第181話 戦〈三好元長軍〉02
〈三好元長軍〉
しかし、その前線の異変は後方の兵や足軽大将たちにはまったく伝わっていなかった。
彼らから見えるのは、竹柵に囲まれた狭い通路の先で、先陣の足が止まり始めているという光景だけである。
もし敵が矢を雨のように射掛けているのなら理由は分かる。印地が飛び交い、兵が次々と倒れているのなら、進軍を止める判断もできる。
あるいは巨大な柵や逆茂木で道が塞がれているのであれば、それも一目で理解できる。だが、そんなものはどこにも見当たらない。
敵の反撃は相変わらず散発的な矢や石だけ。竹柵が左右に置かれているとはいえ、それはただ通路が少し狭くなっているようにしか見えず、進めないほどの障害には映らなかった。
そして何より、先行する兵たちは倒れているわけでも、敵と斬り結んでいるわけでもない。
ただ、その場に立ち尽くしているようにしか見えなかった。
「何をしているのだ!」「敵は目の前だ! どんどん進め!」
後方の足軽大将が苛立ち混じりに怒鳴る。
その声に続いて、別の将も兵を急き立てる。
「押せ! 押し込め!」「立ち止まるな!」
彼らには、そう命じる以外の判断材料がなかった。
目に見える理由もなく先陣が止まっている以上、それは兵が怯んでいるか、あるいは隊列が乱れているだけにしか映らない。
ならば後続を前へ送り込み、勢いで押し出すしかない――それが戦場における、ごく当然の判断だった。
その命令に従い、事情を知らない後続の兵たちは、なおも川を渡り、狭められた竹柵の通路へ次々と流れ込んでいく。
結果として、先陣の停滞はさらに悪化し、元長軍は自らの兵で自らの首を絞めるように、河原の中央で巨大な人の塊となっていった。
こちらは、その後方――。
先陣が河原の先で足止めされていることなど知る由もなく、元長軍は予定通り渡河を続けていた。すでに大半の兵が対岸へ上陸し、残るは馬を引く者と騎馬武者達が川を渡ろうとしているところだった。
「前が詰まっているぞ!」
先頭の停滞に気付いた足軽大将が声を上げる。
しかし、その目に映るのは、点在する竹柵に挟まれた通路で兵の流れが悪くなっている光景だけだった。敵の猛攻を受けているようには見えず、先陣もただ足を止めているようにしか映らない。
「構うな! 横へ広がれ! 広がるのだ!」
号令を受けた兵たちは、竹柵沿いへ寄りながら脇を抜けて前へ進もうとした。だが、それすらも孫三郎軍の思惑の内だった。
竹柵の外側には、人の背丈ほどもある草が一面に生い茂っている。一見すれば、十分に通り抜けられそうな空間だった。
しかし、その草の下には鋭く削った竹杭が地面すれすれに打ち込まれ、さらに一尺ほどの低い竹柵が幾重にも巡らされていた。その間には茨やイラクサがばら撒かれている。
本気で突破しようと思えば、不可能ではない。だが、兵たちはまだ敵と斬り結んでいるわけではなかった。
前方が少し詰まっているだけにしか見えない状況で、誰が好んで茨やイラクサの茂みへ飛び込もうというのか。傷だらけになると分かっている場所へ、自ら身を投げる者はいない。
だから誰もが、草むらへ踏み込むことをためらい、少しでも歩きやすそうな場所を選んで進もうとした。
「うわっ!」
脇へ踏み込んだ兵が、草に隠された竹杭へ足を取られ、そのまま前のめりに倒れる。
別の兵は低い竹柵へ脛をぶつけて体勢を崩し、木々に衣服を絡め取られたところへ茨やイラクサへ触れ、焼けるような痛みに悲鳴を上げた。
「何だ、これは!」「草むらにも罠があるぞ!」
右へ逃げても進めない。左へ回ろうとしても同じだった。
狭い通路へ戻ろうにも、そこはすでに兵で埋め尽くされ、割って入る隙間など残されていない。
兵たちが逃げ場を失い、漸く少しだけひらけた場所に辿り着いて右往左往していた、その時だった。
一人の兵が、草に隠された一本の縄へ何気なく足を引っ掛ける――。
次の瞬間――。
――ビュンッ!乾いた空気を裂く音が河原へ響き渡った。
続いて、――ビュンッ! ビュンッ! ビュンッ! ビュンッ!左右のあちこちから同じ音が一斉に鳴り響く。
