第182話 戦〈三好元長軍〉03
〈三好元長軍〉
その頃――。
元長軍では、最後尾の騎馬武者たちもようやく川を渡り終えていた。
万が一に備え、本陣を守る最小限の兵だけを残し、それ以外の軍勢はすべて対岸へ集結している。
本来であれば、総大将である元長は本陣に留まり、戦況を見極めるべきだった。
一族衆の三好長則も、「総大将自ら危地へ赴くべきではありませぬ」と強く進言していた。だが、長老・三好一秀は前方へ目を向けたまま、静かに頷く。
「敵は押されておるようだ。この機を逃す手はあるまい」
そう口にした一秀には、もう一つの思いがあった。
一秀は三好長之の子として生まれ、三好宗家を率いる兄・之長を補佐しながら、一族の興亡をその目で見続けてきた。やがて次兄・長尚が細川高国方へ転じると、一秀は終始之長と行動をともにした。
その後、之長の嫡男・長秀が、弟・頼澄とともに如意ヶ嶽の戦いの敗走後、北畠材親の攻撃を受けて自害すると、幼くして父を失った千熊丸――後の元長を支える最も近しい親族の一人となる。
三好宗家を長年支えてきた一門の長老であり、一族の誰もが一目置く重鎮だった。兄・之長とともに幼い千熊丸を慈しみ、その成長を見守り続けてきた。
今回の戦は局地戦ながら、元長が三好宗家の大将として立つ、事実上の初陣である。
この戦で勝利を収めるだけでは足りない。若き当主が自ら先頭に立ち、敵を打ち破った――その武名こそが、これから三好一族を率いていく上で何よりの箔となる。
一族の行く末を思えば、この機を逃すべきではない。(末は、きっと頼もしき当主となろうよ)
一秀は心の中でそう呟いた。その目には、元長は今なお幼き日の「千熊丸」のままだった。
つい昔の癖で幼名を呼び、揶揄えば、少し困ったような顔をする。その姿が可愛らしくて、ことあるごとにそう呼んできた。
だが、この戦を越えれば、もうそう呼ぶわけにはいくまい。
これからは「元長様」か「殿」か、「若殿」と呼ぶべき時が来る。それは一族の未来を思えば喜ばしいことだった。
だが同時に、自らの手の中で育ってきた雛が、大空へ飛び立っていくような、ほんの少しの寂しさも胸に去来していた。
長則はなお渋い表情を浮かべていたが、長老である一秀の判断に異を唱えることはできず、最後には黙って頷いた。
こうして元長は愛馬へ跨り、自ら前線へ向かうこととなった。
その後ろには、三好長則、寒川左馬允をはじめとする騎馬武者二百騎余りが続く。三好一秀だけは本陣へ残り、代わりの指揮を執ることとなった。
元長は馬上から前方へ鋭い視線を向ける。
敵陣までは、もうそれほど距離はない。しかし、その手前では自軍の足軽たちが密集し、進軍の勢いが止まっているように見えた。
敵と激しく斬り結んでいる様子はない。それでも前線だけが動かず、後続もその場で押し留められている。
(押し切れぬのか……?)元長は眉をひそめる。
正面から騎馬で突っ込もうにも、自軍の足軽が壁となって道を塞いでいる。
このままでは騎馬の機動力を生かせない。
ならば――。(左右、どちらかへ回り込むしかないか)
元長は河原の両側へ視線を走らせ、騎馬隊を通せる道がないか静かに探り始めた。
すると、敵陣の手前、竹柵の左側に設けられた少し広い河原へ、騎馬隊がゆっくりと姿を現した。
数は五十騎にも満たない。先頭の武者を中心に緩やかに隊形を整え、元長軍との間合いを測るように一定の距離まで進み出る。
元長は馬上から目を細めた。
(敵将か……)先頭には、一際立派な具足をまとった武者がいる。
距離があるため顔までは判別できないが、あの位置にいる以上、おそらく三淵孫三郎だろう。
