第194話 孫三郎陣営後日談
そして、貴丸が元伯に首根っこを掴まれ、そのまま連れ帰られた翌朝――。
まだ朝靄の残る頃、一騎の早馬が土煙を上げながら三淵孫三郎軍の陣へ飛び込んできた。
「ご注進!」
馬から飛び降りた使者は、そのまま孫三郎の前へ駆け寄ると、息を整える間も惜しんで声を張り上げた。
「高国様のもとへ各地より援軍が続々と集結しております! 伏見、東寺、京都市中の各所にはすでに兵が入り、高国様御自身も一万五千の軍勢を率いて、本日午後にはこちらへ到着されるとのこと!」
陣中がどよめく。使者はさらに続けた。
「また、瓦林正頼殿、一宮三郎殿、細川尹賢殿、伊丹国扶殿をはじめ、諸将もそれぞれ軍勢を率いて参陣しております!」
その報せが終わるや否や、陣内のあちこちから歓声が沸き起こった。
「俺たち、たった千で五千に持ち堪えたぞ!」「援軍だ!」「ようやく本隊が来るぞ!」
兵たちの表情から、これまで張り詰めていた緊張が一気に和らいでいく
無理もなかった。わずか千の兵で、五千の元長軍を相手に五日もの間この地を守り抜き、しかも大きな損害を出すことなく敵兵を疲弊させ続けたのである。
その働きは決して無駄ではなかった。
彼らが命懸けで稼いだ五日間によって、高国方の諸将と援軍は続々と京都へ集結し、いよいよ反攻の態勢が整おうとしていたのだった。
ここは、細川京兆家第十五代当主・管領、細川高国の本陣である。
高国が本陣へ姿を現すと、それまでざわめいていた諸将たちは、示し合わせたように静まり返った。
年の頃は二十代半ば。長身というほどではないが、姿勢は真っ直ぐに伸び、一歩ごとに無駄がない。豪胆な武将のように大股で歩くこともなく、公家を思わせる落ち着いた足取りで、ゆっくりと上座へ進む。
肩には黒地に細かな文様の入った陣羽織。その下には、丁寧に威された上質な小札具足を身につけていた。
派手さを誇る装いではない。しかし、その質の良さと着こなしからは、代々管領を務めてきた細川京兆家当主の風格が自然と滲み出ていた。
腰には太刀を佩いているものの、それを誇示するような仕草は一切ない。髷は乱れなく結われ、口元に整えられた髭が、その若さに落ち着きを添えていた。
何より人の目を引くのは、その眼差しだった。
鋭く睨みつけるわけではない。むしろ静かで、感情を表へ出さない。しかし、その視線を向けられるだけで、誰もが自然と背筋を伸ばしてしまうような威厳がある。
戦場にあっても血気にはやらず、怒鳴ることも慌てることもない。
その日、高国は一万五千の兵を率いて宇治・木津川へ着陣した。
本陣には、名だたる諸将が顔を揃えている。高国は腰を下ろすと、静かに口を開いた。
「三淵孫三郎をすぐに呼んで参れ。まずは、その労をねぎらわねばならぬ」
高国は小さく息を吐く。
「……できる限り急いだのだが……されど、五日も待たせてしまった。あれほどの小勢で、元長を相手に耐えさせることになろうとは……」
その声音には、自らを責めるような苦みが滲んでいた。
諸将もまた黙って頷く。京や近国に散っていた兵を招集し、一万五千もの軍勢をまとめ上げるには、どうしても時が要る。それでも、高国にとって五日という時間は、あまりにも長かった。
命を受けた使者が駆け出し、ほどなくして孫三郎が本陣へ姿を現した。
その姿を見た瞬間、居並ぶ諸将は思わず顔を見合わせた。
誰もが、五日にも及ぶ激戦を戦い抜いた将ならば、鎧は傷だらけで、顔には疲労の色が濃く刻まれ、血と泥にまみれているものと思っていた。
だが、目の前の孫三郎は違った。
顔色は良く、姿勢も乱れていない。身なりもきちんと整えられ、疲弊しきった様子は見受けられなかった。
一千で五千を相手に五日間も持ちこたえたのである。どれほどの苦戦であったかは想像に難くない。
高国は、孫三郎が主君に会うため、無理をして気丈に振る舞っているのだろう。せめて身なりだけでも整えてきたのだと受け取り、その忠節に胸を打たれた。
高国は静かに立ち上がる。その声には、ねぎらいが込められていた。
