第183話 戦〈三好元長軍〉04
〈三好元長軍〉
そして、這う這うの体で元長は本陣へ戻った。
日が傾き始めた頃、ようやく各隊から被害の報告が出揃う。
その内容が伝えられるにつれ、陣中には重苦しい空気が広がっていった。
死者、およそ五十名。深手の者、およそ二百名。
騎馬隊では、落馬や手傷によって約三十騎が戦働きが叶わなくなり、馬も約五十頭が死傷した。そのほかにも、竹のしなりによる打撲、矢、印地による深手を負った者がおよそ二百名に及んでいる。
深手の者はすぐさま後方へ運ばれ、薬師の手当てを受けていた。
数の上では、五千の軍勢で攻め寄せた戦としては、死者の数は決して多くない。
だが――。本当の被害は、別のところにあった。
「足裏を負傷した者、およそ二千名」
その報告を聞いた者たちは、改めて表情を曇らせた。
その半数にあたる約千名は、すでに歩くことすら困難な状態だった。数日はまともな行軍もできず、再び戦へ出ることなど到底望めなかった。
残る千名も軽い傷とは言い難かった。歩くことはできる。槍を持つこともできる。敵が目の前に現れれば、戦うこともできる。
しかし、走ることは難しい。長い距離を歩けば傷は悪化し、無理を重ねれば翌日には完全に動けなくなるかもしれない。
戦えるとも言えず、戦えぬとも言い切れない。その曖昧な傷こそが、指揮する者にとって最も厄介なものだった。
さらに問題は、それだけではなかった。
動けぬ兵が増えれば、その者たちを支える人手が必要になる。
食事を運ぶ者。水を配る者。寝床を整える者。夜中の用足しを助ける者。糞尿を始末する者。
本来ならば、明日の戦に備えるべき兵や小者たちが、負傷兵の世話に割かれていく。
千人単位の負傷者というものは、単純に「千人の戦えない兵」が増えたという話ではない。
その周囲に、さらに多くの人手と時間を奪っていく。軍とは、槍を持つ者だけで動いているのではない。
一人の兵が動けなくなるたびに、その周囲の者まで手を取られ、軍の力は少しずつ削がれていく。
それこそが、孫三郎(貴丸)が狙った真の損害だった。そして、傷の状態も決して軽いものではなかった。
退却の際、無理に歩き続けた兵の中には、折れた竹片が足裏へ深く食い込み、自分では抜くことすらできず、苦痛に呻く者もいた。
薬師へ診せようにも、負傷者の数があまりにも多い。
傷口を洗うことすらできず、ただ布を巻きつけ、痛みに耐えるしかない兵も少なくなかった。
また、草むらへ踏み込んだ兵たちは、別の苦痛にも襲われていた。
腕。脚。首筋。露出した肌には、イラクサの細かな棘や、イバラの棘が無数に突き刺さっていた。
一つ一つは命に関わる傷ではない。だが、数が集まれば兵の体力を奪い、眠りを妨げ、気力を奪っていく。
その夜。
三好元長の陣中には、兵たちの呻き声や苦痛を堪える息遣いが絶えず響いていた。
明日の戦に備えて休まねばならぬ兵たち。
しかし、この夜、安らかな眠りにつける者は、決して多くはなかった。
元長は、足を引きずる兵たちをじっと見つめた。
「……恐ろしいな。人を斬ったわけでもない。大軍で押し潰したわけでもない。ただ、道へ仕掛けを施しただけで……それだけで五千の軍が、この有様とはな……」
元長は苦々しく息を吐いた。
「この策を考えた者は、人の心まで読んでおる。兵が痛みを我慢し、歩き続けることまで見越しておったのだ。もし初めから、この結果を狙って仕組んだというのなら……」
一瞬、言葉を切る。
「……このような策を思いつく者がおるとは……鬼の知恵よ」
およそ二千足もの草鞋が、竹片や木片によって、履き替えも尽きつつあった。
予備の草鞋も到底足りず、大軍の移動には大きな支障が出ることとなった。報告が終わっても、誰一人として口を開かなかった。
元長も。長老の三好一秀も。ただ、重苦しい沈黙だけが陣中を支配している。
やがて先陣を率いた香西元定と三好長光が進み出ると、元長の前へ膝をついた。
二人とも頭を下げたまま、顔を上げようとしない。続いて軍略を司る寒川左馬允が深く一礼した。
