第191話 戦〈三淵孫三郎軍〉05
〈三淵孫三郎軍〉
日が暮れると――。
三好軍と正面から槍を合わせることなく大きな打撃を与えた孫三郎軍は、夜になると再び静かに動き始めた。
昼間とは違い、闇の中で動けるのは孫三郎軍だけだった。事前に貴丸が用意させた獣道がある。
草や低木には、小さく裂いた白布が巻き付けられ、月の薄明かりでも道筋だけは判別できるようになっていた。その道には竹屑も折れ枝も菱の実も一切撒かれておらず、安全に歩けるようになっている。
兵たちは白布だけを頼りに音もなく移動し、三好軍を取り囲むように散開していった。
それぞれの兵が手にしているのは、一本の長い竹。その先には竹筒が括り付けられ、中には硫黄をまぶした布が詰められている。
やがて、闇のどこかから小さく法螺貝が鳴った。
「ぼぉぉぉぉ……」
戦を告げる勇ましい音ではない。
耳を澄ませなければ聞き逃してしまうほど弱々しく、不気味な響きだった。
それを合図に、兵たちは竹筒へ火を移す。
ぼっ――。
燃え上がった炎は、赤でも橙でもなかった。
硫黄をまとった火は青白く揺らめき、まるで夜空を漂う人魂のように河原へ浮かび上がる。
兵たちは命じられた通り、その炎をゆっくりと左右へ揺らした。青白い火が闇の中をふわり、ふわりと漂う。
やがて三好軍の陣から、ざわめきが広がり始めた。
「……何だ、あの火は」「あんな色の火があるものか」「人魂ではないのか……」
ざわめきは次第に大きくなっていく。
その時だった。
青白い炎の陰で、黒布を被って地面へ伏せていた兵たちが、一斉に立ち上がった。
黒布を払い落とす。現れたのは、白い装束のような着物をまとい、白粉で顔を真っ白に塗った兵たちだった。
彼らは何も言わず、ただ闇の中へ静かに立っている。
「ひっ……!」「ば、化け物だ!」「怨霊だ!」
三好軍のあちこちで悲鳴が上がる。
さらに後方では、別の兵が長い竹の先へ白装束を括り付け、高々と掲げてゆっくり揺らした。闇の中で白い人影だけが、音もなく左右へ揺れる。
兵たちの恐怖は一気に広がった。
そこへ再び法螺貝が響く。今度は別の場所から。続いて、闇の中から低く経を唱える声が聞こえてきた。
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」
さらに太鼓の縁を木で叩く。
コン、コン、コン……木魚を思わせる乾いた音が、夜気に溶けるように響いていく。
まるで戦場全体が巨大な葬列になったかのようだった。
貴丸は、その様子をしばらく楽しむように眺めると、にやりと口角を上げた。
「じゃあ、そろそろかな」
小さく呟き、息を大きく吸い込む。
そして次の瞬間――。
「きゃああああぁぁぁぁっ!」
甲高い悲鳴が、夜の河原を切り裂いた。
童の声とは思えぬほど鋭く、悲痛な叫びは、静まり返った闇へどこまでも響き渡る。
不意を突かれた三好軍の陣が、一斉にどよめく。
「ひっ……!」「な、何だ今のは!」「女の声だぞ!」「怨霊だ……!」「出たぞ!」「逃げろ!」
誰か一人が叫べば、その恐怖は瞬く間に陣中へ伝染した。
十分に混乱が広がると、白装束の兵たちは再び黒布を被り、青白い炎も静かに消される。
敵の物見に見つからぬよう獣道を伝って移動し、しばらくすると河原の別の場所で再び同じことを繰り返す。
法螺貝。読経。木魚のような音。青白い人魂。白い亡者。そして、悲鳴。
それらは夜明けまで場所を変えながら断続的に続けられた。
一方、孫三郎軍では交代で耳へ布切れを詰め、順番に休息を取っていた。
そのため、自軍の騒ぎに眠りを妨げられることなく、兵たちは十分な睡眠を取ることができた。
深夜の怪異に振り回され、眠れぬ夜を過ごしているのは三好軍だけだった。味方が眠れれば、それで十分だった。
その光景を眺めながら、孫三郎は苦笑混じりに呟く。
「……何も知らぬ敵は、たまったものではないな」
貴丸は悪戯が成功した子どものように、にやりと笑った。
「たぶん明日の朝はまともには攻めてこれないよ。みんな眠れてないだろうし、朝はうちはゆっくりできそうだね」
