第185話 戦〈三淵孫三郎軍〉02
〈三淵孫三郎軍〉
やがて敵陣から太鼓の音が響く。
ドォン――。
一打、二打、三打。その音に合わせるように三好軍が一斉に動き始めた。
孫三郎の周囲にいた兵たちの表情が引き締まる。
「来たか……」誰かが小さく呟く。
川向こうでは無数の兵が槍を掲げ、笠を揺らしながらゆっくりと前進してくる。その数は五千。まるで大地そのものが動いているかのような迫力だった。
だが貴丸だけは表情を変えなかった。
まだだ。敵は、この河原に何が待ち受けているのか何一つ知らない。
やがて三好軍の先陣が川へ踏み込んだ。
ざぶり、ざぶりと水音が重なり、兵たちは勢いよく川を渡っていく。川は浅く、渡ること自体は決して難しくない。それも貴丸が意図した通りだった。ここまでは、あえて容易に渡れるように何もしていない。
貴丸がちらりと孫三郎を見る。
その視線だけで意図を察した孫三郎は静かに命じた。
「……矢を射掛ける用意をせよ」
命令とともに数本の矢が放たれ、続いて印地がぱらぱらと飛んでいく。しかし、その狙いは甘かった。敵兵を討つためではない。こちらも抵抗していると思わせるためだけの攻撃である。
案の定、川を渡る三好軍の足は止まらなかった。むしろ、「この程度なら押し切れる」と判断したのか、その勢いはさらに増していく。
「殿、敵はなおも渡河を続けております」
報告を聞いた孫三郎は静かに頷いた。
「よい。そのまま持ち場を離れるな」
兵たちは今にも飛び出したい衝動を必死に抑えながら、その命令に従った。
やがて三好軍の先頭の兵が河原へ上がり、竹柵の切れ間へ入り込む。狭い通路を少し窮屈そうに進むが、その後ろからも次々と兵が続き、流れるように細い道へ吸い込まれていった。
孫三郎は心の中で静かに数える。
十。百。五百。千――。
敵兵は自ら籠の中へ入っていくように、狭い道へ押し込まれていった。
「まだ動くな、と伝えよ」
命令が各隊へ伝わる。兵たちは息を潜めたまま敵を見つめ続ける。
敵は何一つ気付いていない。左右を囲む竹柵にも、少しずつ狭くなる道幅にも、そして自分たちの足元に撒かれた木片や竹屑、菱の実にも。すべては敵に「まだ進める」と思わせるために用意した道だった。
そして、ついに最初の異変が現れる。
「……?」
孫三郎の側にいた武者が目を細めた。
先頭付近を進んでいた敵兵の動きが、ほんのわずかに鈍ったのである。一人、また一人と足元を気にするような仕草を見せ始める。それでも歩みは止まらない。
多少足裏が痛んだ程度で立ち止まれば、後ろから押され、味方に怒鳴られる。それが戦場だった。
だからこそ、この仕掛けは意味を持つ。貴丸はその様子を見ながら、小さく笑った。
「……まだ、か?」孫三郎が尋ねる。
貴丸はこくりと頷いた。
「まだだよ。あの程度なら、人は痛くても止まらないんだよ。止まったら怒られるって思うから、結局は前へ進むしかないんだよね」
その言葉を聞いた孫三郎は、改めてこの策の恐ろしさを思い知った。
そして――。
「足が……っ!」「いてぇなぁ!」
敵陣から、初めてはっきりとした悲鳴が上がった。
「何だこれは!」「足に何か刺さったぞ!」
あちこちで怒号と悲鳴が入り混じり、河原へ上がった三好軍の隊列が目に見えて乱れ始める。
先頭の兵は足を止めるが、後ろにいる兵は何が起きたのか分からないまま前へ前へと押し寄せてくる。
そのさらに後続も勢いを緩めることなく進み続け、竹柵で狭められた通路の中へ次々と流れ込んでいった。
その光景を見つめながら、孫三郎は静かに呟く。
「……見事だな。歩みを緩める兵の数も狙い通りだ」
これまでなら、五千と千の圧倒的兵力差が開けば勝負になるはずもなかった。
千兵など、正面からぶつかれば押し潰されるだけだ。しかし今、この河原では兵数の優劣など意味は薄れている。
「これからが本番だ」
そう口では言いながらも、孫三郎軍の兵たちの胸には確かな手応えが生まれ始めていた。
その傍らでは、当の貴丸はしゃがみ込み、足元の石を一つずつ積み上げて遊んでいた。
孫三郎は思わず「何をしておる」と言いかけたが、口を閉じた。貴丸は石を積みながらも視線だけは戦場から外していない。その様子を見れば、余計な口出しをする気にはなれなかった。