だが、その姿に元長は小さく眉をひそめた。武者の背後に、何かが括りつけられている。
最初は荷でも積んでいるのかと思った。しかし、その影がもぞりと身じろぎした。
「……何だ、あれは」
元長はさらに目を凝らす。やがて、その小さな影が顔を上げた。
それは、縄で騎馬武者の腰へ結び付けられた一人の童だった。落馬を防ぐためなのか、後ろ向きに馬へ乗せられている。
その童は何やら長い和紙のような物を抱えていた。騎馬武者がゆっくりと馬首を巡らせる。すると童は抱えていた長い和紙を器用に丸め、円錐のような形にすると、それを口元へ当て、大きく息を吸い込んだ。
「おーーい! ちっくままるちゃゎーん!」
甲高い声が、驚くほど遠くまで河原へ響き渡った。
元長の眉がぴくりと動く。童は面白がるように身を乗り出した。
「そんなにゆっくり歩いてたら、日が暮れちゃうよー!」
敵の騎馬武者たちから、無数の嘲笑が一斉に河原へ響き渡った。
童はなおも畳み掛けた。
「阿波へ帰る道、分かるでしゅかー? 帰るときはアワアワしないで帰るんだよー! 阿波だけにねぇー!」
「千熊丸 名ばかり勇み 阿波へ逃げ 泡となりては 川へ流るる!ってかぁ!」
「わははははっ!」
河原に笑い声が広がる。
さらに童は胸を張り、得意げにもう一首詠み上げた。
「千熊丸 熊より弱く 泣き出せば 母が恋しと 阿波へ駆けゆくぅぅ!」
また笑いが弾けた。
それを合図にしたかのように、周囲の騎馬武者たちも懐から長い和紙を取り出し、次々と筒状に丸め始める。
「ちっくまぁまぁるぅー!」「阿波へ帰れー!」「早く逃げろー!」「母上が待ってるぞー!」
「母のおっぱいが恋しいなら、今のうちに帰ったほうがいいぞー!」
「怖くて、おまたが濡れちゃったんじゃないのかー!」
無数の嘲笑が、一斉に河原へ響き渡った。
和紙の筒を通した声は思いのほか遠くまで届き、四方八方から浴びせられる罵声は、大軍全体を包み込むように押し寄せる。
元長は無言のまま唇を強く結んだ。本来なら、この程度の挑発に乗る男ではない。
敵が挑発する以上、その裏に策がある――そう考えるだけの冷静さも備えていた。
だが、この時の元長は、まだ若かった。後年、数々の修羅場を潜り抜ける名将では、まだなかった。
目の前では、自軍の足軽たちが理由も分からぬまま足止めされている。
その一方で敵は笑い、童までもが大声で嘲ってくる。
その光景は、静かに、しかし確実に元長の胸へ怒りを積み重ねていった。すると、敵の孫三郎軍の騎馬隊が、一斉に馬首を返す。
「退け!」「退くぞ!」「追いかけても来ぬのか! この腰抜けめ!」
号令とともに隊形は崩れ、砂煙を巻き上げながら後方へ走り始めた。
元長の目が鋭く細められる。
(……逃げる気か)敵の足軽はなお前方で踏みとどまり、こちらの進軍も滞っている。だが、目の前の騎馬はわずか五十にも満たない。
もしあれが敵の総大将なら――。
討ち取れば、一気に戦の流れを引き戻せる。そう思わせるには、十分すぎる光景だった。
「あの騎馬隊を残らず討ち取れ!」
号令とともに先頭の騎馬武者たちが一斉に馬腹を蹴る。
それに続き、後続の騎馬も次々と駆け出した。
その様子を見るや、童がまた和紙を口へ当てる。
「わぁーっ! ちっくままるちゃんが追いかけてきたぁ〜! きゃ〜! 誰かたすけてぇ〜!」
童はわざと大袈裟に肩を震わせながら叫ぶ。
「みんな逃げろぉ〜! 食べられちゃうぞぉ〜! 千熊丸じゃなくて! 乳首丸だ〜! あははははっ!」
その間の抜けた声に、敵陣から再び笑いが起こった。
その甲高い声が河原へ響き渡る。
