第180話 戦〈三好元長軍〉01
〈三好元長軍〉
この地に来て二日目。
昨夜の軍議で定めた通り、三好元長軍は奇策ではなく、真正面から敵陣を押し潰す正攻法を選んだ。
夜明け前――まだ空が白み始めたばかりの頃、陣中では起床の声が各所で上がっていた。
兵たちは眠気を振り払いながら身支度を整え、昨夜のうちに炊いておいた飯や干飯、塩漬けの魚、味噌を溶いた汁などで手早く腹を満たしていく。
今日はいよいよ決戦の日。日の出とともに動き出せるよう、すべての準備は昨夜のうちに整えられていた。
今回、三好の軍勢は五千。対する三淵孫三郎の軍は千ほどである。
作戦は至って単純だった。浅瀬から一気に渡河し、そのまま兵数の差で敵を押し潰す。それだけである。
今回は急ぎの出兵であったため、十分な騎馬を集める時間はなく、軍中の馬も二百騎ほどしか揃っていなかった。
ゆえに、まず足軽が川を渡って対岸を確保し、その後に騎馬武者が続く――昨夜の軍議で決まったのも、その程度のことだった。
だが、それで十分だと誰もが考えていた。
昨日は丸一日、この地で兵を休ませている。十分な休息を与え、飯も食わせた。兵たちの士気は高く、千ほどの敵ならば一気に呑み込める。そう信じる者ばかりだった。
そして何より、この戦は三好元長にとって初めて総大将として軍勢を率いる戦でもある。
若き武将の胸を満たしていたのは、不安よりも期待と闘志だった。
その横へ、一人の男が馬を寄せる。三好一秀である。
「千熊丸よ。良い顔をしておるな」
元長は苦笑しながら叔父を見た。
「叔父上。この戦に勝てば、もう千熊丸などとは呼ばせませぬよ」
一秀は一瞬だけ目を丸くしたが、やがて口元を緩めた。
「ほう。そうなれば良いな」
それだけ言うと馬首を返し、自らの持ち場へ戻っていく。
元長もまた、小さく息を吐いた。子供扱いされるのも、この戦までだ。必ず勝ち、誰もが認める三好の当主となる。その決意を胸へ深く刻む。
そこへ寒川左馬允が静かに馬を寄せ、一礼した。
「元長様。頃合いにございます」
元長は黙って頷くと、ゆっくりと馬へ跨がり、軍配を握った。
眼前には朝靄の残る川辺。その向こうには敵陣が霞み、足元には幾千もの兵が整然と隊列を組んでいる。
湿った土を踏みしめる足音。槍の石突が地を打つ音。鎧の小札が擦れ合う金属音。
無数の音が静かな緊張をまとい、戦の始まりを待っていた。
元長は大きく息を吸い込むと、ゆっくりと軍配を高く掲げる。その一挙手一投足だけで、全軍の視線が一斉に若き総大将へ集まった。
元長は川の向こうに築かれた敵陣を真っ直ぐ見据える。
そして――軍配を力強く振り下ろした。
「進めッ! 川を渡れぇッ!」
若き総大将の号令が、朝の戦場へ力強く響き渡った。
直後――。ドォンッ!
腹の底まで震わせるような太鼓の一打が戦場へ響き渡った。さらに二打、三打と続く。
あらかじめ定められていた進軍の合図である。
「おおおおおっ!」兵たちが一斉に鬨の声を上げた。
まず先陣が動き、その後ろを二陣が続く。雄叫びは川面を震わせ、朝の澄んだ空気を切り裂きながら響き渡っていった。
讃岐衆を率いる香西元定が槍を前へ突き出す。
「讃岐衆、進め!」
続いて阿波衆を束ねる三好長光も太刀を振り下ろした。
「続けぇ!」
両軍は歩調を揃え、一斉に前へ出る。
無数の足軽たちが槍を掲げ、笠を盾代わりに構えながら川へ向かって駆け始めた。
「この辺りは浅い! そのまま進め!」
先頭の武者の声に応え、兵たちは躊躇なく川へ踏み込む。
ざぶん、と大きな水音が響いた。膝ほどの深さとはいえ、流れは決して弱くない。踏み出すたびに水しぶきが舞い、足元の小石が流れに転がっていく。
この浅瀬なら渡河はできる。しかし、馬で一気に駆け抜けられるほど甘い流れではなかった。
脚を取られれば馬はたちまち体勢を崩す。暴れれば後続まで巻き込み、整然としていた隊列も瞬く間に乱れてしまう。
だからこそ、先陣を務めるのは徒歩の足軽たちだった。
まず彼らが対岸へ渡って足場を確保し、安全を確かめたうえで騎馬武者が続く。それが昨夜の軍議で決められた手順であり、今まさに川へ踏み込んでいるのは、槍や長柄を携えた足軽たちであった。
