第179話 開戦前:三好軍本陣
こちらは三好軍本陣。
宇治川を挟んだ敵陣を見据えるように張られた三好軍本陣の幕内には、若き総大将・三好元長を中心に、一門や重臣たちが居並んでいた。
右には三好一門の長老・三好一秀、年長者である三好長則、阿波以来の重臣・三好長光、軍略を担う寒川左馬允、讃岐衆を率いる香西元定ら、三好家を支える柱たちが揃っている。
幼くして父を失った元長にとって、彼らは単なる家臣ではなかった。父代わりとなり、時に厳しく、時に温かく導いてくれた者たちである。
中でも祖父・三好之長は、元長にとって特別な存在だった。
祖父という言葉だけでは足りぬ。父であり、師であり、三好家を背負う者としての道を示した人物である。
父を失った元長を引き取り、武将としての生き方を叩き込んだのは、他ならぬ之長であった。
剣の握り方。兵を率いる心得。家を背負う者としての覚悟。そのすべてを、元長は祖父から学んだ。
だからこそ、元長にはいつか之長へ恩を返したいという思いがある。
そしてもう一つ。父・長秀が果たせなかった志を、自らの手で成し遂げたいという思いもあった。
それは、主君・細川澄元を再び京へ迎え入れ、細川京兆家の正統を世に示すことである。
細川京兆家の家督を巡る争いは、すでに十年近く続いていた。
澄元と高国。どちらが細川家の正統なる当主なのか。その争いは将軍家をも巻き込み、京の政は幾度となく乱れた。
都を追われ、再び戻り、また追われる。人々は明日の世を治める者が誰になるのかすら分からぬ日々を過ごしてきた。
その長き争いに、今こそ終止符を打たねばならない。主君・澄元を再び京へ迎え、乱れた世を正す。
それこそが祖父・之長が生涯を懸けて追い続け、父・長秀もまた果たせぬまま世を去った三好家の悲願であった。
だからこそ――。
この宇治川の戦だけは、何としても勝たねばならなかった。
軍議はすでに大詰めを迎えていた。一秀が元長へ向き直る。穏やかな声音だった。
「千熊丸よ。明日は堂々と正面より攻めるのであろうな。敵は、たかだか千余。何やら策を弄しておるようではあるが、恐れるほどのものではあるまい」
元長はわずかに眉を寄せ、苦笑する。
「叔父上……もう幼名で呼ぶのはおやめくだされ」
そう言いながらも、すぐに表情を引き締める。
「されど、物見の報告では敵は何やら動いておるようです。本当に正面から攻めて構わぬか。寒川左馬允、そなたはどう見る」
名を呼ばれた寒川左馬允は、静かに頭を下げた。
「はっ。私も一秀様と同じ考えにございます」
そして、落ち着いた口調で続ける。
「渡河の戦とはなりますが、物見の報告では川は深い所でも腰下ほど。流れもさほど急ではございませぬ。渡河に大きな支障はないかと。敵は千余。こちらは五千余。兵数の差を考えれば、正面から押し切れるものと存じます」
元長は静かに頷き、今度は香西元定へ視線を向ける。
香西元定も一礼した。
「敵将は三淵孫三郎にございます。多少の策を弄する知恵はあるようですが、これまでの戦ぶりを見る限り、大軍を相手に覆すほどの将とは思えませぬ」
その言葉に三好長光も頷いた。
「阿波衆も同意にございます。敵がどれほど策を弄そうとも、兵力の差は覆せませぬ」
諸将の意見は、ほぼ一致していた。
三好軍五千余。対する三淵勢は千余。しかも宇治川は深くなく、渡河そのものも難しくない。
普通に考えれば、三好軍が敗れる理由は少なかった。
その時だった。末席に控えていた十河易正が、一歩前へ出た。
「元長様。一つ申し上げてもよろしゅうございますか」
「申せ」
「私が放った物見より、少々気になる報せが参っております」
易正は慎重に言葉を選ぶ。
「敵陣に、見慣れぬ童がおり、諸将へ盛んに指図していたとのこと。一度、その童が何者か、お調べになられてはいかがでしょう」
その言葉に、一秀は小さく笑った。
「童、とな。戦場に童などおるものか。物見の見間違えであろう。それとも孫三郎が稚児小姓でも連れておるのではないか」
幕内に笑い声が広がった。
「左様」「童が戦をするものか」
諸将も口々に笑う。十河易正は、それ以上は何も言わず、一礼して元の位置へ戻った。
しかし、元長だけは笑わなかった。腕を組み、しばし考える。(戦場に……童か)
妙な話ではある。稚児小姓を側に置く武将は珍しくない。元長自身にも、目を掛けている小姓はいる。
しかし、それを戦場へ連れて来る者など聞いたことがない。ましてや、諸将へ指図していたというならば、ただの童ではあるまい。
