第189話 戦〈三好元長軍〉06
〈三好元長軍〉
そして、早朝――。
三好元長は本陣で腕を組み、険しい表情のまま戦場を見つめていた。
昨夜の怨霊騒ぎは、兵たちの心に深い傷を残していた。
陣を逃げ出した者は三百余。残った兵たちも疲労の色は隠せず、その顔には恐怖が色濃く刻まれている。
もはや積極的に攻め込める状況ではなかった。
敵陣の前には数々の罠が張り巡らされ、兵の士気も大きく落ち込んでいる。無理に攻勢へ出れば、いたずらに被害を増やすだけだ。
今の元長にできることは、高国軍本隊の到着まで、何とかこの陣を維持することだけだった。
ここで淀川を明け渡せば、都へ通じる道は敵の手に落ちる。それだけは、何としても避けなければならない。
元長は静かに諸将を見渡し、命を下した。
「無理な攻めはするな。弓と印地で敵を牽制せよ。騎馬隊は前へ出し、敵へ圧力を掛け続けるのだ」
さらに、昨夜の怪異についても矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「夜、怪異を見た者は一人残らず呼べ。何を見たのか、一人ずつ聞き取れ」
「夜番は倍に増やせ。松明も増やし、林の周囲は絶えず巡回させよ」
「山伏と修験者、それに僧を招け。あれが怪異なのか、人の仕業なのか、見極めさせるのだ」
兵の動揺を鎮めるには、まず怪異の正体を突き止めるしかない。
元長はそう考えていた。だが、夜通し行われた聞き取りは、期待とは正反対の結果に終わる。
兵たちの証言は、驚くほど食い違っていた。
「間違いなく青白い人魂でした」
「いや、人ではありませぬ。人ならざる化け物でした」
「歩くのではなく、地面を滑るように音もなく動いておりました」
「仲間が林へ引きずり込まれ、そのまま戻ってきませなんだ」
「しくしくと泣く童の声が聞こえました」
「目の前で物の怪が姿を消しました」
「空へ吸い込まれるように消えていったのを、この目で見ました」
誰一人として、同じ話をする者はいない。
証言は恐怖によって膨らみ、尾ひれが付き、怪異の姿は聞くたびに変わっていく。
結局、正体へ迫る手掛かりは何一つ得られなかった。
そして、軍議後の午前。
命令を受けた兵たちは、再び淀川を渡り始めた。しかし、その進軍は昨日までとはまるで違う。
川を渡る間こそ何の妨害も受けないものの、対岸へ足を踏み入れた途端、誰もが自然と足元へ視線を落とした。
昨日と同じように、地面には竹屑や小枝、鋭い菱の実が無数に撒かれている。
踏み抜けば足を傷つける。だから兵たちは慎重に歩を進めた。
だが、彼らが警戒していたのは足元だけではない。
昨夜の怪異が脳裏から離れず、林の奥や竹藪へ何度も視線を向ける。
白い影が現れるのではないか。人魂が浮かぶのではないか。そんな恐怖が、兵たちの心へ根を下ろしていた。
竹林が風に揺れただけで、肩を震わせる者さえいる。
騎馬隊は左右へ大きく展開し、敵陣へ回り込もうとした。
だが――。
「馬が止まった!」
先頭を駆けていた馬が突然つまずき、騎手もろとも前へ投げ出される。
慌てて地面を見れば、草むらへ巧妙に隠された低い竹柵が行く手を塞いでいた。
さらに別の場所では、地面へ伏せられていたしなる竹が勢いよく跳ね上がり、馬の前脚を払う。
驚いた馬が嘶き、暴れ回る。たちまち隊列は乱れた。
「くそっ!」
騎馬武者たちは歯噛みする。思うように前へ進めない。
「火矢で焼き払ってはどうだ」
誰かが声を上げた。地面へ撒かれた竹屑も、竹柵も焼き払えば道は開ける。
もっともな案だった。だが、すぐに別の武将が首を振る。
「ならぬ。この風向きでは火は敵陣ではなく、こちらへ流れる」
この季節は、川から元長軍の陣へ向かって風が吹いている。
火を放てば、敵より先に自軍の陣が炎へ包まれる危険があった。
結局、中央の狭い突破口を力押しする以外に道はない。
残る百数十騎ほどが、一斉に駆け出した。しかし、道幅が急に狭まった瞬間だった。
敵陣から弓兵と印地兵が一斉に矢と石を浴びせる。
