第184話 戦〈三淵孫三郎軍〉01
〈三淵孫三郎軍〉
三好軍との戦が始まる前、場所は宇治川と木津川の合流点に築かれた三郎軍の野営地。
朝は吐く息が白く、川風が容赦なく頬を刺す。
三淵孫三郎の陣では、すでに多くの兵が起きていた。
だが、三好元長軍のような出陣前の慌ただしさはない。槍の穂先を確かめる者、具足の紐を締め直す者と、それぞれが静かに持ち場の支度を整えていた。
五倍もの兵力差を前にした陣とは思えぬほど、落ち着いた空気が流れている。
それもそのはずだった。兵たちは昨夜までに何度も何度も役目を確認している。
自分が立つ場所、受け持つ役目、合図の意味、そして何よりも「決して早まらないこと」。それらは耳に胼胝ができるほど繰り返し言い聞かされ、誰の胸にも深く刻み込まれていた。
何をすべきかが分かっている者は、不思議と慌てない。
総大将の孫三郎も、各足軽大将も、慌てる様子を見せなかった。その落ち着きは自然と兵たちにも伝わり、陣全体を静かな自信で包んでいた。
当の貴丸はというと。
「……うまぁ。いくさばの宝石箱やぁ〜」
戦を目前に控えているとは思えないほど呑気な顔で、一般兵たちに混じって朝食を頬張っていた。
まぁ、その周囲の兵は貴丸の言葉にぽかんとしていたが。
前夜から水へ浸しておいた米を、大釜でふっくらと炊き上げる。
湯気を立てる味噌汁には、大根葉、蕪、牛蒡など、この土地で買い付けた野菜が申し訳程度に入っている。
豪華さはない。だが、温かな汁が冷え切った体へ染み渡る。
そこへ塩漬けの大根や瓜を添えれば、それだけで十分な戦場の朝食だった。
しかも、この献立を勧めたのは貴丸である。
「戦の朝は、お腹いっぱい食べちゃ駄目だよ。動けなくなるし、喉も渇くからね。味噌汁なら体も温まるし、水分も一緒に取れる。朝にちゃんと水を飲んでおかないと、お昼には兵が動けなくなるよ」
そう進言した結果、孫三郎は全軍へ同じ朝食を配るよう命じた。
そのため、足軽も足軽大将も、そして孫三郎自身も、口にしているものはほとんど変わらない。
「ほほう……これなら腹も重くならぬな」「味噌汁がありがたいな」
兵たちからも上々の評判だった。
一方、その献立を考えた張本人はというと――。
「ごちそうさまでしたぁ」
最後の米一粒まできれいに平らげると、何やらきょろきょろと辺りを見回し始めた。
誰かを警戒している。……いや、正確には。見つからないようにしている。
「よし……いないな」
そう呟くと、旗指物の陰へするりと身を滑り込ませた。ごそ、ごそ。懐へ手を突っ込み、小さな包みを取り出す。
そして、そっと一粒。
ぱくっ。「……ンフフフフ。コココココココ…」
思わず貴丸の心の中の王騎将軍が出てきて、幸せそうに頬が緩んだ、その瞬間だった。
「貴丸殿」
「ひゃいっ!?」背後から、ぬっと一本の手が伸びてきた。
振り向けば、にこやかな笑みを浮かべた泰能が立っている。無言。ただ手だけを差し出していた。
「……」
貴丸は視線を逸らす。泰能も黙って手を引っ込めない。沈黙の押し問答が数秒続いた。
やがて貴丸は観念したように肩を落とす。
「……はい…」
しぶしぶ懐からもう一粒取り出し、泰能の手へ載せる。
泰能は満足そうに頷き、そのまま口へ放り込んだ。ころり。口の中で転がす。
その様子を見ていた三兵衛も、何も言わずにすっと手を差し出した。
「…………」
貴丸の顔が、さらに苦くなる。
「三ちゃんまでぇ?」
返事はない。ただ手だけがそこにある。
ぶつぶつ文句を言いながら、また一粒。三兵衛も満足そうに口へ放り込む。
こうして三人は、並んでもごもごさせながら口の中で転がし始めた。
懐から出てきた正体はたんきり飴だ。冷えた朝には喉にも優しく、甘味は兵にはなかなか口へ入らない贅沢品である。
「……飴は一人でこっそり食べるのが一番おいしいのに…」
「皆で食べるから美味いのだ」「一人占めは体に悪うございますよ」
貴丸は頬を膨らませた。
そんな中、貴丸は一人だけ場違いなほど気楽な足取りで陣中を歩いていた。
後ろには泰能と三兵衛を従え、物見遊山でもするかのように陣の中を歩いていく。