元長は馬上から、その様子を静かに見つめていた。だが、彼の視線が向いているのは兵たちではない。
川の向こうに築かれた敵陣だった。
(……静かすぎるな)胸の内で小さく呟く。
渡河戦とは、本来なら攻め手が最も脆くなる瞬間である。
流れの中では足が止まり、盾も十分には構えられない。隊列は乱れやすく、思うように身動きも取れない。
だから守る側は、この瞬間を狙う。
雨のような矢を浴びせ、印地が唸りを上げて飛び交う。川の中で兵を足止めし、一人、また一人と討ち取っていく。
それが、渡河戦の常道だった。
だが――。
ヒュッ、と数本の矢が飛ぶ。兵の脇をかすめ、そのまま川へ突き刺さった。少し遅れて石が数個飛来するが、水柱を上げるだけで誰にも当たらない。
反撃はその程度だった。
まるで「迎え撃っている」という体裁だけを取り繕っているかのような散発的な攻撃で、兵が倒れる様子もなく、悲鳴一つ上がらない。
渡河は拍子抜けするほど順調に進んでいた。
(妙だ……な)元長の眉間に深い皺が刻まれる。
敵が恐れをなしているのか。それとも兵力が足りず、防ぎ切れないのか。
理由は分からない。だが、このまま対岸へ押し上がれるのであれば、それは紛れもない好機だった。
元長は迷いを振り払うように軍配を高く掲げ、そのまま力強く振り下ろす。
「止まるな! 押し込め!」
「応っ!」
号令に応えた兵たちはさらに勢いを増し、次々と川を渡って岸へ這い上がる。水を払いながら槍を構え直すと、そのまま敵陣へ向かって前進を始めた。
その様子を見た一秀は、口元に余裕の笑みを浮かべた。
「ふっ……しょせん敵は千ほど。三淵なる者も、この大軍を前に臆したのであろうよ」
視線はまっすぐ前方へ向けたまま、勝利を疑わぬ声で続ける。
「このまま一気呵成に押し込み、そのまま捻り潰してくれようぞ」
その隣では寒川左馬允も静かに頷いていた。
(もっと激しい反撃を覚悟していたが……)渡河戦であれば、本来は攻め手が最も脆くなる。
矢と石が雨あられと降り注ぎ、多くの兵を失うことも珍しくない。
しかし現実は違った。
敵の攻撃はあまりにも弱く、腰が引けているようにしか見えない。このままなら、ただの容易い渡河戦で終わる――。
元長をはじめ、その場にいる誰もが、そう考え始めていた。
先陣の兵たちが川を渡り切ると、そのまま河原へと足を踏み入れた。すぐにゴツゴツした場所から砂地へと変わる。
そこには枯れた薄の影に隠れた竹柵が左右へと続いていた。人の胸ほどの高さに組まれた簡素な柵で、いかにも敵が急ごしらえで築いた防柵に見える。
兵たちはそれを避けるように柵と柵の間へ入り、そのまま敵陣へ向かって進んでいった。
竹柵は河原を塞ぐように延々と続いているわけではない。人の胸ほどの高さの柵が、一定の間隔を空けて点々と据えられているだけだった。
壊そうと思えば壊せる。脇へ回り込むことも不可能ではない。だが、敵の反撃は弱く、目の前には進める道があった。
わざわざ立ち止まって竹柵を壊そうとする者は一人もいない。
兵たちは何の疑いもなく、その道を選び、竹柵に導かれるように前へ進んでいった。
最初のうちは何の違和感もなかった。道幅も五十間ほどあり、兵たちは横に広がったまま整然と歩みを進めることができる。
しかし進めば進むほど、左右に置かれた竹柵は少しずつ内側へ寄り、通れる幅は四十間、三十間、そして二十間ほどへと徐々に狭まっていった。
「少し狭くなってきていないか?」「構うな! 進め!」
後方から号令が飛ぶ。敵の反撃は依然として弱く、散発的な矢や石が飛んでくる程度である。ならばこのまま押し切れる――そう誰もが考えていた。
後続の兵は次々と川を上がり河原へ入り込み、前の兵を押し出すように進んでくる。狭められた道へ幾百、幾千という兵が流れ込み、隊列は自然と密集していった。
そのときだった。
「なんだ、足の裏がチクチクするな…」
先頭近くを歩いていた一人の兵が、思わず眉をひそめた。
草鞋の底へ小石でも入り込んだのかと思うほどの、小さな痛みだった。
戦場では誰も気にも留めない程度の違和感だった。兵はそのまま進み続けた。
しかし十歩二十歩と足を運ぶうちに、違和感はゆっくりと強くなり、踏み出すたびに足裏へ鋭い痛みが走るようになっていく。