ならば、その童とは何者なのか。胸の奥に、小さな違和感が残った。
だが、その疑問を深く追う前に、一秀が口を開いた。
「千熊丸。そなたが総大将なのだ。まずは己の考えを信じよ」
元長は一秀を見る。
「……はい」
その言葉に、元長は静かに頷いた。
やがて軍議は終わりを迎えた。
諸将はそれぞれ頭を下げ、持ち場へ戻るため幕外へ出ていく。
旗が風を受けてはためき、鎧や具足の擦れ合う音が遠ざかっていった。
やがて幕内には、元長と一秀だけが残った。先ほどまで重臣たちの声が響いていた場所が、今は静かな空間になっている。
外では兵たちが明日の戦に備え、慌ただしく動いていた。馬の嘶き。足軽たちの掛け声。風に揺れる旗の音。
そのすべてを聞きながら、元長はしばらく黙っていた。
一秀は、その様子を見てゆっくり近づく。そして、元長の肩へ手を置いた。
「千熊丸よ。急な役目であったが、よくここまで務めた。されど案ずることはない。我ら三好一門がおる」
一秀は優しく笑う。
「澄元様にも、そして聡明丸様にも、そなたの武功をお見せ申せ」
その名を聞いた瞬間、元長の表情が少しだけ変わった。
「聡明丸様……ですか」
しばし沈黙する。
「確かにあのお方は、主君・澄元様の嫡男にあられる。いずれ我らがお仕えすべき御方です。されど叔父上にだけは申しておきます」
そこで言葉を切って声を落とした。
「私は、あのお方が少し恐ろしい」
一秀は眉を上げる。
「恐ろしいとな?」
元長は静かに頷いた。視線を落とす。
「利発なお方なのは間違いございませぬ。ですが……利発すぎるのです。あのお歳で、人の顔を見るだけで、その者の考えを見透かしておるような目をなさる」
「口では笑っておられても、その奥に何を隠しておられるのか分からぬ時があるのです」
一秀はしばらく黙った後、苦笑した。
「考えすぎじゃ、千熊丸。聡明丸様はまだ幼き御子。それだけ賢いということよ」
そして、元長の肩を軽く叩く。
「それに、そなたには我ら三好の一門がおる。案ずることなど何一つない」
元長はしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。そして、ふっと笑った。
「……では叔父上」
「なんじゃ」
「この戦、私が勝ちましたら、もう『千熊』とはお呼びくださるな」
一秀は一瞬目を丸くする。しかし、すぐに口元を緩めた。
「ほう。それほどの覚悟か。よかろう。その時は考えておこう」
元長もまた笑みを返した。
「……分かりました。叔父上」
深く頭を下げる。
「これからも、お力添えをお願いいたします」
一秀は満足そうに頷いた。
「無論じゃ。この老骨、最後までお供いたしますぞ」
そう言い残すと、一秀はゆっくりと幕の外へ歩み去った。
やがて陣幕の中には、静かな時間だけが残った。
元長は宇治川の流れを見つめていた。
父・長秀が果たせなかった志。祖父・之長が託した三好家の未来。そのすべてを、この若き肩に背負っている。
やがて元長は立ち上がった。そして幕の外へ出る。
そこには、出陣を前に控えた諸将と兵たちが集まっていた。
一秀、長則、長光、寒川左馬允、香西元定らも再び元長の前へ並ぶ。
元長は全軍を見渡した。そして声を張る。
「皆の者、聞け! 我らが戦うは、ただ目の前の敵を討つためだけではない! 主君・澄元様の御為。そして、三好家の未来のためである!」
兵たちが顔を上げる。
「明日の戦、必ず勝つ! 全軍、渡河の準備を整えよ!」
「おおっ!」
鬨の声が宇治川の夜空へ響き渡った。
伝令が走り、兵たちが動き始める。
旗が大きく揺れる。戦の気配が、三好軍全体を包み込んでいく。
その喧騒の中で、先ほど十河易正が口にした奇妙な報せは、元長の意識から次第に薄れていった。
だが――。
元長も、一秀も、まだ知らない。
この宇治川の戦が、単なる兵数の差では決まらぬ戦となることを。
そして、この戦場に現れた一人の童が、やがて三好家の未来を大きく変える存在となることを。
三好元長:三好長慶の父。
三好長秀:三好元長の父。この時にはすでに死亡。
三好(芥川)長則:三好之長の子。阿波芥川氏を継承したといわれる。
三好長光:三好之長の三男。三好長逸の父。
聡明丸:後の細川晴元。
十河易正:十河一存の養祖父。
稚児小姓:武将の身の回りに仕えた少年たちの呼称。主従関係における男色の対象とされることも多い存在。