「なっ――!」
兵たちが顔を上げるより早く、地面近くまで引き絞られていた太い竹が一斉に解き放たれた。
大きくしなった竹は鞭のような勢いで通路を横薙ぎに払い、兵たちの脛、膝、腿を容赦なく打ち据える。
「ぐあっ!」「うわぁっ!」「足がっ!」
踏ん張る間もなく足を払われた兵たちは、十人、二十人と前のめりに倒れ込んだ。その上へ勢いの止まらない後続が突っ込み、人が人へ折り重なる。
「危ない!」「止まれ!」
叫び声も虚しく、狭い通路は瞬く間に将棋倒しとなった。
しかも跳ね上がった竹は、そのまま通路を横切る巨大な障害物となり、倒れた兵を助け起こそうにも近付くことすらできない。
「起きろ!」「竹をどかせ!」「前へ進め!」
怒号だけが河原へ響き渡る。しかし、転倒した兵たちは立ち上がることすらままならなかった。
ようやく体を起こそうとした瞬間、足裏を鋭い痛みが貫く。
「……痛っ!」「なんだ、この痛みは!」「足に……竹が!」「手にも刺さった!」
倒れたことで、兵たちはようやく自分たちが何を踏んでいたのかを知った。
地面には木片や竹屑、菱の実が無数に撒かれており、草鞋の裏には細かな竹片や木片が幾本も食い込んでいる。さらに倒れた拍子に手や腕を地面へ突けば、そこにも容赦なく木片や菱の棘が突き刺さった。
立ち上がろうとするたび足裏に激痛が走り、踏ん張れば後ろから押されて再び倒れる。そのたび木片や竹屑が手足へ食い込み、兵たちは悲鳴を上げた。
逃げようにも、草むらには竹杭と低い竹柵、茨、イラクサが待ち受けている。
通路へ戻ろうにも、跳ね上がった竹と折り重なった兵たちが完全に道を塞いでいた。
それでも後方では事情を知らない兵たちが、命令のままなおも川を渡り続ける。
「進め!」「止まるな!」
押し寄せる後続は、前方で何が起きているのか見ることすらできない。
前は完全に塞がれ、横へも逃げられず、後ろからは味方が絶え間なく押し寄せる。
こうして狭められた竹柵の通路は人で完全に埋まり、元長軍は河原の中央で身動き一つ取れない巨大な人の塊となってしまった。
その混乱を見計らったかのように――。
「今だ! 射てぇッ!」
敵陣から怒号が轟いた。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ――。今までとは比べものにならない数の矢が一斉に降り注ぐ。
さらに左右の竹柵の向こうからは、印地が唸りを上げて飛来し、身動きの取れない兵たちへ容赦なく叩きつけられた。
「ぐあっ!」「矢だ! 矢が来るぞ!」「盾を上げろ!」
だが、盾を構える余裕などない。
立っている者は倒れた味方につまずき、しゃがめば後ろから押される。折り重なった兵は逃げ場を失い、次々と矢や石の餌食となっていった。
そして――。
「かかれぇッ!」
三淵軍の鬨の声が河原へ響き渡る。
竹柵の向こうから槍を構えた足軽たちが姿を現し、一気に前へ押し出してきた。
「敵襲だ!」
元長軍の先陣にも緊張が走る。
しかし迎え撃とうにも、足裏を傷つけた兵たちは踏み込めず、槍を構えることすらままならない。倒れた者は起き上がるだけで精一杯だった。
「退け! 一度退けぇ!」
誰かが叫ぶ。その声を合図にしたかのように、兵たちは痛みに顔を歪めながら後退を始めた。
足を引きずる者。倒れた仲間へ肩を貸す者。苦悶の声を漏らしながら、それでも必死に後ろへ退いていく。だが、不思議なことに三淵軍は深追いをしなかった。
槍を構えたまま一定の位置まで進み出ると、それ以上は追撃せず、その場で陣形を整える。
敵を討ち取ることよりも、元長軍の前線を押し返すことだけを狙っていたのである。
その結果、傷ついた元長軍の兵は狭い通路へ折り重なるように押し戻され、後続と真正面からぶつかった。
前へ進むこともできず、後ろへ退くこともできない。
河原へ築かれた竹柵の通路は、傷兵と健在な兵とで完全に塞がれた。
こうして元長軍の前線は、まるで蓋をされたかのように完全に閉ざされてしまった。




