第186話 戦〈三淵孫三郎軍〉03
〈三淵孫三郎軍〉
そして、河原の様子をじっと見つめていた貴丸が、不意に口を開いた。
「孫さん、そろそろだよ」
「……孫さん、か」
孫三郎は思わずそう漏らし、何か言い返そうとしたが、小さく苦笑すると「そうであるな」とだけ答えた。今はそんな呼び名を気にしている場合ではない。
すぐに近くで控えていた馬が引かれてくる。
孫三郎は軽やかに鞍へ跨ると、打ち合わせ通り、背中合わせになるよう貴丸を乗せた。そして互いの腰を太い縄でしっかりと結び、どちらかが落馬しても離れないよう固定する。
その様子を確認した泰能が、一つの大きな円錐状に丸められた和紙を貴丸へ差し出した。
「ほれ、これであろう?」
「あんがと」
受け取った貴丸は、それを手くるりと回しにやりと笑う。
その脇では三兵衛が落ち着かない様子で何度も声を掛けていた。
「貴丸様、本当にお気を付けください。敵は目の前なのですぞ」
「だいじょび、だいじょび。大丈夫だぁ〜」
貴丸は軽く手を振るだけで、まるで散歩へでも出掛けるような気楽さだった。
その様子に三兵衛はますます心配そうな顔になるが、泰能は何も言わない。
この童は、今さら止めたところで止まるような性格ではないことを、もう十分すぎるほど知っていた。
孫三郎は馬上からゆっくりと前方へ目を向ける。
川を越え、こちらへ押し寄せてくる三好軍。
無数の旗が風にはためき、林立する槍が朝日に鈍く光る。絶え間なく響く足音は川面を震わせ、兵数の重みを嫌でも感じさせた。
だからこそ、この河原を選び、この場所へ敵を誘い込んだ。
今や三好軍の先陣は竹柵の間へ押し込められ、前にも後ろにも思うように動けず混乱を広げている。
「……来たか。様子はどうだ」
孫三郎が静かに呟くと、側に控えていた武者が一歩進み出た。
「敵は間もなく予定の場所へ達します。すべて予定通りにございます」
その報告に、孫三郎は短く息を吐いた。
普通なら、敵が川を渡る最中こそ攻め時である。
渡河中の軍は隊列が乱れ、最も脆い。
誰もがそう考える。だが、貴丸だけは違った。
敵は渡り切った時こそ最も油断する。勝てる。押し切れる。そう思い込んだ瞬間、人は周囲が見えなくなる。
それを狙う。それが貴丸の策だった。
「よし、行くぞ。ついて参れ」
孫三郎は後方に控えていた騎馬武者たちを振り返る。
短く命じると馬腹を軽く蹴った。
馬は静かに駆け始め、その後を十数騎が続く。
ところが、後ろからは場違いなほど楽しそうな声が響いた。
「うわぁ! 後ろ向き、こっえー! うっひょー!」
縄で固定された貴丸が、身体を揺らしながら大はしゃぎしている。
その声を聞いた騎馬武者たちは思わず苦笑する。
「肝が据わっているのか……」「いや、あれは据わっているというより……」
誰も言葉が続かなかった。
敵の大軍を前にして、このようにはしゃげる者など見たことがない。
やがて目的の場所が近づく。
「孫さーん! そろそろ、ここで問題内臓っす!」
貴丸が背中越しに声を掛けた。
孫三郎は一瞬首を傾げたが、そのまま頷くと器用に手綱を操り、その場で馬首を返した。
馬は半円を描くように向きを変え、背中合わせだった貴丸がちょうど敵軍の正面を向く。
縄で腰を固定された貴丸は身を大きく乗り出した。
落ちる心配はない。その手には先ほど受け取った長い和紙。
円錐状に丸められたそれは、貴丸の考えた拡声器だった。
事前に説明は受けていたものの、実際に目にした武者たちは興味深そうにその様子を見つめる。
「そんなもので本当に声が届くのか……」
誰かが小さく呟いた。貴丸は和紙を口元へ当てたり離したりしながら、角度を確かめている。
孫三郎はその横顔を見て、静かに声を掛ける。
「貴、敦丸殿……ほどほどにな」
貴丸は振り向かず、にっと笑う。
「おうともよ! ちゃんと怒らせるからね!」
その言葉に周囲の兵から思わず笑いが漏れる。だが、孫三郎だけは笑わなかった。
怒らせる。口で言うほど容易いことではない。