突破を試みるたびに馬が倒れ、騎手が地へ投げ出される。
ついに騎馬隊は敵陣へ届くことなく、引き返すしかなかった。だが、この日の敗因は罠だけではない。
兵たちの心は、すでに昨夜の怪異に囚われていた。怨霊を見たと信じる者。亡者へ追われ、傷付いた仲間を目の当たりにした者。
誰もが、林の向こうには人ならざるものが潜んでいると信じ始めていた。
命じられれば前へは出る。だが、その足取りは明らかに重い。一歩踏み出すたび、怯えたように辺りを見回す。
敵と戦う以前に、恐怖そのものが兵たちを縛り付けていた。
その日の夕刻。
元長は重臣たちを本陣へ集め、軍議を開いた。
床几を囲む者たちの表情は重い。攻勢へ出られず、兵の士気も戻らない。
寒川左馬允が静かに口を開いた。
「当面は兵を落ち着かせるほかありますまい。蓄えた兵糧を少し余分に配り、せめて兵を陣へ繋ぎ止めねばなりませぬ」
元長も静かに頷く。
「致し方あるまいな」
その時だった。寒川が懐から一通の書状を取り出した。
「元長様。気になるものがございます」
元長は書状を受け取り、目を通す。
そこには、讃岐勢を率いる香西元定が密かに三淵孫三郎へ内応すると記されていた。
部屋の空気が一変する。寒川が静かに尋ねた。
「香西殿。これは事実か」
香西元定は間髪入れず首を振る。
「断じて違いまする。そのような書状、初めて目にいたしました。我らは細川様、そして三好様へ忠節を尽くしております」
すると、阿波衆を率いる三好長光が低い声で口を開いた。
「しかし妙ですな。昨日、先陣を命じられたのは我らも香西殿も同じ。それにもかかわらず、香西勢だけ被害が少なかったと聞いておりますが」
香西の眉がぴくりと動く。
「何を申される。言い掛かりも甚だしい!」
「偶然とは思えませぬな」
互いに一歩も譲らず、軍議の場は険悪な空気に包まれていく。
元長が鋭く一喝した。
「やめよ! このような書状こそ敵の狙いかもしれぬ。味方同士で疑い合えば、それこそ敵の思う壺だ」
場は静まった。だが、元長はそこで終わらせなかった。書状を机へ置き、侍大将たちを見渡す。
「この書状は誰が見つけたのだ。いつ、どこで拾われたか調べよ」
直ちに調べが行われた。
しかし戻ってきた答えは曖昧だった。
「荷駄の近くに落ちていたと聞きます」「炊事場で兵が拾ったようでございます」「誰が置いたかを見た者はおりませぬ」
証言は食い違い、出所は最後まで掴めなかった。
「夜中に敵が潜り込んでいたのか……」
元長は低く呟き、陣内の見回りをさらに厳しくするよう命じる。
それでも、疑念は消えなかった。香西と森はなお互いを睨み続けている。
元長が場を収めても、一度芽生えた疑いだけは誰の心からも消えず、静かに陣中へ広がっていくのだった。
その頃――。
本陣では重臣たちが軍議を続ける一方、その外では、誰にも気づかれぬまま別の火種が静かに広がり始めていた。
「聞いたか。阿波へ高国方が攻め込んだらしい」「讃岐でも高国方へ寝返る国衆が出たとか」
「だから援軍が来ぬのか……」「俺たちは、このまま見捨てられるのではないか」
そんな噂は焚き火の周りで囁かれ、炊事場で語られ、水汲み場ではさらに尾ひれが付きながら、兵から兵へと伝わっていく。
「阿波はもう落ちたらしい」「讃岐も危ないそうだ」「なら、この戦も負け戦か……」
根拠など何一つない話だった。だが、不安を抱えた兵ほど、信じたい話を信じてしまう。
誰かが口にした曖昧な噂は、半刻も経たぬうちに、まるで事実であるかのように陣中を駆け巡っていた。
では、その噂を最初に流したのは誰だったのか。そう尋ねられても、はっきり答えられる者はいない。
「ああ、あの男か」「さっきまで、あっちにいたぞ」
誰もがそう言う。だが、その場所へ行っても、もう姿はない。
どこにでもいそうな地味な顔立ち。
農民兵の中へ紛れれば、二度と見つけ出せないような男だった。
その男は――。
貴丸にいつも振り回されている三兵衛と、どこかよく似た男だった。




