第188話 戦〈三好元長軍〉05
〈三好元長軍〉
その夜――。
戦場を包む闇は深かったが、満ちきらぬ月が淡い光を落とし、あたりをうっすらと照らしていた。
昼の戦で傷を負った兵たちは、あちこちで苦しげな呻き声を漏らしている。傷口を押さえながら眠ろうとする者もいれば、痛みに耐えきれず何度も寝返りを打つ者もいた。
そんな中、見張りの兵たちは槍を抱え、静まり返った林へ神経を尖らせていた。
その時だった。一人の兵が、林の奥を指差す。
「……おい、今、何か光らなかったか」
その言葉に周囲の兵も一斉に目を向ける。
暗い木々の間で、小さな青白い火が、ふわりと浮かび上がっていた。
人の拳ほどの大きさしかない。風もないのに、その火は生き物のようにゆらり、ゆらりと宙を漂っている。
「火……か?」
誰かが思わず呟く。だが、それは焚き火とも松明とも違っていた。冷たささえ感じさせる青白い光。
その異様な色に、一人の兵がごくりと唾を飲み込む。
「赤い火なら敵の物見か、誰かが松明でも持っておるのだろう。だが……あんな青白い火など、人魂としか思えぬ……」
震えた声が、静かな夜へ溶けていく。
その火は木々の間をゆっくりと流れるように進むと、何事もなかったかのように、ふっと闇へ消えた。
兵たちは互いの顔を見合わせる。
「人魂だ……」
誰かが、まるで己へ言い聞かせるように呟いた。
「馬鹿を申すな」
笑って否定しようとする兵もいた。しかし、その笑みは最後まで続かなかった。
林の反対側で、また一つ青白い火が灯る。さらにその奥でも、もう一つ。そして、また一つ。
ぽつり、ぽつりと青白い火は増え続け、いつしか林のあちらこちらを静かに漂い始めた。
まるで見えぬ何者かが、闇の中を歩き回っているかのようだった。
兵たちの間に、ざわめきが広がる。誰もが槍を握る手へ力を込め、林から目を離せなくなっていた。
やがて、その一人が喉を引きつらせた。
「ひっ……!」
その視線の先。青白い火の向こう側。
木立の間に、白い人影が立っていた。全身を白装束で包み、顔までも死人のように白い。
長い黒髪だけが闇へ溶け込み、その姿は音もなく兵たちを見つめている。
風が吹く。白い衣だけが、ふわりと揺れた。
「お……怨霊だ……!」
誰かが悲鳴にも似た声を漏らした。
一人の兵が思わず弓へ手を伸ばしかけた。しかし、その手は途中で止まる。
夜の林では、人影はぼんやりとしか見えない。味方の物見や巡回の者が潜んでいるやもしれず、闇へ向けて矢を放てば味方を射る危険もある。
まして目の前にいるものが、人なのか、それとも人ならざるものなのか、誰にも判じられない。弦を引く者は、一人としていなかった。
その声を合図にしたかのように、林の奥から、また一人。さらに別の場所にも、もう一人。
白い人影が、何体も何体も姿を現しては木々の陰へ消え、消えたと思えば別の場所へ現れる。
この時代、人々にとって物の怪や人魂、怨霊は怪談ではない。
戦で命を落とした者の魂は戦場を彷徨い、生者へ祟りをなす――それは多くの者が疑いもなく信じていたことである。
だからこそ、夜の戦場で青白い人魂を見て、その向こうに白き亡者の姿を認めた瞬間、兵たちの胸を支配したのは、理屈では抗えぬ恐怖だった。
「この地には、本当に人ならざるものが現れた」
そう信じ込んだ瞬間、その恐怖は疑いようのない現実へと変わった。
その時だった。
――ヒュウゥゥゥ……
どこからともなく、細く長い笛の音が流れてきた。
風が泣くような。誰かがすすり泣くような。耳の奥へまとわりつく不気味な音。兵たちは一斉に身を震わせた。
続いて――。
コン……コン……コン……木を打つような乾いた音が響く。
やがて低く響く読経。「南無阿弥陀仏……」「南無阿弥陀仏……」
誰とも知れぬ声が夜闇へ溶けていく。
一人。二人。三人。いつしか四方八方から経が重なり始めた。
まるで亡者を弔う供養が、この闇の中で行われているかのようだった。
さらに。ボォォォォ――。法螺貝が鳴る。
低く長く響くその音が山々へ反響し、夜気を震わせた。
そして、どこからともなく、寂しげな太鼓のような音も聞こえ始めた。
直後。
「きゃああぁぁぁぁぁ――っ!」
人が断末魔を上げるような叫び。また別の方向。さらにもう一つ。
「しくしくしくしく………………もう、やめて…………」
悲鳴とも泣き声ともつかぬ声が、闇の中から次々と聞こえてくる。
兵たちは槍を握る手を震わせた。
「やめろ……」「聞きたくない……」「仏よ……」
祈る者まで現れ始める。
そして人影は、何事もなかったかのように、目の前ですっと木陰へ溶け込んだ。
「待て!」
弓は放てぬ。ならば捕らえるまで――。数人の兵が槍を構えて駆け寄る。だが、木陰へ飛び込んだ時には、そこに人の姿はなかった。
木々の間にも、草むらにも、隠れられる場所などない。
それでも、確かに先ほどまで白い影はそこに立っていたのである。兵たちは互いの顔を見合わせた。
誰一人として口を開けない。背筋を冷たいものが這い上がっていく。