敵将が挑発を無視し、ここから冷静に兵を立て直せば、そもそも圧倒的な兵力差があるのだ。この策は半ば失敗に終わる。
三好元長が感情を抑え、足軽を止め、周囲を警戒するだけで、こちらが逆に追い詰められる可能性さえあるのだ。だからこそ、この役目は誰にも任せられなかった。
相手の感情を揺さぶり、理性より先に身体を動かさせる。それが今の貴丸に課せられた役目だった。
やがて、敵陣の奥から騎馬武者たちが姿を現す。先頭には、一際立派な馬に跨る若武者。
堂々とした姿勢で隊を率い、その眼差しには強い意志が宿っているように見えた。
「あれが……三好元長か」
孫三郎は目を細める。思っていた以上に若い。
しかし、その顔つきは決して甘くない。簡単に挑発へ乗るような男にも見えなかった。
その時、貴丸が静かに和紙を口元へ当て、大きく息を吸い込む。
孫三郎は思わず目を閉じた。――始まる。
貴丸は口いっぱいに息を吸い込み、和紙の拡声器へ向かって思い切り声を張り上げた。
「おーい! ちっくままるちゃーん! うっひょー!」
貴丸の甲高い声は、和紙を丸めた拡声器によって河原中へ響き渡った。
突然の呼び掛けに三好軍の兵たちが一斉に顔を上げる。
「そんなにゆっくり歩いてたら、日が暮れちゃうよー! 阿波へ帰る道、わかるー? 帰るときは”アワアワ”しないで帰るんだよー! 阿波だけにね! うひゃひゃひゃひゃひゃ!」
思いがけない駄洒落に、孫三郎軍の兵たちから思わず笑い声が漏れた。貴丸はお構いなしに続ける。
「千熊丸、名ばかり勇み、阿波へ逃げ、泡となりては川へ流るる! うほっ!」
「千熊丸、熊より弱く、泣き出せば、母が恋しと阿波へ駆けゆく! うひょっひょ!」
敵味方を問わず、河原にはどよめきが広がった。笑いを堪えきれず肩を震わせる者までいる。
孫三郎は笑わず、じっと元長を見つめていた。
若き当主の表情はほとんど変わらない。しかし、その双眸にははっきりと怒気が宿り始めていた。兵たちが動きを止められ、自軍の前で敵が笑っている。その屈辱を飲み込もうとしているのが、遠目にも伝わってくる。
やがて孫三郎軍の兵たちが徐に円錐状の和紙を出して、声を合わせ始めた。
「ちくままるー!」「阿波へ帰れー!」「早く帰らねぇと母ちゃんが心配するぞー!」
野次が重なるたび、敵陣の空気はさらにざわついていく。孫三郎はその様子を見て、静かに確信した。
――効いてるな。
元長はまだ若い。若いからこそ、自らの前で兵が混乱し、敵に笑われるという状況に耐えられない。
次の瞬間、元長が馬腹を強く蹴った。
それを見た騎馬武者たちも一斉に馬を進める。
「孫三郎が馬首を返すと、周囲の騎馬武者もすぐに続いた。不安げな顔をする後続の騎馬隊を率いて孫三郎は言う。
「あの若殿は必ず追ってくるぞ! 退く用意をせよ!」
その言葉どおり、背後から蹄の音が一気に近付いてくる。
そこへ貴丸がまた拡声器を口へ当てた。
「わぁーっ! ちっくままるちゃんが追いかけてきたぁ! 乳首丸だー! うっひゃー!」
あまりにも遠慮のない一言に、味方の騎馬武者たちは吹き出しそうになりながら必死で堪える。敵陣からも失笑が漏れ、その笑いが元長の怒りへさらに油を注いだ。
「追え! 追うのだ! あの声を張り上げる者を捕らえよ!」
元長の怒声が響き、騎馬隊は一気に速度を上げた。
それを見た孫三郎は、あえて慌てたように馬を走らせる。しかし実際には後方の騎馬隊にも目を配り、隊形を崩さず追えば追いつけそな絶妙な距離を保ちながら、河原の奥へと敵を誘導していった。
やがて前方に、少しだけ開けた場所が見えてくる。一見すると走りやすそうな平地だった。
だが、その草むらには、すでに孫三郎軍の兵たちが身を伏せている。地面近くまで引き倒した太い竹を縄で押さえ、その縄を切る瞬間だけをじっと待っていた。
孫三郎は横目で距離を測る。
元長の馬が罠の中へ入る。続いて二騎、三騎。さらに後続も勢いよく雪崩れ込んできた。
十分に引きつけたと判断した孫三郎が、片手を大きく上げて、右手を振り下ろす。
「今だ! やれぇい!」
