第190話 戦〈三好元長軍〉07
〈三好元長軍〉
そして――また、恐怖の夜になった。
元長の命により、この日の夕餉は、いつもより少し多めに振る舞われた。
兵たちは普段より多い飯と汁を口にし、束の間ではあったが笑顔を見せる者もいる。
だが、その安堵は長く続かなかった。
日が沈み、群青色だった空がゆっくりと闇へ染まっていく。それにつれて、兵たちの表情からも笑みが消えていった。
昨夜見た青白い火。白装束の亡者。夜闇へ響いた不気味な読経。
あの恐怖は、まだ誰一人として忘れられずにいた。
気づけば兵たちは自然と焚き火の周りへ集まっていた。一人では眠れない。林の近くにはいたくない。
誰に言われるでもなく、皆が陣の中央へ、中央へと身を寄せ合っていく。
そして――深夜。
元長は昨夜の教訓を踏まえ、夜警を倍に増やしていた。
林沿いには幾筋もの松明が灯され、弓兵が一定の間隔で配置される。
「何者であれ、人ならば必ず射よ」
そう命じた元長は、自らも夜更けまで本陣で報告を待ち続けていた。だが、その厳重な警戒網を嘲笑うかのように、それは空から現れた。
「な……何だ……あれは……」
見張りの兵が震える指で夜空を指差す。その声に兵たちは一斉に顔を上げた。
木々の梢の向こう。淡い月明かりを背に、一つの白い影がゆっくりと空から降りてくる。
童ほどの背丈。全身は白装束に包まれ、死人のように青白い顔。
目の周りだけが血を塗ったように赤く縁取られ、頬は骸骨のように痩せこけている。頭からは五本の角のような突起が伸び、金色の髪が夜風に揺れていた。
その周囲では、幾つもの青白い人魂がふわりふわりと漂っている。
異形は両腕を大きく広げ、苦しむ亡者のようにもがきながら、音もなく兵たちの頭上へ降りてきた。
誰も声を出せない。槍を握る手だけが震えていた。
やがて異形は兵たちをゆっくりと見回し――
口元だけが、不気味に吊り上がった。
「我は――閻魔大王が化身なり」
腹の底まで響く低い声が、夜営地へ静かに広がる。
「冥府の門は、すでに開かれた」
「罪業深き者どもよ。汝らの名はすでに閻羅帳へ記された」
「なおも兵を進め、この地を穢すならば、一人残らず八大地獄へ堕とし、永劫の責め苦を与えよう」
兵たちの顔から血の気が引いた。誰一人、身動きすらできない。
次の瞬間。閻魔大王は大きく口を開く。ふわり、と白い煙が吐き出される。
煙は夜風に乗って兵たちの頭上へ流れ、その直後、鼻を突く硫黄にも似た強烈な悪臭が夜営地を包み込んだ。
「うっ!」「く、臭ぇ!」「毒だ!」「毒気を吐いたぞ!」
兵たちは一斉に鼻と口を押さえる。
「吸うな!」「閻魔様の瘴気だ!」「吸えば地獄へ引きずられるぞ!」
恐怖は瞬く間に広がり、悲鳴が夜営地中へ響き渡る。
その混乱を見下ろすように、閻魔大王はゆっくりと夜空へ昇っていった。
木々の梢を越え、闇へ溶け込むように姿を消す。あとに残ったのは、鼻を刺す悪臭だけだった。
だからこそ兵たちは確信する。今見たものは夢ではない。
この世ならざる存在が、確かに現れたのだと。
――その時だった。
「う、うわぁっ!」
別の場所から悲鳴が響く。
兵たちが振り向くと、林の縁には先ほどの閻魔大王によく似た白い異形が立っていた。
真っ白な顔。赤く縁取られた目。異様に痩けた頬。
両腕を大きく広げ、じっと兵たちを見つめている。
「あそこにも!」「川辺にもおるぞ!」「違う! あっちにも!」
気づけば夜営地のあちらこちらに、同じ姿の異形が次々と現れていた。
木陰。草むら。川岸。丘の上。一体ではない。二体、三体……十体。
姿を現しては木陰へ消え、消えたと思えばまた別の場所へ現れる。
まるで冥府の亡者たちが、閻魔大王に率いられてこの世へ現れたかのようだった。
「祟りじゃ!」「閻魔様が亡者を連れて来た!」「我らを迎えに来たんだ!」「逃げろ!」