「おはよー」「朝ご飯ちゃんと食べた?」「今日はよろしくねー」
すれ違う兵へ気軽に声を掛けては、にこにこと手を振る。
初めこそ兵たちは「こんな時に何だ、この童は」と緊張した面持ちで見ていた。
だが、貴丸のあまりにも力の抜けた様子につられ、一人、また一人と表情が和らいでいく。
「……ははっ」
「敦丸様(貴丸が敦丸と呼べと言ったので)は、今日も敦丸様だな」
思わず笑みを漏らす兵まで現れた。
張り詰めていた空気は、いつの間にかほどよくほぐれ、陣には静かな活気が満ち始めていた。
そんな他愛もないやり取りをしているうちに、一人の兵が足早に近づいてくる。
「敦丸殿(貴丸のこと)。孫三郎様がお呼びにございます」
「はーい」
貴丸は返事をすると、口の中でころころと転がしていた飴をがりりと噛み砕いた。甘い欠片を二、三度噛んでから、ごくりと飲み込む。
「よし、行こっか」
そう言って立ち上がると、泰能と三兵衛もその後ろへ付き従った。
陣幕へ入ると、すでに孫三郎をはじめ、諸将が揃っていた。
軍議で確認することは一つだけ。昨日決めた策を、そのまま実行する。
こちらから無理に攻めない。敵を誘い、受け止め、思い描いた場所まで引き込む。
そのための準備は、すでに終わっている。
貴丸は地図へ目を落とし、小さく頷いた。
「じゃあ、始めましょい!」
まるで遊びの続きを始めるような、あまりにも気負いのない一言だった。
川霧はゆっくりと晴れていった。
「……まだだ」
孫三郎は朝靄の向こう、川を挟んだ敵陣を見据え、小さく呟いた。
白く霞む向こうでは、およそ五千の兵がゆっくりと動き始めている。三好元長が率いる大軍。その兵数だけを見れば勝負にならない。こちらはわずか千ほど。真正面からぶつかれば押し潰されるだけだった。
それでも孫三郎の胸に焦りはなかった。
これほど入念に戦支度を整えたことは、これまで一度もない。敵がどこを進み、どこで足を止め、どこで混乱するのか。その一つひとつを考え抜き、何日もかけて準備を重ねてきた。
そして、その準備の中心にいたのは、まだ十歳の童――敦丸こと大和田貴丸である。
最初は誰もが半信半疑だった。しかし貴丸の指示は驚くほど的確だった。兵の動き、敵の心理、地形の使い方。
説明を聞くたびに「なるほど」と思わされ、準備が進むほどに兵たちの表情から不安は消えていった。気付けば陣全体に、「これなら戦えるかもしれない」という静かな安心感が広がっていたのである。
孫三郎は改めて川岸へ視線を向けた。
岸には竹柵が張り巡らされ、その先の河原には何日もかけて用意した仕掛けが眠っている。細かく折った木の枝、鋭く割いた竹屑、無数に撒かれた菱の実。それらは兵たちが夜を徹して整えたものだった。
敵は必ずここへ来る。そう信じて準備を進めてきた。
「殿、本当に……あの大軍はこちらへ渡って参りますでしょうか」
側にいた武者が不安そうに尋ねる。
孫三郎はしばらく敵陣を見つめたまま黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「来る、のだろう。ここまで来た以上、もう信じるしかあるまい」
その声に迷いはなかった。
「人は見えるものを信じる。敵が弱っているように見えれば前へ出る。道が開いているように見えれば疑わず進む。そして兵数がこれほど違えば、自分たちが負けるなどとは思わぬものよ」
そう言って川向こうへ目を向ける孫三郎の隣では、一人の童が小さく欠伸を噛み殺していた。
この策を考えた張本人、敦丸こと貴丸である。
「眠そうだな」
孫三郎が声を掛けると、貴丸は目を擦りながら苦笑した。
「だって夜中まで、いろいろ見て回ってたからね。オラ、まだ花の十歳だよ。そりゃ眠くもなるだべさ」
そう言って笑いながらも、その視線は一度も敵陣から離れていない。
「でも大丈夫。千熊くんは、きっと来るよ」
にやりと笑う貴丸に、孫三郎は思わず苦笑した。敵将を幼名で呼ぶなど本来なら咎められてもおかしくない。しかし、この場でその言葉を否定する者は誰一人いなかった。
千熊くん:千熊丸。三好元長の幼名。