「孫三郎。よくぞ耐えた。一千の兵で五千の元長軍を相手に五日もの間、この地を守り抜いた功は誠に大きい」
諸将たちも深く頷く。
「見事であるぞ! 孫三郎殿!」「並の将では務まらぬ」「この功、まこと賞すべきものよ」
口々に称賛の声が上がった。
やがて高国は表情を曇らせ、静かに問いかける。
「……苦しい戦であったろう。今、そなたの軍で戦える兵は、どれほど残っておるのだ…」
その問いには、労わるような響きがあった。
一千で五千を五日も防いだのである。
半数は失ったか。いや、三百も残っていれば上出来か。本陣にいた誰もが、その程度の損害を覚悟していた。
孫三郎は一礼すると、落ち着いた口調で答えた。
「戦死した者は、おりませぬ」
その一言に、本陣の空気が止まった。
孫三郎は静かに続ける。
「軽い負傷をした者が数十名おりますが、命に関わる傷を負った者はおりませぬ」
高国は目を見開いた。瓦林正頼が思わず息を呑み、一宮三郎は言葉を失う。細川尹賢も伊丹国扶も、互いに顔を見合わせたまま固まっていた。
誰一人として、その報告をすぐには信じることができない。
わずか一千の兵で、京を目指して押し寄せる元長軍五千を、この地で五日間食い止めた。
しかも、戦死者は一人もいない。
そんな戦など、少なくともこの場にいる誰一人として見たことも、聞いたこともなかった。
そこに、高国の側近として控えていた細川尹賢が口を開いた。
「ということは……孫三郎殿、阿波勢とはまともに戦わなかったということか?」
その声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
「ただ睨み合っていただけならば、細川京兆家の名が廃る。敵が目の前にいるというのに、何もせず守りに徹するなど、臆病者のすることではないか」
周囲の諸将も静かに孫三郎へ視線を向ける。
確かに、五日もの間、敵軍と対峙していたのである。もし激しい戦闘がなかったのなら、その戦功の評価も変わってしまう。
しかし、孫三郎は少しも動じなかった。
「いえ。戦はございました。我らが着陣してから昨日まで、小競り合いを含めれば四度、敵と刃を交えております。もっとも、初戦はことのほか苦戦いたしました。敵は五千の兵で総攻めを仕掛け、総大将・三好元長殿も自ら騎乗にて先頭へ立ち、軍勢を率いて攻め寄せてまいりました。あの勢いは、まこと容易ならぬものでございました」
その場にいた者たちの表情がわずかに引き締まる。
総大将自ら先陣に立った――それだけで、敵の本気度が伝わった。
「されど、地の利と、あらかじめ備えておいた策が功を奏し、どうにかこれを退けることが叶いました」
そして孫三郎は、淡々と戦果を告げた。
「その結果、先ほども申しましたが、我らの死者はございませぬ。負傷者も数十名ほどに留まっております」
「……死者が、いないだと?」誰かが思わず呟いた。
孫三郎は静かに頷く。
「対して敵は、死者およそ五十名。負傷者は二千近く。さらに物見の報告では、戦場から逃亡した兵も千近くに及ぶとのことです」
陣中に静寂が落ちた。
千の兵で五千を相手に五日間持ちこたえた。それだけでも十分に驚くべき戦果である。しかも、自軍の死者は一人も出していない。
誰もが、にわかには信じられなかった。
高国はしばらく言葉を発せなかった。やがて、興味を隠せぬ表情で尋ねる。そして孫三郎を見る。
「……いったい、どのような策を用いたのだ? その策を考えたのは、そなたか?」
しかし、孫三郎はゆっくりと首を横へ振った。
「いえ。私ではございませぬ」
「では、誰が……」
孫三郎は少し言い淀んだ。
「堺で知り合った者にございます大和田たか……敦丸殿」
その名を聞いて、高国は眉を上げる。
「敦丸とな?」
「はい」
孫三郎は答えた。
「この度の策を考えたのは、その敦丸殿にございます」
「ならば、その者をここへ呼べ」
高国の声に、興味が混じる。
しかし、孫三郎の顔がわずかに曇った。
「それが……昨日の夕刻、その敦丸殿の祖父君が参られまして、その……」
少し間を置いてから続ける。
