第2話 迎えの馬車
ズズン。
石畳の地面の底から、重苦しい地鳴りのような響きが伝わってきた。
「……ん?」
スプーンを置いた私の耳に、規則正しく地面を叩く複数の蹄の音が届いた。
一つや二つではない。十、いや二十。重厚な鉄の蹄鉄が、下町の乱雑な石畳を容赦なく踏み砕く音。それに混じって、重い車輪が軋む鈍い音が近づいてくる。
通りのざわめきが、急速に不自然な沈黙へと塗り替えられていくのが分かった。
人の声が消え、扉がバタバタと閉ざされる音、子供を引き寄せる母親の悲鳴のような囁き。
胸の奥に、ざらりとした冷たいものが走る。
私は布巾を手に持ったまま立ち上がり、店先の小窓から外を覗き見た。
「な……に、あれ……?」
息が止まりそうになった。
狭い裏通りを埋め尽くしていたのは、白銀の全身甲冑に身を包んだ騎士たちの隊列だった。
彼らが掲げている槍の穂先は鋭く磨き上げられ、胸当てにはアルドレア王家の象徴である『双頭の獅子と百合』の紋章が刻まれている。
近衛騎士団。王宮の奥深く、国王や王族の身辺を警護するためだけに存在する、この下町には絶対に現れるはずのない者たちだ。
騎士たちは無言のまま、一糸乱れぬ動きで『麦穂亭』の店先を取り囲み、抜刀こそしていないものの、柄に手をかけた状態で通りを完全に封鎖した。
物陰から遠巻きに覗き見る下町の住人たちは、青ざめた顔で怯え切っている。
そして、隊列の中心が左右に割れ、一台の馬車が店の前に静かに停車した。
それは、下町の埃っぽさなど寄せ付けないほどに磨き抜かれた、漆黒の馬車だった。車体には繊細な金泥の装飾が施され、窓には重厚な深紅のカーテンが引かれている。
カチリ、と硬質な音を立てて馬車の扉が開いた。
まず降り立ったのは、黒い長靴を履いた従者。続いて、従者が恭しく差し伸べた手に掴まりながら、一人の初老の男がゆっくりと石畳へと降り立った。
濃紺の仕立ての良い上質な外套を羽織り、銀髪を後ろへと撫で付けた男。
彫りの深い顔立ちには深い皺が刻まれ、その灰色の瞳は、剃刀のように鋭く怜悧だった。
だが、その引き結ばれた薄い唇の端には、どこか張り詰めた苦渋の色が滲み出ている。
男の胸元で揺れる純金の鎖と、大粒のサファイアの襟留め。
平民の私ですら、その高貴すぎる佇まいが何を意味しているか、直感で理解できた。王宮の頂点に立つ大貴族だ。
男は周囲の騎士たちを一瞥し、軽く片手を上げた。
それだけで、騎士たちは一斉に姿勢を正し、道を開ける。
男は無言のまま、迷いのない足取りで『麦穂亭』の粗末な木製ドアへと歩み寄ってきた。
ギギィ……と、蝶番が軋む音を立てて扉が押し開かれる。
カラン、と朝に鳴ったのと同じ軽やかな鐘の音が、今は酷く不吉に響いた。
男が一歩、店内に足を踏み入れた瞬間、小麦と薪の匂いに満ちていた狭い店内が、冷たい沈黙と圧倒的な威圧感で満たされた。
後ろに控えた二人の巨躯の騎士が、入るなり無言で左右の壁際に立ち塞がり、出口を完全に塞ぐ。
「……あ、あの……」
私の喉はカラカラに干からびていた。
手にした布巾を握りしめ、カウンター越しに立ち尽くすのがやっとだった。
「な、何か……御用でしょうか。うちは、ただのパン屋で……貴族様にお出しできるような上等なものは、何も……」
言い終える前に、初老の男の灰色の瞳が、真っ直ぐに私の顔へと注がれた。
その視線は、品定めをするような鋭さと、何かの亡霊でも見つめるかのような激しい動揺を同時に孕んでいた。男の眉が僅かにピクリと跳ね、喉仏がごくりと動く。
「……なんと」
男の口から、低く掠れた呟きが漏れた。
「これほどまでに……似ているとはな。声の響き、瞳の奥の光……セラフィナ様の若い頃に、生き写しだ」
セラフィナ?
聞き覚えのない名前に、私の頭の中に疑問符が浮かぶ。
だが、男は私の困惑など気にも留めず、胸に手を当てて優雅に、そして恭しく一礼してみせた。王都の頂点に立つ身分の男が、煤けた前掛けをした下町の小娘に対して。
「初めまして、姫君。……私はアルドレア王国宰相、エドモンと申します」
「……は?」
間抜けな声が出た。
「さ、宰相様……? あの、人違いでは? 私はミアです。ここでパンを焼いている、ただの平民で」
「人違いではない」
エドモン宰相は首を静かに横に振った。その瞳には、一切の揺らぎがなかった。
「貴女のその顔立ち、その亜麻色の髪、そして何より、その翡翠色の瞳。誤魔化しようもございません。……貴女こそが、正当なる王家の血筋。国王レオンハルト陛下が実子にして、アルドレア王国のもう一人の王女」
エドモンは一呼吸置き、その場にいた全員の鼓膜を震わせるように、厳かに告げた。
「ロゼリア王女殿下、その人にございます」
時間が止まった。
石窯の中でパチリと弾けた小さな火の粉の音だけが、やけに鮮明に響いた。
ロゼリア王女?