その合図と同時に、草むらへ潜んでいた兵たちが一斉に縄を断ち切った。
乾いた風切り音が河原へ響き渡る。
押さえ込まれていた太い竹が猛烈な勢いで跳ね上がり、巨大な鞭のように騎馬隊の脚元を薙ぎ払った。
先頭を走っていた馬が甲高い、いななきを上げる。
前脚を払われた馬は大きく体勢を崩し、騎手ごと前方へ投げ出された。突然の出来事に後続は止まれない。
勢いよく突っ込んできた二頭目が倒れた馬へ激突し、そのさらに後ろの馬も避けきれず巻き込まれる。狭い通路を進んでいた騎馬隊は次々と折り重なるように倒れ、騎手たちは宙へ放り出されて地面を転がった。
「うわぁっ!」「止まれ!」「避けろ!」
怒号が飛び交う。しかし、勢いに乗った馬は急には止まれない。倒れた馬が道を塞ぎ、その上へ次の馬が突っ込み、さらに後続も次々と押し寄せる。
ほんの数瞬前まで整然としていた騎馬隊は、一瞬にして隊列を失った。
孫三郎は馬を止めることなく振り返る。その光景を一目見ただけで十分だった。
「……決まったな」
静かなその一言には、長年戦場を渡り歩いてきた武将の確信が滲んでいた。
その直後、敵陣から鋭い叫び声が響く。
「罠だ! 引け! 引くのだ!」
寒川左馬允だった。ようやく罠に気付いたのである。
しかし、すでに遅い。
元長の騎馬隊は深く誘い込まれ、退こうにも倒れた馬と人が道を塞いでいる。後ろからは状況を知らぬ騎馬がなおも押し寄せ、隊列は完全に詰まってしまった。
「放てぇっ!」
左右に潜んでいた弓隊が一斉に弦を鳴らす。幾十、幾百もの矢が弧を描き、身動きを失った騎馬隊へ降り注いだ。
馬上で体勢を立て直そうとしていた武者が胸を射抜かれ、そのまま馬から転げ落ちる。別の馬は首筋へ矢を受け、甲高いいななきを上げて暴れ出した。
さらに竹柵の陰から印地隊が一斉に石を放つ。
唸りを上げた石は兜や肩、腕へ容赦なく叩きつけられた。
「ぐあっ!」
顔面へ石を受けた武者が手綱を放し、馬上から転げ落ちる。驚いた馬は暴れながら周囲へ体当たりし、ただでさえ乱れた隊列をさらに崩していく。
前は倒馬が塞ぎ、左右からは矢と石が降り注ぎ、後ろからは味方の騎馬が押し寄せる。
「隊を立て直せ!」「右へ寄れ!」「駄目だ! 道がないぞ!」
将たちの怒号も、もはや誰にも届かない。
馬はいななき、人は叫び、矢が唸り、石が飛ぶ。戦場は完全に制御を失っていた。
その光景を見つめながら、貴丸は静かに敵陣を見据える。
狙っていたのは武者一人ひとりではない。騎馬隊という集団、その流れそのものだった。
一度隊列が途切れ、統制を失った騎馬隊は、もはや精強な軍勢ではない。
狭い通路を塞ぎ、自ら味方の進退を妨げる巨大な障害と化していた。
孫三郎は敵との距離を保ちながら静かに馬を返す。
その背中で貴丸は満足そうに笑い、もう一度だけ和紙を口へ当てた。
「ちくままるちゃーん! オラ、大和田敦丸なー! シクヨロー! また遊ぼうねー! じゃあねー、ばっはは〜い!」
そう言って大きく手を振る姿は、まるで近所の子どもと遊び終えた後の別れの挨拶のようだった。
孫三郎は呆れたように苦笑する。
「……本当に、この童は戦場まで遊び場にしてしまうようだな」
もっとも、その表情はすぐに引き締まった。
敵の騎馬隊は大きく崩れた。しかし、三好軍にはなお五千近い兵が目の前にいる。こちらは千。たった一度の策で勝敗が決まる相手ではない。
それでも、この一撃は確実に敵の心へ傷を残した。
圧倒的な兵力を誇りながら、罠に翻弄され、敵の童に笑われ、怒りに任せて追撃した結果、自ら騎馬隊を崩した。その事実は、元長自身の胸にも、三好軍全体にも重くのしかかるはずだった。
孫三郎は混乱する敵陣を見据えながら、静かに手綱を握り直す。
その背中で貴丸が楽しそうに呟いた。
「次は、夜だねぇ」
孫三郎は小さく頷いた。
「ああ。ここからが本当の勝負だな」
二人を乗せた馬は、そのまま味方の陣へ向かって静かに駆けていった。背後ではなお、倒れた騎馬を助け起こぶ声と怒号が河原に響き続け、三好軍の混乱は容易に収まる気配を見せなかった。