やがて同じような声が、あちらこちらから上がり始めた。
「足が……」「あっ……!」「何だこれは!」
悲鳴は数人から十数人へ、やがて数十人へと連鎖し、隊列のあちこちへ広がっていく。
それでも兵たちは足を止めなかった。いや、止められなかった。
戦場で立ち止まれば後ろから味方が押し寄せ、隊列を乱した者として怒号を浴びる。それを知っているからこそ、誰もが歯を食いしばり、「この程度なら」と自分に言い聞かせながら前へ進み続ける。
だが、その一歩ごとに痛みは確実に増していった。
「いてぇ!」「ぐっ……!」「足に何かが刺さる!」
無理に歩こうとした兵ほど足取りは急激に鈍り、やがて耐え切れず膝をつく者が現れる。足裏を押さえ、その場へしゃがみ込む姿を見て、ようやく周囲も異変に気付き始めた。
兵たちの足元には、パッと見ただけでは目に入りにくい無数の罠が仕掛けられていたのである。
河原の砂地の一面に撒かれていたのは、鋭く尖らせた木の小枝、細かく割いた竹の切り屑、そして大量の菱の実だった。それらは砂利に紛れるように散布され、一見しただけではよく分からない。
これほどの量を一夜で用意できるものではない。敵はこの渡河地点を選び、何日もかけて木片や竹屑、菱の実を集め、河原へ撒き続けていたのである。
草鞋は藁を幾重にも重ねて編んだだけの履物である。
最初の数歩は、まだ耐えられる。しかし歩き続けるたび、木片や竹片が少しずつ藁へ食い込み、やがて草鞋を貫いて足裏へ達する。
菱の実の鋭い棘もまた、踏みつけるたびに容赦なく肉へ食い込んでいった。
傷そのものは浅い。血が噴き出すような傷ではなく、命に関わるものでもない。しかし、それが何本何十本と足裏へ突き刺されれば話は別だった。
この罠の本当に恐ろしいところは、最初から兵の動きを止めないことにある。
足裏に「チクリ」と何かが刺さる程度の痛みなら、戦場の興奮の中では誰もが我慢してしまう。
むしろ、その程度で立ち止まれば後ろから押され、味方の怒号を浴びるだけだ。兵たちは「石でも踏んだか」と考え、そのまま歩き続ける。
だが、その判断こそが罠だった。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、草鞋へ入り込んだ木片や竹屑、菱の棘はさらに深く足裏へ食い込み、刺し傷は少しずつ増えていく。痛みは突然襲ってくるのではない。
じわじわと、しかし確実に積み重なり、気付いたときには足裏全体が無数の傷に覆われている。
その頃には、もう遅い。前へ進めば足裏を刺すような痛みが走り、後ろへ退いても同じ痛みが襲う。
草鞋の中には細かな木片や竹屑が無数に入り込み、戦場の只中でそれを一つひとつ取り除く余裕などあるはずもない。
だからといって草鞋を脱げば、今度は一面に撒かれた菱の実や尖らせた竹片を裸足で踏むことになる。
歩いても地獄。止まっても地獄。草鞋を脱いでも地獄だった。
それは兵を討ち取るためではなく、人の心理を利用し、自ら歩かせ、自ら動けなくさせるために考え抜かれた、実に巧妙な罠だった。
そして、その罠は狙い通りの結果を生み始める。
苦痛に耐え切れず足を押さえる者、膝をつく者、その場に立ち尽くす者が次々と現れ、狭められた竹柵の通路は瞬く間に塞がれていった。左右へ逃れようにも竹柵が進路を遮り、後ろからは事情を知らない味方がなおも押し寄せてくる。
こうして先陣は完全に足を止められた。
密集していた隊列はみるみる渋滞を起こし、つい先ほどまで勢いよく敵陣へ押し寄せていた元長軍は、川を渡ったただ中で、その進撃の勢いを完全に失っていった。
まぁ、フィクションですから。
竹屑ねぇ、、へへっ、、その辺を汲んでお楽しみくださいね。。
ただ、足の怪我、、ちょっとでも嫌ですよね。。
畿内の戦、、皆さんの注目度が、、高いんですね。。
まぁ、名の知れた武将(の親世代)が多いからなぁ。
検証や考証などに、、ものすごく時間がかかるっす。。
もしかしたら、後で書くかもしれませんが、
この頃はまだ、堺に三好はそれほど影響力がなかった時代だと想定しています。
本格的に堺を引き込むのは、あと数年後あたりからでしょうかね。