あの、王都の誰もが知っている、高慢でわがままで、気に入らない使用人を鞭打っただの、宝石のために民の税を跳ね上げただのと悪名高い、あの『悪の王女』?
「じ、冗談ですよね……? 私には育ての親がいて、ここでずっと暮らしてきて……」
「貴女を育てたパン職人の夫婦は、かつて王妃様の命を受けた私が手配した里親です。二人は数年前に他界したと聞き及んでおりますが……これまで、よく無事でいてくださった」
エドモン宰相の言葉の端々に、偽りや嘘の気配は微塵もなかった。
彼の背後に立つ騎士たちの眼差しも、冷徹でありながら、どこか張り詰めた絶対の確信に満ちている。
「お待ちください、わけが分かりません! 仮に……百歩譲って私がそのロゼリア王女だとして、本物の王女様はお城にいるはずでしょう!? 街の噂でも、病気で療養中だって」
「その本物が、死んだのだ」
氷の刃のような一言が、私の言葉を断ち切った。
「……え?」
「三日前、ロゼリア殿下は療養先で息を引き取られた。流行り病の悪化による、急死だ」
エドモン宰相は声を極限まで落とし、冷ややかに、しかし切迫した響きを込めて続けた。
「だが、その死を公表するわけにはいかぬ。我が国は今、北方の軍事強国ヴァンディエル王国との間で、極めて重要な同盟と縁談を結ぶ瀬戸際にある。ロゼリア殿下の死が露見すれば、縁談は破談となり、我が国は北からの軍事的脅威と、国内の神殿勢力による動乱に呑み込まれることになるのだ」
エドモンの灰色の瞳が、射抜くように私を捉える。
「貴女には、今すぐ城へ上がっていただく。そして……亡きロゼリア殿下の『身代わり』として、この国のために王女を演じていただかねばならぬ」
身代わり。
悪名高い王女の、替え玉。
突拍子もない話の連続に、私の頭は悲鳴を上げていた。
「い、嫌です! そんなの無理に決まってます! 私にはこの店があって、ここでパンを焼いて生きていくんです! 王女の代わりなんて、できるわけが」
「断る権利は、貴女にはない」
エドモンの声音から、微かに混じっていた情が消え失せ、冷徹な政治家の仮面が被せられた。
「これは王命であり、この国の存亡に関わる重大事だ。……連れて行け」
「ハッ!」
左右の騎士が一歩踏み出し、私の両腕を容赦なく掴み上げた。
「放して! ちょっと、何するのよ!」
抵抗しようと暴れたが、鍛え抜かれた大人の騎士二人の力には敵わない。鉄の篭手に締め上げられた腕が軋み、足が宙に浮く。
カウンターの上に置かれていた小麦粉の袋が倒れ、白い粉が床にバサリと散った。
焦げ付き始めた石窯の匂い。
壁に掛けられた、親父さんが使っていた古い革のエプロン。
おっかさんが毎朝磨いていた、銅の水差し。
私のささやかで、大切だった日常が、乱暴に踏みにじられて遠ざかっていく。
「やめて……! 店が……火を消さなきゃ、店が燃えちゃう!」
私の悲痛な叫びに、エドモン宰相は視線すら動かさず、背後の従者に短く命じた。
「窯の火を落とし、店の戸締まりをしろ。近隣には、王室御用達の職人として召し抱えられたと説明しておけ」
「かしこまりました」
「嫌……放して! 助けて、トマスさん! 誰か!」
引きずられるようにして店外へ連れ出されると、下町の石畳の上に白銀の甲冑がずらりと並んでいた。
遠巻きに見ていた近所の人々が、息を呑んで後ずさりする。助けを求めるように視線を向けたが、王家の紋章を前にして、平民の誰もがただ青ざめて震えているだけだった。
漆黒の馬車の重い扉が開かれる。
騎士の手によって、私は薄暗い馬車の車内へと放り込まれるように押し込められた。
座席に敷かれたビロードの生地は驚くほど滑らかで、煤と粉で汚れた私のワンピースには、あまりにも不釣り合いだった。
バタン。
冷酷な金属音が響き、扉が硬く閉ざされた。
重厚なカーテンによって外の光は遮られ、車内は息が詰まるほどの静寂と薄暗がりに包まれる。
ギィ……と車体が揺れ、蹄の音が石畳を叩き始めた。
馬車が動き出す。
私の愛した下町を、パンの匂いを、自由だった十九年間の人生を置き去りにして、馬車は滑るように速度を上げていく。
震える自分の手を膝の上で見つめる。
爪の間に残った小麦粉の白さが、薄暗がりの中でやけに鮮明だった。
これから私を待ち受けているのは、一体どんな暗闇なのか。
抗うことのできない巨大な運命の車輪に巻き込まれたことを悟りながら、私はただ、固く唇を噛み締めるしかなかった。