――ぷっ。
元長のすぐ後ろから、堪えきれなかったような笑い声が漏れた。
元長の肩がぴくりと震える。思わず振り返ると、一人の若い騎馬武者が慌てて口を押さえ、青ざめた顔で俯いていた。
「も、申し訳ございませぬ……」
悪意などなかった。あまりにも子供じみた挑発だったからこそ、思わず吹き出してしまっただけだった。
だが、その笑いは元長の胸へ深く突き刺さる。かっと頭へ血が上った。顔はみるみる紅潮し、握る太刀に力がこもる。
「逃がすな! あの騎馬隊を残らず討ち取れ! 討ち取るのだ!」
太刀を高々と掲げるや否や、元長は自ら真っ先に愛馬の腹を蹴った。
「若殿っ! お待ちくだされ!」
長則が慌てて制止の声を張り上げる。だが、元長は振り返りもしない。
怒りのまま砂煙を巻き上げ、敵騎馬隊へ一直線に駆け出していく。
「くっ……! 若殿をお守りせよ! 続けぇっ!」
長則は歯噛みすると槍を握り直した。主君一人を行かせるわけにはいかない。
後列の騎馬武者たちも次々と馬腹を蹴り、元長を追って一斉に駆け出した。
その様子を見た孫三郎は、ちらりと背後を振り返る。口元にわずかな笑みを浮かべ、小さく呟いた。そして静かに号令を下す。
「頃合いだ。退け! 崩れるな! そのまま下がれ!」
騎馬隊は一斉に馬首を返した。
しかし、その動きは統制されているようでいて、どこか乱れているようにも見える。左右へ散りながら砂煙を巻き上げ、まるで追撃を恐れて我先に逃げ出したかのように駆け始めた。
元長の目には、それが統制を失った敗走にしか映らなかった。
「追えぇッ!」
元長は足止めされた足軽隊を左へ避け、河原の外縁を大きく回り込む。その後を騎馬武者たちが土煙を巻き上げながら続いた。
視界が開けたその先には、瓢箪の腹のように広く膨らんだ河原が広がっていた。
逃げる敵との距離は、見る間に縮まっていく。
(追いつける――)元長も、後に続く騎馬武者たちも、追いつけると信じて疑わなかった。
不意に、草むらの奥で縄が弾ける乾いた音が響いた。
――ビュンッ!
続いて、――ビュンッ! ビュンッ! ビュンッ!
左右の草むらから、しならせていた太い竹が一斉に解き放たれた。隠れていた兵が一斉に竹を縛っていた縄を切ったのだ。
地面すれすれを横薙ぎに走る竹が、先頭を駆けていた騎馬の前脚を薙ぎ払う。
「ヒヒィィン!」
甲高い悲鳴を上げ、先頭の馬が前のめりに倒れた。騎手は宙へ投げ出され、そのまま河原へ叩きつけられる。
「しまっ――!」
後続の騎馬武者たちは慌てて手綱を引く。しかし、全力で駆けていた馬はすぐには止まれない。
倒れた馬を避けようとして横へ逃れた馬が別の馬とぶつかり、さらに後ろの騎馬も巻き込まれて次々と体勢を崩していく。
一頭の転倒は瞬く間に後続へ広がり、先頭集団は完全に立ち往生する。
それを待っていたかのように、孫三郎軍から鋭い号令が飛ぶ。
「放てぇ!」
孫三郎軍の弓隊と印地隊へ、鋭い号令が飛んだ。次の瞬間、河原の左右から無数の矢が降り注いだ。
「ぐあっ!」「矢だ!」
さらに、「それっ!」という掛け声とともに、今度は印地が雨あられと飛んでくる。
拳大の石が兜や肩、腕へ激しく叩きつけられた。
「ぐっ!」「うわぁっ……!」
馬へ当たった石に驚いた馬が暴れ、倒れた兵を踏み越え、さらに混乱を広げていく。
それを見た寒川左馬允の顔色が変わった。
「罠だ! 全軍引けぇ! 追うな! すぐに引き返すのだ!」
腹の底から声を張り上げる。ようやく元長も我に返った。自分たちは敵を追っていたのではない。敵に誘い込まれていたのだ。