「元長様。この敗戦、すべては策を練った私の見込みが甘かった故にございます。敵を侮り、策を見抜けませなんだ。この責めは、どうか私一人へ」
その言葉を聞いた香西元定と三好長光も額を地へ擦りつける。
「申し開きもございませぬ」「すべて我らの不覚にございます」
死者は少なかった。しかし、完膚なきまでの大敗だ。
五千の兵を擁しながら、千の敵と干戈を交えることもなく、ついに敵本陣へ近づくことすら叶わなかった。
おそらく敵の死傷者は、ほとんど出ていないだろう。
静寂を破ったのは元長だった。苦く笑いながら首を横へ振る。
「……そなたたちは悪くない。すべての責任は、この私にある。私も、この戦は容易く勝てるものと思っていた。……まさか、これほどとはな…」
誰も口を開くことができなかった。
その時、脇に控えていた十河易正が、何か言いかけて口を閉ざす。
元長はその様子に気付く。「どうしたのだ、易正殿」
名を呼ばれた十河は、言いづらそうに視線を落とした。
「……複数の物見から、一つ気になる報告がございました」
十河は一度唾を飲み込む。
「敵陣を見張っていた物見たちの報告では、戦が始まる前、兵たちへ何事か指示を出していた童がいたとのことにございます。そして……その姿や声から、戦の最中に元長様を罵っておりました童に相違あるまい、とのことでございます」
一瞬、陣中の空気が止まった。
そこへ、香西元定が苦々しい表情で口を開いた。
「……確かに、私も見ております。あの童、戦場で声を張り上げておりました。ただ騒いでいるだけの童と思っておりましたが……兵どもは、その声に応じるように動いておりました」
真っ先に声を荒げたのは一秀だった。
「馬鹿な! そんな話があるものか! それでは我らは、童に負けたと申すのか!」
誰も答えられない。
元長だけが、じっと宙を見つめていた。やがて、何かを思い出したように小さく呟く。
「……そういえば、あの童、『おおわだあつまる』と名乗っておったな……」
その名を口にすると、元長はゆっくりと顔を上げた。
「誰か、その『おおわだあつまる』という者を知っておるか」
陣中を見渡す。しかし、誰一人として口を開かなかった。
やがて、先陣を率いた香西元定が静かに頭を下げる。
「おそらく、私が最も近くで見ておりました」
元長が視線を向ける。
「どのような者だったのだ?」
「年の頃は十ほど。色白で、少々肉付きのよい、どこか間の抜けたような童でございました。将には見えませなんだ」
誰も口を挟まない。香西は言いにくそうに続けた。
「それに……あの者、我らを罵るだけではございませなんだ。人を食ったような歌を次々と詠みまして……。妙に人を笑わせる術に長けておりました」
元長の眉がわずかに動く。
「私の足軽どもにも、戦場だというのに思わず吹き出す者がおりました。その歌が耳に残ったのでしょう。今も陣中では兵どもが、その歌を口ずさみ──」
「……香西殿。そこまでになされよ」
寒川左馬允の低く冷たい声が、その言葉を遮った。
「……出過ぎたことを申しました」
香西は深く頭を下げ、口を閉ざす。再び陣中に重苦しい沈黙が落ちる。
その静寂の中――ぱきり。乾いた音が響いた。誰もが音の方を見る。
元長が握り締めていた軍配が、真ん中から折れていた。あまりに強く握り込んでいたため、自ら折ってしまったのである。
元長自身もしばらく気付いていなかった。折れた軍配を見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。
結局、その日の軍議では、翌日は戦を仕掛けず、一日かけて兵の養生に努めることだけが決まった。
あわせて堺へ使者を走らせ、大量の草鞋と筵を買い集めるよう命じる。
竹片や木片の残る道を、これ以上兵に踏ませるわけにはいかない。少なくとも移動に使う道だけでも筵を敷き、兵を渡らせねばならなかった。
それらが届くまで、大軍を動かすことすら難しい。
誰もが、この敗戦をどう立て直すかだけを考えていた。
しかし――。
その夜、本当の悪夢が始まることを、この時の元長たちはまだ知る由もなかった。
まだまだありますよ。




