第192話 戦〈三淵孫三郎軍〉06
〈三淵孫三郎軍〉
そして、その夜がやってきた。
貴丸にとっても、孫三郎軍にとっても、待ちに待った夜である。
昨夜の肝試し――いや、夜襲ならぬ「夜驚かし」が思いのほか大成功だったため、今夜も怨霊役を任された兵たちは、なぜか皆そわそわと落ち着かない。
「昨日は腰を抜かした奴がおったらしいぞ」「今日は誰が一番驚かせられるかな」「俺の驚かした場所では、悲鳴を上げて転んでおったぞ」
小声で作戦を確認し合う兵たちの表情には、不思議な高揚感が浮かんでいた。
その様子を眺めながら、貴丸は思わず苦笑する。
(こういうのって、どの時代も変わらないんだなぁ。文化祭のお化け屋敷で、脅かし役が妙に張り切るのと同じだな)
夕刻になると、怨霊役の兵たちが一カ所へ集められる。
「じゃあ、今日は新しい化粧をするかんね」
貴丸がそう言うと、兵たちは興味津々で顔を寄せた。
まず、紅で目の周りを赤く染め、その色を鼻筋へ向かって薄く伸ばしていく。
続いて炭を指で擦り、頬へ薄く塗り広げる。頬骨の下を黒くぼかすことで、顔は痩せこけ、生気を失ったように見えた。
さらに髪には松脂を塗り、五つほどに束ねて天へ向かって逆立てる。
仕上げに鬱金で黄色く染めると、人とは思えぬ異様な姿が出来上がった。
貴丸は両腕を胸の前まで持ち上げ、肘を軽く曲げる。手のひらは前へ向け、指は大きく開きながらも、力を入れ過ぎず、獲物を今にも掴みかかろうとするように軽く曲げた。
「指で掴もうとするんじゃなくて、『今にも襲いかかるぞー』って感じでね」
そう言いながら肩を少し前へ突き出し、顎をぐっと持ち上げる。
「目は思いっきり見開いて。口も大きく開けて……」
そこで貴丸は、べろり、と舌を思い切り突き出した。
「うぉぉぉぉぉ……」
両腕を前へ突き出し、膝を少し曲げて、のそのそと歩いてみせる。その動きは本人なりに必死なのだろう。
だが――。
まだ十歳の、少しふっくらとした童が、明るい場で舌を出し、懸命に亡者の真似をしている姿は、どこか愛嬌があり、恐ろしいというより微笑ましい。
一瞬の静寂のあと、「ぶっ……!」誰かが吹き出した。
それをきっかけに、「くくっ……」「あっはっはっ!」兵たちの間から笑い声が広がっていく。
「敦丸殿、それでは鬼というより、腹を空かせた子熊ではござらんか!」
「いやいや、夜に見たら本当に怖いかもしれんぞ!」
「明るいから笑えるんだ!」
口々に囃し立てられ、貴丸は頬を膨らませた。
「もう! 暗闇ならちゃんと怖いんだからね!」
その様子に、兵たちはさらに笑いをこぼす。泰能も肩を震わせながら苦笑した。
「明るい中で見ると、どうにも恐ろしさより愛嬌が勝ってしまうな」
三兵衛も大きく頷く。
「しかし、昨夜のことを思えば、闇の中では話が違います。あれを突然見せられれば、誰でも腰を抜かしますぞ」
兵たちは笑いながらも真剣に頷いた。明るい中での稽古は笑いに包まれていた。
だが彼らは知っている。宵闇に、青白い火が揺れる闇の中で同じ姿を見れば、その笑みは恐怖へ変わることを。
「今日はみんな、閻魔大王の使いだよ。死人を迎えに来た亡者になったつもりで歩いてね」
兵たちは顔を見合わせる。
「閻魔様に怒られませんかな……」
一人が恐る恐る尋ねると、貴丸はあっけらかんと笑った。
「大丈び、大丈び。閻魔さんも、『お、吾輩の使いが増えた』って喜ぶと思うからね」
何の根拠もない言葉だった。
兵たちは半信半疑ながらも、それぞれ化粧を始める。
