掛けなさい」
「……結構です」
私は壁際に立ったまま、身構えるように両腕を組んだ。前掛けについた小麦粉の白さが、この重苦しい貴族の部屋の中で、ひどく場違いに浮き上がっている。
「私をここに連れてきて、一体何をさせる気ですか。身代わりなんて……本物の王女様が亡くなったからって、下町のパン屋を代わりに座らせるなんて、正気の沙汰じゃありません」
エドモン宰相は表情を崩さず、机の上の銀の燭台に火を灯した。
揺れる橙色の炎が、彼の深い目元の皺を濃く彫り起こす。
「正気ではない、か。確かにその通りだ。だが、これ以外の道は残されていないのだよ、ミア」
彼は静かに椅子へ腰を下ろし、机の上に両手を組んだ。
「まず、貴女自身が何者であるかを知らねばならぬ。……貴女は、このアルドレア王国において、最も重き『禁忌』のもとに生まれた存在だ」
「禁忌……?」
眉をひそめた私に、エドモン宰相は灰色の瞳を真っ直ぐに向けてきた。その瞳の奥には、氷のような冷徹さと、長年押し殺してきた苦渋が宿っていた。
「双子だ」
その単語が発せられた瞬間、部屋の空気がわずかに冷え込んだ気がした。
「このアルドレア王国において、双生児――ひとつの胎から二つの命が同時に生まれることは、神殿の教義により絶対の罪と定められている。ひとつの魂が二つに分かたれて宿ることは神への冒涜であり、国に災いをもたらす不吉の兆候、すなわち『忌子』として扱われる」
心臓が、トクンと嫌な音を立てた。
下町で暮らしていても、神殿の教義については耳にすることがあった。双子が生まれた家は近所から忌み嫌われ、神殿の白衣の神官たちが踏み込んで赤子を連れ去るという、おとぎ話のような、しかし誰もが本気で恐れている噂話。
「平民の家に双子が生まれれば、神殿の手によって人知れず隔離院へと送られる。……それが王家であれば、なおのことだ。玉座に忌子の血が混じることなど、神殿が決して許すはずがない」
「じゃあ……私と、その本物の王女様は……」
「十九年前の春、亡きセラフィナ王妃様は、二人の女児を産み落とされた」
エドモン宰相は静かに語り継いだ。
「先に生まれたのがロゼリア殿下。そして、その数分後に生まれたのが、貴女だ」
頭の奥を、鈍器で殴られたような衝撃が走る。
息がうまく吸えない。十九年間、自分がただのパン屋の娘として生きてきた時間が、足元から音を立てて崩れていくような感覚。
「王妃の出産に立ち会ったのは、私と、口の堅い専属の老医師のみだった。生まれたばかりの二人の赤子を見て、王妃様は泣いて懇願された。『どちらか一人を殺すことなどできない。どうか、この子を助けてほしい』と」
エドモン宰相の視線が、わずかに遠くを見つめるように揺れた。
「私は王妃様の幼馴染であり、王家の影を担う宰相だ。神殿に露見すれば、王妃様は廃位され、二人の赤子は共に命を奪われ、国は宗教的な動乱に揺れるところだった。……ゆえに、私は決断した」
机の上の蝋燭が、パチリと小さくはぜた。
「先に生まれたロゼリア殿下を唯一の王女として公表し、後から生まれた貴女は『死産』として処理した。そして、王宮の外、信頼できる誠実なパン職人の夫婦へと密かに預けたのだ。……それが、貴女の出生の真実だ」
「そんな……」
私は壁に背を預け、冷たい板張りの感触を背中に感じながら立ち尽くした。
親父さんとおっかさんの顔が浮かぶ。
頑固で無口だった親父さん。粉まみれの手で私の頭を乱暴に撫でてくれた温もり。
おっかさんが作ってくれた、少し焦げた林檎のタルトの味。
二人は、私の本当の素性を知っていたのだ。知った上で、神殿に見つかれば罪に問われる恐怖を抱えながら、私をただの娘として育ててくれた。