誰か一人が叫ぶと、その恐怖は雪崩のように陣中へ広がる。
兵たちは槍も盾も投げ捨て、我先にと逃げ出した。その場へ伏して震えながら念仏を唱える者。
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」
泣きながら地面へ額を擦り付ける者。
「許してくだされ!」「もう戦いませぬ!」「故郷へ帰ります!」「命だけはお助けくだされ!」
半狂乱になって叫ぶ者まで現れた。
もはや軍としての統制は完全に失われていた。剣も槍も人を斬ることはできる。
だが、この夜、兵たちの心を切り裂いたのは刃ではなく恐怖だった。
元長軍の夜営地は、一夜にして戦場ではなく、亡者がさまよう冥府の入口と化していた。
そして、夜が明けた。
東の空は白み始めていたが、元長の陣に朝の清々しさはなかった。昨夜も、ほとんど誰一人として満足に眠れてはいない。
元長をはじめ、叔父の長光、寒川左馬允、侍大将や足軽大将たちの目の下には濃い隈が浮かび、顔からは血の気が失せていた。
夜明けとともに各隊から被害の報告が届く。その内容は、戦で受けた損害以上に彼らの心を重くした。
本陣へ入ってきた十河が、静かに膝をつく。その表情は苦渋に満ちていた。
「元長様……ご報告申し上げます」
元長は無言で先を促す。
「昨夜の騒ぎにより、さらに五百ほどの兵が陣を離れたようにございます」
その一言に、本陣の空気が凍り付く。
「……ご、五百だと…」
元長は思わず呟いた。まだまともな合戦すらしていない。敵と刃を交えたわけでもない。
それにもかかわらず兵は日に日に減り続け、残った者たちも恐怖に支配されていた。
昨日まで戦えた兵が、今日は槍を握ることすら恐れている。これでは軍として成り立たない。
十河はさらに言葉を続けた。
「もう一つ、気掛かりなことがございます。兵の間で、本国阿波へ高国方が攻め込み、多くの城が落ちたとの噂が広まっております」
元長の眉がぴくりと動く。
「何だと」
「阿波では味方が各地で応戦に追われ、この戦場へ援軍を送る余力はない、と。そのような話を多くの兵が口にしております」
「誰が言い始めたのだ?」
十河は力なく首を振った。
「それが分かりませぬ。気付けば陣中のあちらこちらで囁かれておりました」
元長は即座に寒川へ命じる。
「流言を口にする者は厳しく取り締まれ。不安を煽る者は敵の間者と思え。各隊へ触れを出せ」
寒川は侍大将たちへ命を伝え、一斉に陣中の捜索が始まった。
怪しい者を捕らえて問い質す。しかし、その者は皆、同じように答えた。
「別の者から聞きました」
その"別の者"を探せば、また別の兵の名が挙がる。さらにその兵を尋ねれば、今度は別の者を指す。
まるで糸を手繰っているつもりが、霧を掴んでいるようだった。
半日かけて調べても、最初に噂を流した人物だけは誰一人として知らない。
流言は煙のように陣中へ広がり、その出所だけが跡形もなく消えていた。
元長は静かに息を吐く。
(これも敵の策か……)怪異だけではない。
人の口まで利用して兵の心を揺さぶってくる。姿なき敵と戦う難しさを、元長は改めて思い知らされるのだった。
元長は深く息を吐いた。これも敵の策なのだろう。昨夜の怪異だけではない。
兵の不安を煽る流言まで流されている。しかも、その出所が分からない。
探らせても辿り着けず、否定しようにも誰が最初に言い始めたのかさえ掴めなかった。
重苦しい空気のまま朝餉を終えると、元長は改めて重臣たちを本陣へ集めた。
「軍議を始める」
そう告げようとした、その時だった。陣の外から、ざわめきが聞こえてくる。
最初は遠くで誰かが口論している程度だった。だが、その声は瞬く間に大きくなり、怒鳴り声が幾重にも重なっていく。
「何事だ」