やがて半刻も経たないうちに、そこには二十人ほどの"閻魔大王の使い"が並んでいた。
その異様な光景に、泰能と三兵衛は揃って何とも言えない顔になる。
「……気味が悪いな」「夢に出そうですな」
そんな二人をよそに、貴丸は周囲を見回して、はっとしたように声を上げた。
「あっ!」
兵たちが一斉に振り返る。貴丸は少し青ざめた顔で言った。
「この化粧、俺の父上と母上に知られたら、絶対怒られるから……みんなお願いだから内緒にしてね。弥太さんも三ちゃんもね!」
その真剣な様子に、一瞬静まり返ったあと――
「ぶっ!」「あはははは!」「そこを心配するですか!」
あちこちで笑い声が弾けた。
もっとも、笑っているのは全員、顔中を真っ赤や灰色に塗り、黄色い髪を逆立てた異形の姿である。
二十人ほどの"閻魔の使い"が腹を抱えて笑う光景は、滑稽なのか恐ろしいのか分からなかった。
そこへ孫三郎が姿を現す。並んだ兵たちを見渡した瞬間、その表情がぴたりと止まった。
「……何だ、この者達は」
思わず漏れた一言に、周囲はまた笑いを堪える。
そんな空気の中、貴丸は両手を叩いて皆の視線を集めた。
「じゃあ、みんな、ご安全に!」
兵たちは自然と姿勢を正す。しかし当然誰も反応しない。兵たちは揃って首を傾げた。
貴丸は照れくさそうに頭をかいた。
「あ、めんごめんご。みんなも『ご安全に』って言ってね」
泰能が尋ねる。「『ご安全に』とは、どういう言葉なのだ?」
貴丸は大きく頷いた。
「うん。おまじないでもあるよ。でもね、口に出して『安全に帰る』って言うと、自分でもちゃんと気を付けようって思えるでしょ」
一人ひとりの顔を見回しながら続ける。
「今日は敵を驚かせに行くけど、一番大事なのは、みんながちゃんと帰ってくること。だから出発するときは、みんなで『ご安全に』って言うんだ」
兵たちは顔を見合わせ、やがて納得したように頷いた。
貴丸はもう一度、大きな声を張る。
「では、みなさん――ご安全に!」
今度は全員が声を揃えた。
「「「ご安全に!」」」
夜空へ響いたその声に、誰もが自然と笑みを浮かべる。
異様な化粧をしたまま笑い合う二十人の姿は、やはりどこか不気味だった。
その様子を眺めていた孫三郎は、小さく苦笑する。
「……笑っておるのに、これほど気味の悪い集団も珍しいな」
その呟きに、貴丸だけが満足そうににやりと笑った。
そして、長い竹の先へ筒を取り付け、その中へ硫黄をまぶした布を仕込んだ兵二人と、護衛と閻魔大王の化粧を施した兵一人を一組として、二十組が白い布を目印にした獣道を通り、それぞれの持ち場へ散っていく。
ただ一人、貴丸だけは違っていた。
腰へ太い縄をしっかりと結び付けられ、その縄の端を泰能と三兵衛が握る。さらに周囲には数本の長竹も抱えながら、慎重に闇の中を進んでいった。
今宵、貴丸は敵陣に最も近い場所で"閻魔大王の化身"を演じる役だった。
配置場所へ向かう途中、泰能が不安そうな顔で口を開く。
「……貴丸殿。本当に大丈夫なのか。敵はすぐそこだぞ。矢でも射掛けられたら――」
貴丸は少しだけ考えるように首を傾げたあと、けろりと言った。
「うーん。わかんない」
あまりにも軽い返事に、泰能も三兵衛も固まる。
「でもさ。もし敵が射ってきたら、その時は弥太さんと三ちゃんが何とかしてね」
貴丸は二人を見上げて、にこりと笑った。
「「……」」
あまりにも無茶振りだった。三兵衛は思わず苦笑いを浮かべたが、その笑みの奥には隠しきれない緊張が滲んでいる。