そして敵陣へ目を向けたまま、小さく指を折る。
「兵が逃げるのは……二、三百くらいかな。五百は難しいと思うけどね。うひひっ」
まるで明日の天気でも話すような口調だった。
孫三郎は思わず背筋へ冷たいものが走るのを感じた。日中は、敵が踏む地面そのものを武器とし、進軍を止める。
夜は恐怖そのものを敵へ植え付け、心を折る。しかも、それを考えたのはまだ十歳の童である。
槍も刀もほとんど交えず、敵を傷つけ、疲弊させ、逃亡兵まで計算に入れている。
――この童が敵ではなく、味方でよかった。孫三郎は心の底からそう思った。
そして翌朝。
物見が息を切らして陣へ駆け込んできた。
「ご報告! 三好軍より逃亡兵が続出! 数百人が陣を離れております!」
その報を聞いた孫三郎は、しばらく何も言えなかった。
ただ敵陣の方角をじっと見つめた。
昨夜、貴丸が何気なく口にした予想が、そのまま現実になっていた。
昨夜の奇策によって、三好軍から数百人もの逃亡兵が出たという報せは、あっという間に孫三郎軍の陣中へ広まっていた。
敵は五千、こちらは千。
数だけを見れば絶望的な戦であるはずなのに、陣中には不思議なほど落ち着いた空気が流れていた。
「今日は午前中は慌てなくてよい。十分に備えよ」
孫三郎の命令もすでに全軍へ行き渡り、兵たちは温かな飯を食べ、武具を整え、仲間と言葉を交わしながら静かに戦支度を進めている。
とても兵数で劣る軍とは思えぬ落ち着きだった。
そんな兵たちの間を、貴丸――いや、今では誰もが「敦丸」と呼ぶ童が、にこにこと笑いながら歩いていく。
「おっす! オラ、敦丸っす! 今日も頑張りまっしょい!」
気軽に声を掛けられた兵たちも、思わず笑顔になる。
「おう、敦丸殿!」「今日は何を企んでおるんですか?」
「いやぁ、秘密っす〜!」
そう言って悪戯っぽく笑う貴丸に、あちこちから笑い声が上がった。
つい数日前まで、十歳の童などと侮っていた者は、もはや一人もいない。
昼は敵の足を奪い、夜は敵の心を砕いた。その策を目の当たりにした兵たちは、この小さな軍配者へ揺るぎない信頼を寄せるようになっていた。
やがて使番が駆け寄ってくる。
「敦丸殿、孫三郎様がお呼びにございます」
「ほーい」
軽く手を挙げた敦丸は、そのまま陣幕へ向かった。
軍議には昨日と同じ顔ぶれが揃っている。全員の視線が自然と敦丸へ集まった。
敦丸は地図を眺めながら、いつもの調子で口を開く。
「今日はね、三好さんの足軽さんたちは、あんまり元気ないはずなんだよね。昨日あれだけ痛い目に遭って、夜もほとんど眠れてないだろうしね。へへっ」
武将たちは黙って頷く。
「だから今日は、どっちかっていうと騎馬が中心になるよ。昨日と同じように受ければ十分じゃないかな」
そう言うと、敦丸は少し首を傾げた。
「それに元長さんも、足軽大将さんたちも、昨日の負けと夜の騒ぎで頭の中がぐちゃぐちゃだと思うんだ。そんなときに無理して難しいことは考えられないからね」
そして、いつものように気の抜けた笑顔を浮かべながら、小さく拳を上げる。
「だから今日も、安心、安全を心がけて戦いましょー。えい、えい、おー」
そのあまりにも気の抜けた掛け声に、陣幕の中から思わず失笑が漏れた。
張り詰めていた空気が和らぎ、武将たちの表情からも自然と力が抜ける。
孫三郎も穏やかに頷いた。
「では、敦丸殿の策どおりに進める。各々、持ち場につけ」
武将たちは一斉に立ち上がり、それぞれの持ち場へ散っていく。
それから一刻ほどして、法螺貝が戦場に鳴り響いた。
三好軍が再び攻勢に出たのである。しかし、その動きは昨日のような勢いを欠いていた。
足軽たちは慎重に前へ進み、騎馬隊も様子を窺うように動く。どこか探るような、力を測るような攻め方だった。
その様子を見つめていた孫三郎は、小さく息を吐く。
「……やはり、敦丸殿の読みどおりか」
敵は本気で勝負を決めに来たのではない。
まずはこちらの出方を探ろうとしている。
その日は大きな動きもないまま時が過ぎ、西へ傾く夕日が戦場を赤く染めていった。