すぐさま側近たちが駆け寄り、転倒した馬から元長を助け起こす。
「元長様! こちらへ!」
別の替え馬が引かれ、元長はそれへ飛び乗った。
その間にも矢と印地は容赦なく降り続き、騎馬武者たちは馬の首へ身を伏せ、矢を避けながら必死に河原を離れていく。
悔しさに歯を食いしばりながらも、元長は振り返った。
その視線の先では、孫三郎隊が悠然と距離を取り、先ほどの童がまた和紙を口へ当てて大きく手を振っていた。
「まった遊ぼうね〜! ちっくままるちゃ〜ん! オイラ、大和田敦丸だよ〜ん〜! シィクゥヨォロォ〜ねぇ〜!」
乾いた笑い声だけが、河原へいつまでも響いていた。
こうして元長軍は、戦の初日から完全に主導権を奪われる。
足軽は動きを封じられ、騎馬は誘い出され、そのすべてが敵の描いた筋書きだった。
三好元長にとって、それは総大将としての初陣を屈辱で終える戦となった。
貴丸は、遠ざかっていく元長軍の背をじっと見つめ、小さく口元を緩めた。
その瞳には、次の策を思い描くような静かな光が宿っている。
「まだ始まったばかりだよ。さて……本番はこれからだね」
くすり、と悪戯を企む子供のように笑った。
「では、我らも戻るぞ」
貴丸たちが仕掛けた罠は、敵だけでなく味方にとっても危険である。来た道をそのまま引き返すことはできず、一行は安全な河原沿いを大きく迂回して本陣へ戻らねばならなかった。
しかも、総大将たる孫三郎が前線を長く空けるわけにはいかない。
「急ぐぞ」
そう言うと、孫三郎は愛馬の腹を軽く蹴った。馬は砂煙を巻き上げながら、一気に駆け出した。
「ひゃっ!?」
河原を駆け、林を回り込み、湿地を避けながら、一行は本陣への遠回りを続ける。
容赦なく続く激しい揺れに、縄で後ろ向きへ括りつけられた貴丸の顔色は、次第に青ざめていった。
「うっ……、ま、待って……孫三郎さん……もう少し……ゆっくり……」
しかし、孫三郎の耳には届かない。馬はなおも勢いよく河原を駆け抜けていった。
「うっ…げぼっ…ぅおろおろろろおろろろっ……!」
つんと鼻を刺す酸っぱい匂いが風に乗って漂う。
「うわぁぁぁっ!?」
貴丸のすぐ後ろを走っていた泰能が、顔面へまともにそれを浴びて悲鳴を上げた。
「うわっ、貴丸殿っ! め、目と、うっぷ、口に、入ったぁぁっ!」
手綱を片手で押さえながら必死に顔を拭うが、馬は走り続けているため思うようにいかない。
「お、おぇっ……! くさっ……!」
周囲の騎馬武者たちが一瞬呆気に取られ、次の瞬間、どっと笑い声が弾けた。
孫三郎は顔をしかめ、肩越しにちらりと振り返ると、苦笑交じりに呟いた。
「……策は天下一品だが、馬だけは苦手か」
こうして河原には、勝ち鬨ではなく、味方たちの笑い声だけがいつまでも響き渡っていた。
三好長之:三好義長の嫡男。
長之の子:嫡男・之長、次男・長尚、三男・一秀、四男・家長。
之長:三好長慶の曾祖父で、三好氏が畿内に進出するきっかけを作った名将。
長尚:澄元を裏切り細川高国側に付いて兄之長と対立。
一秀:之長の片腕。千熊丸を幼い頃から見守る。
家長:不明だが、長逸の父とする説がある。(長逸の父は長光か長則という説もあり)。
長秀:之長の嫡男。元長の父。元長が8歳前後の時に早世。
長光:之長の三男。
長則:之長の四男。
元長:長秀の子。長慶の父。
結構、この代は不明な部分も多いんですよね。
長秀=之長という説もあり、元長は之長の子といわれる説もあり、長秀の弟であるとする説もあるという。。
なので、上記の系譜で話を進めています。
まぁ、内容はね、、
そう、エンタメとして楽しもうではありませんか!!
えへ。