やがて所定の場所へ到着する。近くに生えていた大木へ三兵衛がするすると登り、枝へ縄を回すと、ゆっくりと縄を引き始めた。
黒い布を頭から被った貴丸の体が、音もなく闇へ浮かび上がっていく。
月明かりの届かぬ枝葉の間に、その姿は静かに吊り下げられた。準備は整った。三兵衛が小さく口笛を鳴らす。
それが合図だった。
貴丸は黒い布を音もなく払い落とし、同時に周囲へ散っていた兵たちが一斉に竹筒へ火を移す。
ぼうっ――。
燃え上がった炎は赤でも橙でもない。青白く、ゆらゆらと揺れる、人魂のような不気味な光だった。
その異様な炎が闇へ幾つも浮かび上がると、敵陣からたちまちざわめきが広がる。
「あ、あれは何だ……!」「火の色が違うぞ!」「人魂だ……!」
動揺は波紋のように夜営地全体へ広がっていく。
――その時だった。
吊るされたままの貴丸が、もぞもぞと体を動かし始めた。
異変に気付いた三兵衛が小声で呼び掛ける。
「貴丸様、どうしたのですか?」
すると貴丸も、か細い声で返した。
「三ちゃん……大変なことが起こった……」
その一言で、三兵衛と泰能の顔色が変わる。まさか敵に見つかったのか。それとも縄が切れそうなのか。
ここで策が露見すれば、貴丸だけではない。この場にいる者全員の命が危うい。さらに、こ怪異騒ぎが人為的なものだと知れ渡れば、ここまで積み重ねた策はすべて水泡に帰してしまう可能性もある。
泰能は額へ汗を浮かべながら、小声で問い返した。
「何があったのだ!」
貴丸は泣きそうな情けない声で答える。
「この着物、薄いから……お腹が冷えちゃったみたい。”んこ”したい……もう…漏れそう……どしよ…」
「「……」」
あまりにも予想外だった。
三兵衛は思わず顔をしかめ、泰能は空を仰ぎたくなった。よりにもよって、この瞬間である。
泰能は必死に小声で言う。
「無理だ! 今さら降ろせぬ! 貴丸殿は敵から見えておるのだぞ! ここで動けば策が露見する!」
貴丸の白塗りの顔が、本当に青ざめたように見えた。
しばらく口を真一文字に結んで耐えていたが、やがて観念したように息を吸い込む。
その声は腹の底から響き、張り詰めた苦悶が混じっていたせいか、かえって人ならぬもののような迫力を帯びていた。
「吾輩は――閻魔大王が化身なり」
夜気が震える。
「冥府の門は、すでに開かれた」
敵陣のざわめきがぴたりと止まる。
「罪業深き者どもよ。汝らの名は、すでに閻羅帳へ記された」
闇の向こうから、誰かが短く悲鳴を上げた。
「なおも兵を進め、この地を穢すならば、一人残らず八大地獄へ堕とし、永劫の責め苦を与えよう」
低く響くその声は、夜営地全体を這うように広がっていく。
言い終えた直後だった。貴丸の顔が一瞬だけ苦悶に歪む。
腹を押さえたいのを必死に堪えるように体を震わせ、それでも敵陣をゆっくりと睥睨する。
そして――。
ふっと口角を吊り上げ、不気味に、にやりと笑った。
その笑みを目にした三好軍の兵たちは、本物の閻魔大王がこちらを見下ろしているのだと信じ込み、あちこちから悲鳴とどよめきが広がっていった。
次の瞬間だった。
ぽとぽと、ぽとり、と貴丸の足元へ何かが落ちた。
そして――。夜風に乗って、何とも形容し難い強烈な臭気が辺り一帯へと広がっていく。
泰能がぴくりと鼻をひくつかせ、三兵衛も思わず顔をしかめた。
「……まさか……も、漏らしたのか…」
泰能が貴丸を見上げる。
貴丸は吊るされたまま、やりきった笑みを浮かべていた。