「首根を掴まれるようにして、連れて帰られました」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
「……連れて帰られた?」
高国が聞き返す。
孫三郎は困ったように答える。
「はい……その敦丸殿という方は……十歳になるかならぬかの童でございます」
その場の空気が止まった。
「……童?」尹賢が低く呟く。
孫三郎は頷いた。
「はい。どうやら祖父君には、この戦に参加していることを伝えていなかったようでございまして……発覚した後は、それはもう……」
そこで言葉を濁した。
その瞬間。細川尹賢が立ち上がった。
「馬鹿な! そんな話があるものか!」
怒声が陣幕に響く。尹賢は孫三郎を睨む。
「五千の軍を相手に千の兵で戦い、しかも死者なし? その策を考えたのが十歳の童だと? 孫三郎殿ともあろう者が、そのような戯言を申してまで功を誇りたいのか!」
しかし、孫三郎は反論しなかった。ただ静かに頭を下げる。
「信じ難い話であることは承知しております。ですが、事実にございます」
その時だった。物見の兵が陣幕へ駆け込んできた。
「申し上げます! 敵方の様子が判明いたしました!」
全員の視線が集まる。
「細川澄元、三好之長の軍勢が約一万を率いて着陣しました。そして、先に着陣していた三好元長の軍ですが……」
兵は息を整えて続けた。
「当初は五千ほどいた兵が、現在は約四千。しかし、そのうち戦列へ戻れぬ負傷者が二千ほど。さらに、逃亡した兵が千近くいるとの報告にございます」
陣幕が静まり返った。それは、先ほど孫三郎が語った内容とほぼ一致していた。
誰もが理解する。孫三郎は嘘を言っていなかった。尹賢は、何も言えずに口を閉ざした。
しばらくして、高国が静かに尋ねる。
「……その敦丸殿とは、どのような童なのだ?」
孫三郎は少し考えてから、わずかに笑った。
「見た目だけならば、どこにでもいる童にございます。少しばかり愛嬌のある、少しふくよかな普通の童に見えます」
孫三郎は静かに続けた。
「ですが……あの者の考えることは、普通ではございませぬ。敵の兵数、地形、兵の心理――それらを、まるで高き空から戦場を見下ろしているかのように読み取り、敵がどう動くかを先に考えております。策そのものも奇抜ではありますが、何より恐ろしいのは……人がどう考え、どう動くのかを、誰よりもよく理解していることでございます。十歳の童とは思えぬほど、戦というものの本質を見抜いております」
誰も口を挟まなかった。そして、少し困ったように笑う。
「初めて会った折には、まるで孫悟空のような童だと思いました。思うままに駆け回り、人を驚かせ、悪戯をしては笑っておる。その姿は、まこと天衣無縫にございました」
孫三郎は少し考え込むように目を伏せ、やがて苦笑した。
「……いえ、違いますな。今にして思えば、あれは漢の東方朔のような童、と申した方がよろしいでしょう」
諸将が静かに耳を傾ける。
「飄々として人を食ったように振る舞いながら、その胸中では幾重にも策を巡らせております。敵を欺くことも、人の心を動かすことも、まるで遊びのようにやってのける。しかも、それを決して己の手柄として誇ろうとはいたしませぬ」
孫三郎は苦笑を浮かべた。
「正直に申し上げれば……あの者が味方であったこと、まこと天の助けにございました」
ふと思い出したように、さらに言葉を添える。
「もっとも、敦丸殿の傍らに控えていた従者も、ただ者ではございませぬ。戦場を音もなく歩き、敵陣へ紛れ込んでは兵の動きを探り、時には敵兵を煽って噂を広める。その働きは、まるで凄腕の忍びを見ているようでございました」
その言葉に、高国を含めた諸将は沈黙した。
大和田敦丸。
その名は、その場にいた者たちの胸へ深く刻まれることとなった。
東方朔:前漢・武帝に仕えた知恵者・文人。
学識と弁舌に優れ、飄々とした振る舞いや悪戯で人々を驚かせながらも、
鋭い洞察力と機転で帝の信頼を得た。
奇人として知られる一方、優れた政治感覚と知略を備えた中国史を代表する才人。
次はいよいよ都へ!




