第1話 焼き立てのパン
夜明け前の空気は、いつも決まって針のように尖っている。
石造りの狭い作業場に立ち、袖を肘の上まで捲り上げた私は、冷たい井戸水で顔を洗ってから大きな息を一つ吐き出した。
吐き出した息が白く濁り、薄暗い天井へと吸い込まれていく。
アルドレア王国の王都、その東側に広がる下町の一角。貴族たちが住まう白亜の城下町とは高い外壁一枚で隔てられたこの界隈は、陽が昇る前から職人や荷運び人たちの生活の匂いで満ち始める。
私が店主を務めるこの小さな店、『麦穂亭』。
この店の朝は、灰を掻き出す作業から始まる。
使い込まれた鉄のスコップを握り、まだ微かにぬくもりの残る石窯の底から昨日の燃え殻を掻き出す。
ジャリ、ジャリと硬い音が静まり返った店内に響いた。乾いた灰の匂いが鼻腔の奥をかすめる。
新しい薪を幾本か組み、乾燥させた杉の小枝を焚き付けにして火打ち石を打つと、パチンと火花が散り、小さな橙色の炎が生まれた。
ふう、と慎重に息を吹き込む。炎が薪の樹皮へと燃え移り、パチパチとはぜる心地よい音が立ち上ると、冷え切っていた作業場にじわりと熱が満ちてくる。
火が回るのを待つ間に、木製の大きな捏ね鉢へと向かう。
粗挽きの小麦粉に、ぬるま湯と塩、そして大事に育ててきた果実種を加える。粉をまとった両手を深く沈め、体重をかけて力任せに捏ねていく。
グッ、グッと生地が手のひらを押し返してくる弾力。指の隙間から小麦の甘い香りと、発酵特有の微かな酸味が立ち上る。
「……よし、今朝もいい機嫌だ」
思わず声が漏れた。
パン生地は正直だ。粉の質や水の温度、その日の湿度や捏ねる人間の手の熱まで、すべてを吸い込んで形を変える。
機嫌よく膨らんだ生地を丸め、麻布を被せて寝かせている間に、今度は奥の調理場で大鍋に火をかけた。
朝の市で仕入れてきた根菜と、筋張った干し肉。
玉ねぎの薄皮を剥き、手際よく刻んでラードで炒める。ジュウジュウと小気味よい油の音が跳ね、香ばしい湯気が立ち込めた。ぶつ切りにした人参と蕪、水戻しした干し豆、それに乾燥ハーブの束を鍋に放り込み、水を入れて蓋をする。あとはコトコトと弱火で煮込み、塩と僅かな胡椒で味を調えるだけだ。
高級な香辛料や上等な肉など使えないが、野菜の芯から出る甘みと、干し肉の脂が溶け出したスープは、朝早くから働く下町の人間の胃袋を温めるには十分すぎるご馳走になる。
数年前、流行り病で相次いで亡くなった育ての親、頑固だが誰よりも優しいパン職人の親父さんと、口うるさいがお腹を空かせた子供を決して見捨てなかったおっかさんが遺してくれた、これが私の城だった。
血の繋がりなどない孤児の私を拾い、粉まみれの手でパンの焼き方を一から叩き込んでくれた二人。
『ミア、パンはな、嘘をつかねえ。手を抜けば固くなり、焦れば膨らまねえ。だからお前も、腹を立てても手だけは丁寧に動かせ』
親父さんのしわがれた口癖を思い出しながら、私はふっくらと倍に膨らんだ生地を手際よく切り分け、丸めて天板へと並べていく。
石窯の蓋を開けると、赤熱した薪の熱気が顔を打った。
木製のピールに生地を滑らせ、窯の奥へと差し入れる。
バシッと革の扉を閉め、砂時計をひっくり返す。
やがて、閉じ込められた熱の中で生地がぷっくりと膨らみ、表面が黄金色に色づいていくにつれて、小麦と酵母が焼き締まるたまらない匂いが部屋中に充満し始めた。