「二人は、私を……」
「あの夫婦は立派に役目を果たしてくれた。貴女が健やかに、何の疑念も抱かずに育つよう、生涯口を割らなかった。……だが、運命はあまりにも残酷だ」
エドモン宰相の声が、一段と低く沈んだ。
「王宮に残されたロゼリア殿下は、生まれつき体が弱く、加えてその気性は酷く荒れておられた。自分が忌子の片割れであることを知るはずもないが、周囲の腫れ物に触るような視線を感じ取っていたのかもしれぬ。我儘放題に振る舞い、周囲を傷つけ、宮廷内では『悪の王女』と囁かれるようになっていた」
「悪名なら、下町まで届いていましたよ」
私は震える唇で言い返した。
「贅沢のために税を上げろと言ったとか、気に入らない侍女の髪を切り落としたとか。街の人間はみんな、王女様のことを恐れていました」
「誇張もあるが、概ね事実だ。……そのロゼリア殿下が、三日前の深夜、療養先の離宮で息を引き取られた」
エドモン宰相は組んでいた手を解き、机の引き出しから一通の羊皮紙を取り出した。そこには、王家の赤い封蝋が押されている。
「死因は、流行り病の悪化による心不全。医師の手当ての甲斐もなく、あっけない最期だった」
「……お気の毒だと思います。でも、それと私に何の関係があるんですか。本物が亡くなったのなら、国葬を出して、正直に公表すればいいじゃないですか」
「できぬのだ」
エドモン宰相の言葉は、冷酷なまでに断定的だった。
「今、この国は綱渡りの崖に立っている。北方の軍事強国『ヴァンディエル王国』との間で進められている同盟関係。その要となるのが、ロゼリア殿下と、ヴァンディエル王国第二王子リュシアン殿下との婚姻だ」
ヴァンディエル王国。
大陸の北方を統べる、強大な騎兵隊と鉄鉱石の資源を誇る軍事国家だ。農業主体の小国であるアルドレア王国とは、過去に幾度も国境を巡って小競り合いを繰り返してきた因縁の相手でもある。
「この縁談が破談になれば、北の脅威は再び我が国の国境へと押し寄せる。それだけではない。国内の『双生神殿』を率いるヴィクトール大主教は、王家の権威を失墜させ、神殿の傀儡とすべく虎視眈々と隙を狙っている。王女の急死という混乱は、神殿勢力に王宮を掌握する口実を与えることになるのだ」
エドモン宰相は立ち上がり、ゆっくりと私へと歩み寄ってきた。
その灰色の瞳が、上から私を値踏みするように見下ろす。
「対外的な体裁はすでに整えてある。『ロゼリア殿下は病の危機を脱し、療養を終えて王宮へ戻られた』と。……貴女が、ロゼリア殿下として振る舞うのだ。外見は双子ゆえに瓜二つ。病の療養が長引いたことで、以前とは少し雰囲気が変わった。そう説明すれば、宮廷の者どもは誤魔化せる」
「無茶苦茶です!」
私は思わず叫んでいた。
「私はただのパン屋です! 貴族の礼儀作法も、王族の立ち居振る舞いも、何一つ知りません! そんな嘘、すぐにバレるに決まっています!」
「バレては困るのだ」
背後から、低く、雷鳴のように重々しい声が響いた。
執務室の奥、壁と同化していた隠し扉が音もなく開いていた。
そこから姿を現した人物を見た瞬間、部屋に控えていた騎士たちが一斉に膝を突き、深々と頭を垂れた。エドモン宰相すらも、胸に手を当てて一歩退く。
現れたのは、豪奢な金糸の刺繍が施された濃紅の礼服を纏った男だった。
肩幅は広く、引き締まった体躯。亜麻色の髪には白いものが混じり、眉間には深い縦皺が刻まれている。腰には王家の象徴である宝剣を佩き、その圧倒的な威厳は、部屋の空気を一瞬で押し潰すほどだった。
アルドレア王国国王、レオンハルト。
私の、実の父親?