やがて、誰かが震える声で呟いた。
「……消えた」
その一言を境に、張り詰めていた空気が音もなく崩れ始める。
先ほどまで一つしか見えなかった白い影が、今度は林の奥に現れた。
「あそこだ!」
兵が指を差した、その瞬間。
影は木の陰へ滑るように消える。だが、次の瞬間には川辺に立っていた。
さらに草むら。さらに別の木立。気づけば、あちらにも、こちらにも白い影が立っている。
まるで戦場を彷徨う亡者たちが、生者を弄ぶかのようだった。
その時だった。
「ぐあっ!」「痛ぇっ! 足が……!」
白い影を追って林へ駆け込んでいた兵たちが、一人、また一人と呻き声を上げながら戻ってきた。
皆、顔を苦痛に歪め、足を押さえて地面へ膝をついている。
「どうした!」
駆け寄った仲間が問うと、一人の兵は脂汗を流しながら答えた。
「亡者を追って……林へ入ったら……何かを踏んだ……」
足裏を見ると、血が滲んでいた。
鋭く削られた竹片が深く突き刺さり、中には菱の実を踏み抜いた者もいる。
追っていった兵たちは皆、気づかぬうちに林へ仕掛けられていた罠へ踏み込んでしまっていたのだ。
その苦しげな姿を目の当たりにした兵たちは、白い影を追おうとしていた足を止める。
「亡者を追った者ばかりが傷ついておる……」
「祟りだ……亡者へ近づいた者が祟られたのだ……」
誰かが震える声で漏らしたその一言は、瞬く間に周囲へ広がっていった。
誰も追わなくなった。いや、追えなくなったのである。
兵たちの胸へ、理屈では説明できぬ恐怖が静かに染み込んでいった。
その騒ぎは、瞬く間に三好元長の本陣へも伝わった。
深夜にもかかわらず、本陣には各隊の侍大将や足軽大将たちが次々と集まり、陣内は慌ただしさに包まれている。
中央の床几には元長が静かに腰を据え、その左右には叔父の三好一秀をはじめ、重臣たちが顔を揃えていた。元長は一人ひとりの報告へ耳を傾けながら、陣中で何が起きているのかを冷静に把握しようとしていた。
しかし、届けられる報せはどれも常識では考え難いものばかりだった。
最初に口を開いたのは、林際の警戒を任されていた隊の侍大将である。
「林のあちこちに青白い火が現れ、兵どもが人魂だと騒ぎ立てております」
「人魂だと?」元長は眉をひそめた。
「それだけではございませぬ」
続いて別の足軽大将が一歩進み出る。
「白い着物をまとい、顔を真っ白にした亡者のような者が、林や川辺を歩き回っていると申す者が続出しております。追えば姿を消し、気づけば別の場所へ現れると……」
「何を馬鹿な。夜目の見違えであろう」
元長はそう断じた。しかし、その言葉に反論したのは一人ではない。
「初めは皆、そのように考えました。されど、目撃した兵は一人や二人ではございませぬ」
「東の陣でも。西の陣でも同じ報せが参っております。どの隊も同じことを申しております」
次々と重なる報告に、本陣の空気が重く沈んでいく。
元長も、さすがに表情を引き締めた。
兵一人の妄言なら笑って済ませられる。だが、これほど多くの隊から同じ報せが届く以上、何者かが意図的に兵を惑わせている可能性も否定できなかった。
元長は静かに腕を組み、敵の狙いを考え始めていた。
翌朝――。
夜が明けても、本陣には重苦しい空気が漂っていた。
昨夜の騒ぎは夜半を過ぎても収まらず、元長をはじめ長光や寒川左馬允ら重臣たちは、各隊から次々と届く報告への対応に追われ続けていたのである。
ようやく騒ぎが落ち着いた頃には、東の空は白み始めていた。
そのため、本陣に集う将たちは誰一人として満足に眠れていない。
目の下へ濃い隈を作る者。床几に腰掛けたまま舟を漕ぎ、周囲に肩を叩かれてようやく目を覚ます者。
熱い茶を何杯も飲みながら必死に眠気を押し殺す者。
誰の顔にも疲労の色が濃く浮かび、昨夜の出来事がいかに軍全体を振り回したかを物語っていた。
そんな重苦しい空気の中、寒川左馬允が苦渋に満ちた表情で元長の前へ進み出た。
「元長様……その……申し上げにくきことにございます」
元長は嫌な予感を覚えながら顔を上げる。
「何事だ」
寒川は小さく息を吐いた。
「昨夜の騒ぎ以来、陣中では『我らは神仏の逆鱗に触れた』『この戦は仏罰である』との噂が広まっております」
元長の表情が険しくなる。
「……それで」
「歩ける農民兵を中心に、夜陰に紛れて逃散した者、およそ三百。すでに行方の知れぬ者も多く、このまま戻ることはございますまい……」
元長は拳を強く握り締めた。
「負傷した兵たちはどうだ」
「それが……傷の痛みよりも怯えの方が強うございます。『怨霊が迎えに来る』『神か仏様の禍いだ』と口々に申しており、落ち着かせるだけでも一苦労にございます」
元長は黙って目を閉じた。
昨夜見たものが何であったのか、今も分からない。だが、敵が狙ったのは兵の命ではなく、兵の心だった。
その一撃は、三百名の兵を陣から逃散させただけでなく、残った兵たちの心にも、深い恐怖を刻み込んでいた。