カラン、と表の木札を裏返し、『商い中』の文字を表に向ける。
ちょうどその時、東の空から差し込んできた柔らかな春の陽光が、石畳の路地を照らし出していた。
「おう、ミア! 今朝も一番乗りだ!」
扉が開くなり、威勢のいい声とともに飛び込んできたのは、市場で荷車を引いている大柄な男、トマスだった。
まだ肌寒いというのに麻のシャツ一枚で、肩に分厚い革の当て布を乗せている。
「いらっしゃい、トマスさん。今朝も早いわね」
「そりゃあな。お前のところの焼き立てパンを食わなきゃ、朝の積み下ろしに気合が入らねえんだよ。スープと丸パン二つ、頼む!」
「はいよ、熱いから気をつけてね」
木のお椀に波々とスープを注ぎ、焼き立ての丸パンを二つ、籠に盛って差し出す。
トマスはごつごつした手でパンを割った。パキッと小気味よい音を立てて硬い皮が割れ、中から白い湯気とふんわりとした柔らかい生地が顔を出す。
「くぅーっ、たまらん! 外はパリッとしてんのに、中は柔らかい。身体に染みるぜ」
スープにパンを浸し、豪快に口へと放り込むトマスを見て、私の頬も自然と緩む。
「おはよう、ミアちゃん。今日もいい匂いねえ」
「おばあちゃん、おはよう。足の具合はどう? 今朝は蕪が柔らかく煮えてるよ」
「まあ嬉しい。じゃあ、パンを一つ包んでもらおうかしらね」
「はい、いつもありがとう」
陽が昇るにつれて、店先は途端に忙しさを増していった。
市場へ向かう商人、鍛冶屋の徒弟、洗濯籠を抱えた近所のおかみさんたち。
「ミア、パン三個くれ! ツケで頼む!」
「ダメよ、ロブ! 前の分を払ってからにしなさい!」
「ケチ! 美人なのにケチ!」
「誰がケチよ、銅貨二枚置いていきなさい!」
そんな軽口を叩き合いながら、銅貨を受け取り、紙に包んだパンを手渡す。
息をつく暇もない。注文をさばき、空いた器を下げ、布巾でカウンターを磨き、合間に窯の様子を見て次のパンを放り込む。
額に滲んだ汗を麻の袖で拭う。
粉の白さと煤の黒さが混ざり合い、私の前掛けはすっかり汚れていたが、胸の奥には心地よい充実感があった。
決して裕福ではない。毎月の粉の仕入れ代を払い、薪の代金を納めれば、手元に残る金はわずかなものだ。着るものだって、仕立て直した色褪せた麻のワンピースが二、三着あるきり。
それでも、自分の手で生地を捏ね、自分の足で立ち、街の人々に美味いと言ってもらえる。この泥臭くも温かい日常が、私のすべてだった。
正午を過ぎる頃には、あれほど賑やかだった店内も潮が引くように静かになった。
大鍋の底にはわずかにスープが残る程度になり、パンを入れた木箱もほとんどが空っぽになっている。
「ふう……今日もなんとかなった」
私は腰を伸ばし、小さく伸びをした。
崩れて売り物にならなかったパンの端切れを皿に集め、残ったスープの底を掬って注ぐ。
カウンターの隅の丸椅子に腰を下ろし、一人だけの遅い昼食をとる。固くなったパンの耳をスープに浸して噛み締めると、野菜の出汁と塩気が口いっぱいに広がった。
窓の外からは、春の柔らかな風が吹き込んできて、店先に干した麻布をふわりと揺らしている。
(明日は少しだけ蜂蜜を仕入れて、甘いパンでも焼いてみようかな……)
そんなささやかな計画を頭の隅で転がしながら、私は最後の一口を飲み干した。
その平穏が、一瞬にして打ち砕かれるとも知らずに。