後方の三好軍は勢いを保ったまま河原へ上がり続け、このまま孫三郎軍の陣まで押し寄せられるのではないかと思わせるほどだった。
「……まだ動かぬのですか」側にいた武者が不安そうに尋ねる。
「待て」
孫三郎は短く答えた。敵は自分たちが攻め込んで優勢だと信じ切っている。
圧倒的な兵数を頼みに、後続の兵は前へ前へと押し寄せる。先頭で起きている異変など知る由もなかった。
「敵はまだ、自分たちが戦を動かしているつもりでおるな」
孫三郎は河原から目を離さずに呟いた。しかし実際は逆だ。この戦場へ敵を誘い込み、ここで戦わせると決まった時点で、流れはすでに孫三郎軍達の手の内にあった。
やがて、その差がはっきりと形になって現れる。
先頭の兵たちは完全に進めなくなっていた。それでも斬り合いになっているわけでもなければ、矢が雨のように降っているわけでもない。遠くから見れば、ただ少し詰まっているようにしか見えなかった。
「進め! 何を止まっている!」
敵陣から怒号が飛ぶ。
「押せ! 押し込め!」
命令を受けた後続は疑うことなく前へ出る。その結果、先頭はさらに押し潰され、通路は身動きが取れないほど密集していった。
「……兵数が多いことが、かえって仇となっておるな」
孫三郎は思わず苦笑する。
本来なら最大の武器である兵数が、この河原では味方同士を押し合う重圧へと変わっていた。
行き場を失った兵たちは、今度は左右へ逃れようとする。
「横へ出ろ!」
誰かが叫び、兵たちが草むらへ踏み込んだ。
しかし、その瞬間だった。一人が転ぶ。
「うわっ!」「何だ!」「草むらにも仕掛けがあるぞ!」
悲鳴が次々と広がっていく。
草の下には低く打ち込まれた竹杭があり、茨が足へ絡みつき、低い竹柵が行く手を阻む。ただ草が生えているだけに見えた場所は、逃げ道ではなく、新たな罠だった。
前にも進めず、横へも逃げられない。戻ろうとしても通路は味方で埋め尽くされている。
「逃げ場を失ったか。頃合いだ。合図をせよ!」
孫三郎がそう告げた瞬間だった。それを合図に鋭い風切り音が河原に響く。
ビュンッ――。
続けざまに左右から同じ音が鳴り、地面へ押し伏せられていた太い竹が一斉に跳ね上がった。大きくしなった竹は巨大な鞭のように敵兵の足元を薙ぎ払い、横へ逃れようとしていた兵たちを次々となぎ倒していく。
「ぐあっ!」「足が!」
倒れた兵の上へ、さらに後続が突っ込む。避けようにも避けられず、人の波は次々と崩れ、通路の中は折り重なる兵で埋まっていった。
その様子を見た孫三郎軍の兵たちは、誰もが息を呑んでいた。
敵を斬って倒しているわけではない。五千もの大軍が自ら崩れていく。
まるで巨大な獣が、自分から罠の奥へ踏み込み、暴れるほど深く絡め取られていくようだった。
それでも孫三郎は動かない。
「……まだ、お待ちになるのですか」
側近が思わず聞き返す。孫三郎は答えず、河原を見つめ続けた。
倒れた敵兵たちは、ようやく足元へ目を向ける。
「痛っ!」
立ち上がろうとして足裏へ菱の実が食い込み、手を突けば木片や竹屑が掌へ刺さる。動けば傷が増え、止まれば後ろから押される。どちらを選んでも苦しみから逃れられず、混乱は瞬く間に隊列全体へ広がっていった。
その光景を見ながら、孫三郎は貴丸が以前口にした言葉を思い出す。
「人は、傷つけられるより、動けなくされる方が怖い」
あの時は半信半疑だった。だが、今ならよく分かる。
敵はまだ数多く生きている。槍も持っている。腕にも力は残っている。それでも足が動かなければ兵は戦えない。ただ立ち尽くし、押され、倒れ、混乱の中へ飲み込まれていくだけだった。
「恐るべき策よ……」孫三郎は小さく漏らした。
五千の軍勢は、自ら築いた混乱の中で、もはや身動きさえ失っていた。
「殿、三好軍……止まりました」
側近が静かに声を掛けた。
孫三郎はゆっくりと頷く。
目の前にいるのは、先ほどまで猛然と押し寄せてきた大軍ではない。巨大でありながら、自ら絡まり、身動きを失った一つの塊だった。
「……貴丸殿の申した通りだな」
そう呟くと、孫三郎は静かに河原を見渡した。
河原では五千の軍勢が、互いを押し潰しながら崩れ続けていた。
戦とは兵の数で決まるものではない。敵をどう動かすか――それこそが勝敗を分けるのだ。




