第187話 戦〈三淵孫三郎軍〉04
〈三淵孫三郎軍〉
日が西へ傾き始める頃、孫三郎をはじめ侍大将や足軽大将たちは陣幕の外へ出て、川向こうに見える三好軍の陣を静かに眺めていた。
先ほどまで河原を埋め尽くしていた喧騒は、今では嘘のように静まり返っている。
怒号も、馬のいななきも、兵たちの叫びも聞こえない。
敵は退いた。もっとも、敗走したわけではない。本陣まで下がり、陣を立て直しているだけだ。
しばらく敵陣を見つめていた孫三郎は、やがて皆へ向き直った。
「では、これから先の策について話そう」
その一言を合図に、一同は陣幕の中へ戻っていく。
陣幕の中央には孫三郎の席が設けられ、そのすぐ脇には、当然のように貴丸の床几が置かれていた。
当の貴丸はというと、戦の最中とは思えぬほどのんびりと握り飯を頬張っている。ちょうど食べ終えたところらしく、手のひらについた米粒を一つひとつ摘まんでは口へ運び、最後の一粒まできれいに平らげていた。
侍大将や足軽大将たちもそれぞれの床几へ腰を下ろす。
その後ろには三兵衛と泰能が静かに控え、いつでも貴丸を支えられるよう立っていた。
全員が席に着いたのを見届けると、孫三郎は物見から戻った兵へ視線を向ける。
「三好の様子はどうだ。被害は分かったか」
「はっ。死者は五十ほどかと思われます」
兵は深く頭を下げて報告を始めた。その数字に陣中がわずかにざわつく。五千もの軍勢を相手にして死者五十。
数だけ見れば決して多くはない。しかし、こちらは千しかいない。それでいて敵へこれだけの損害を与えたのであれば、十分すぎる戦果と言えた。
兵はさらに言葉を続ける。
「また、負傷者は二千を超えているものと思われます。命に別状はない者が大半ですが、足裏を傷めた者が非常に多く、まともに歩けぬ兵が続出しておるようです」
その報告に、今度は驚きの声が上がった。
「二千……」「それほどか」
思わず顔を見合わせる者もいる。
兵はさらに続けた。
「加えて、敵の騎馬三十頭ほどを確保いたしました」
その報告には、さすがに陣中から感嘆の声が漏れた。
三好軍にとって騎馬は貴重な戦力である。それを無傷に近い形で三十頭も得られたことは、単なる戦果以上の意味を持っていた。
孫三郎は一つ頷き、今度は自軍について尋ねる。
「こちらはどうだ」
その問いを待っていたかのように、物見の兵は顔を明るくした。
「はっ。こちらは戦死者なし。軽傷者が数十名おりますが、いずれも命に別状はございません」
その一言で、陣幕の中の空気が一変した。
「おおっ!」
誰かが思わず声を上げ、それをきっかけにあちこちから喜びの声が広がっていく。
戦に出て死者が出ない。そんな戦など、誰も経験したことがなかった。
喜びに沸く一同の視線は、自然と孫三郎の隣へ集まる。
そこでは貴丸が、人々の期待など知る由もなく、真剣な顔で鼻をほじっていた。
そして指先についた成果を見つめ、「さて、どうしたものかな」とでも言いたげに首を傾げる。
三兵衛は額に手を当てると、小さくため息をつき、懐から懐紙を取り出して貴丸の指先をそっと拭った。
「……貴…敦丸様。何をやっておられるのですか」
呆れ半分、諦め半分の声だった。隣の泰能も苦笑し、侍大将たちも何とも言えない表情を浮かべる。
つい先ほどまで敵軍五千を翻弄していた策士と、目の前で鼻糞をどう始末するか悩んでいる童が、どうして同じ人物なのか誰にも理解できなかった。
その何とも言えない空気を見渡しながら、孫三郎はわずかに口元を緩めると、皆へ向き直った。
「ここまでは上手くいった。しかし、本番はここからだ。皆、疲れているだろうが、この後も頼む」
その一言で陣中の空気が引き締まる。
すると孫三郎の側に控えていた武士が、勢いよく立ち上がった。
「何をおっしゃいますか、殿! 我らはまだまだ動けますぞ!」「その通りですぞ!」
別の侍大将も力強く頷く。
「味方に死者が出ない戦など、生まれて初めてのことでございます。兵たちの士気もこれまでになく高まっております。明日の朝まででも戦えまする!」
「これからが手柄の取りどころですな!」
あちこちから威勢のいい声が上がり、皆の目には先ほどまで以上の闘志が宿っていた。
その様子を見渡した貴丸は、嬉しそうに微笑む。
「夜もお願いしますね。ただ、手柄より大事なのは、みんながちゃんと無事に帰ることでなんで、忘れんように!」
陣中が静かになる。貴丸は一人ひとりの顔を見回しながら続けた。
「敵を追っ払えても、誰かが死んだら意味ないからね。だから、くれぐれも無理はしないで。みんなで無事に帰って、それで勝ちにしようね」
その言葉に、兵たちは顔を見合わせ、やがて大きく頷いた。
「おう!」
力強い返事が陣幕いっぱいに響く。貴丸も満足そうに頷くと、ぱんと一度手を叩いた。
「じゃあ、事前に説明した通りでお願いしまっす。各組とも足軽大将さんの指示をちゃんと聞いて動いてくださいねー」
そう言って立ち上がると、何かを思い出したように付け加える。
「あ、それと、これから化粧をする人は、俺が教えるから集まってくださーい!」
その一言に、陣中は一瞬静まり返った。
「……化粧?」
侍大将たちは互いに顔を見合わせる。
戦支度の話なら分かる。だが、これから夜襲へ向かう武士や足軽に「化粧を教える」とは、一体どういうことなのか。
貴丸だけが、その反応を見て楽しそうに笑っていた。