その臭気は風に乗り、やがて三好軍の夜営地にも届いたらしい。ほどなくして、敵陣から悲鳴にも似た怒号が次々と上がり始めた。
「く、臭ぇ!」「毒だ!」「閻魔様が毒気を吐いたぞ!」「吸うな!」「瘴気だ!」「吸えば地獄へ引きずられるぞ!」
恐怖に支配されていた兵たちは、目に見えぬ臭気にまで意味を見いだし、夜営地はたちまち阿鼻叫喚の渦へと変わっていく。
その様子をちらりと見届けると、貴丸は慌てて黒い布を頭から被り、小声で叫んだ。
「三ちゃん! 早く下ろしてぇ!」
「は、はい!」三兵衛は急いで縄を緩める。
するすると貴丸の体が地面へ降ろされると、周囲にいた仲間の兵たちは一歩、また一歩と自然に距離を取った。
誰も近寄ろうとしない。
泰能だけが複雑な表情で貴丸を見つめていた。
やがて木から降りてきた三兵衛は、貴丸を見るなり一瞬だけ顔を歪めたが、すぐに表情を引き締める。
「では私は、この閻魔様の護符を敵陣へ撒いて参ります。その……あとは、泰能様……貴丸様をお願――」
そこまで言うと、三兵衛は慌てて鼻と口を押さえ、一目散に夜の闇へ駆け去っていった。
その背中を見送りながら、泰能は苦々しい顔で尋ねる。
「……我慢できなかったのか」
貴丸は悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「しょうがないよ。出物腫れ物所構わずって言うでしょ?」
「威張って言うことではないし、その言葉は何なのだ? はじめて聞くぞ?」
泰能は深々とため息をつく。
すると貴丸は眠そうに目をこすりながら言った。
「弥太さん、眠いし疲れたぁ。抱っこして帰ってぇ」
「……」
泰能は無言のまま貴丸を見る。
そして周囲を見回した。見張りの兵、竹を持つ兵、護衛役の兵。
皆、なぜか一斉に視線を逸らした。誰一人として目を合わせようとしない。
「……おのれら…」
誰も助ける気はないらしい。
泰能は観念したように大きく息を吐くと、懐から布を取り出し、鼻と口へぐるぐると巻き付けた。
そして貴丸の前へしゃがみ込む。
「ほれ」
「やったー、さずが弥太さん! さすやた!」
貴丸は嬉しそうに背中へ飛びつく。
その瞬間。ぬちゃっ。
「…………」
泰能の手に、何とも嫌な感触が伝わった。だが彼は何も考えないことにした。考えたら負けだと思った。
黙々と歩き始める泰能の背で、貴丸は船を漕ぎながら呟く。
「ここまで面倒見てくれるなんて……もう弥太さん、俺の父上だねぇ」
「十にもなって粗相をする童の父になど、私はなりとうない」
泰能は顔をしかめたまま即座に言い返す。
そのやり取りに、周囲の兵たちは肩を震わせながら苦笑していた。
しばらく歩いたところで、貴丸が眠そうな声でぽつりと言う。
「これで弥太さん、この先ずっと幸せだねぇ」
「……なぜだ」
「俺の運が付いたから」
「その"運"ではあるまい……」
一瞬の静寂。次の瞬間、周囲の兵たちから「ぶっ」と堪えきれない笑い声が漏れた。
泰能だけは最後まで笑わなかった。
いや、笑えなかった。
陣へ戻るまでの道中、彼は終始顔をしかめたまま歩き続けたという。
慶久にもう二度と閻魔大王の己主賦礼はするなと言われてるのに、、
未遂を含めると、今回で何回目なんでしょうね。。
理由はいずれ。。
まぁ、あの臭気がそんなに広がるわけはないでしょうけど、
まぁ、ね、、物語ですから。。
ちなみに「第189話 戦〈三好元長軍〉06」のポチが多いのか。。
なんでだろ。。