元長が顔を上げる。
寒川はすぐ近くの侍大将へ命じた。
「様子を見て参れ」
侍大将は足早に陣幕を出ていった。しかし、騒ぎは収まるどころか、ますます激しさを増していく。
怒号。悲鳴。何かを奪い合うような叫び声。
やがて陣幕の外で控えていた侍大将たちまで、次々と飛び出していった。
本陣に残ったのは、元長と叔父の長光、それに数名の近習だけだった。
どれほど経っただろうか。ようやく騒ぎが静まり始め、寒川を先頭に侍大将たちが戻ってきた。
寒川の手には、一枚の紙が握られている。
「何があったのだ?」
元長が問うと、寒川は深く頭を下げ、その紙を差し出した。
「これにございます」
元長は受け取る。それは粗末な和紙を折り畳んだ護符だった。
「昨夜から兵の間で、この護符が出回っております。『これを身に付ければ閻魔大王の祟りを免れる』と書かれているようでございます」
元長は護符を見つめたまま黙り込む。
寒川が苦々しく続けた。
「数が足りませぬゆえ、兵どもが奪い合いを始め、ついには殴り合いにまで発展いたしました」
元長は静かに顔を上げた。
「そのような物はすべて集めよ。人の心を惑わすだけだ」
命令は直ちに実行された。だが、それすら敵の思う壺だった。
「護符まで取り上げられた」「閻魔様のお怒りを買うぞ」「これでは助からぬ」
そんな声が陣中へ広がり、兵たちの不安はかえって一層深まってしまう。元長は何も言えなかった。
人魂。怨霊。閻魔大王。毒気。流言。そして今度は護符。
一つひとつを見れば他愛もない。だが、それらは絶妙な順序で兵たちの心へ入り込み、恐怖を少しずつ膨らませていた。
敵が狙っているのは兵の命ではない。兵の心だ。元長は静かに拳を握り締めた。
(これほど巧みに兵の心を操るとは……)怪異を見せる。偽書を流す。流言を広める。
そして最後には、恐怖から逃れるための"救い"まで用意する。
恐怖を植え付け、その恐怖を利用して人心を支配する。気が付けば、兵たちは敵ではなく、自らの恐怖と戦っていた。
陣に残る戦える兵は、すでに二千を割り込んでいる。
しかも、その全員が戦えるわけではない。
槍を握っていても足が前へ出ない者。夜が来るのを恐れ、空ばかり見上げる者。竹林を見るだけで顔を青ざめさせる者。
そんな兵が、陣のあちらこちらにいた。
この軍で孫三郎軍へ総攻撃を仕掛けるなど、もはや夢物語だった。
不意に敵陣から、ひときわ大きな歓声が響き渡った。
兵たちは一斉に淀川の対岸を振り向いた。元長も陣幕を出て、その先を見る。
夕暮れの光を受けた孫三郎軍の陣では、新たな旗印が次々と掲げられていた。
百や二百では利かない。色とりどりの旗が数百本、風を受けて一斉に翻っている。
新手の到着を誇示するかのようだった。
元長は即座に命じる。
「物見を出せ。敵の旗印を確かめよ。本当に増援か、それとも偽装なのか」
数刻後、物見が戻る。
「申し上げます。竹林へ阻まれ近付けませぬ。敵は巧みに物見を警戒しており、実数は確認できませなんだ」
元長は静かに唇を噛んだ。
「……ならば、増援ありとして備えるしかないか」
確かめたくとも確かめられない。その曖昧さが、兵たちの不安をさらに大きくしていく。
「敵の増援だ……」「俺たちの援軍は、やはり来ぬのか……」
誰かが漏らしたその一言だけで十分だった。
兵たちの顔から、残っていたわずかな気力までも消えていく。
元長は周囲を見渡した。侍大将も、足軽大将も、誰一人として口を開かない。皆、ただ黙って敵陣を見つめていた。
元長は静かに目を閉じる。
――明日の朝、この陣には、あと何人の兵が残っているのだろうか。
その答えを思い描くことすら恐ろしく、若き総大将は深く顔をしかめた。
初めて任された大軍の指揮。
その重責が、今さらのように十七歳の肩へ重くのしかかっていた。




